投稿者: hangontan 投稿日時: 2020-7-12 10:15:44 (210 ヒット)

この本に出合うまで、前田慶次郎のことは知らなかった。破天荒な人物像はまるで漫画の主人公みたい。こんな人が本当にいたのだから、驚かされるし、虜になってしまうのも無理はないだろう。

歴史通の間では「傾奇者」としての評判が定着している。いつの時代からそのイメージが植え付けられたのかはしらないが、ネットで見る限り、その印象は不変であるらしい。本作品でもその路線は踏襲されていて、膂力があって、男前、義理人情に厚く、かつ偏屈者という戦国時代に現れた希代の武将が描かれている。

彼の日常は一般人にとっては非日常で、そんな自分にない世界観を持って生きる人物にあこがれを抱くのはいつの時代も変わらないのかもしれない。


投稿者: hangontan 投稿日時: 2020-7-12 9:13:12 (224 ヒット)

「教団X」を最後にしばらく作者から遠ざかっていたが、友達の書評にこの作品が紹介されていて、さて作者はどう変貌を遂げたのか、それを確かめたくて手に取った。

冒頭から、序盤のつかみはよくできていて、この先どのように話が進んでいくのか、興味津々でページをめくる。「いったいこの先どうなるのか、この挿話はこの先どう展開していくのか、またどのようにして回収されるのか」そういう気持ちを逸らさせないものはある。だが、いくつか組み込まれている挿話の整合性がとれないまま、物語は中盤から終盤へ向かっていく。つまり、途中で蒔かれた「ネタ」の回収がされないままページが進んでいく。それでいて、マジックリアリティーの世界かと思ったらそうでもない。

一つ、一つの挿話自体は読みごたえがあり、それはそれで短編として終結させてもよいほどの完成度がある。特に、終盤の入り口にあたる戦場のラッパ吹きの独白は鬼気に迫るものがある。しかし、「回収されない布石」ストレスの方が強く働いてしまい「よくできた作品だが、なんかしっくりとこない」という読後感となってしまう。
たぶん、映像化して、脚本でその奥歯に挟まった小骨をうまく取り除いてくれてなら、大ヒット間違いなしのエンターテインメント作品になると思う。

この作品を読む限り、「教団X」で抱いた作者の行き詰まり感からは脱したように見受けられる。けれど、私が苦手とする村上春樹に見られるような「中途半端なわけのわからない世界」を描く作風に似てきた感もあり、ちょっと戸惑っているというのが正直な気持ち。

85ページ中ごろに「金持ちの西洋人が年を取って、妻が死んでしまったりした後、・・・ふっていなくなることがあるらしい」という一文が出てくるが、この「ふって」という言い回しまたまた喉に引っかかってしまった。


投稿者: hangontan 投稿日時: 2020-6-26 16:48:13 (246 ヒット)

称名の滝を撮りに八郎坂に上がる。前々日の大雨で登山道が荒れていないか心配だったが、あまり影響がなかったようだ。

滝見台のベンチを過ぎてさらに先に進む。どこからも滝は見えるのだが、今回は少し上がりすぎたようだ。画角と構図に悩み、明暗差への対処に手間取り、いまいち意図した写真にならない。

弘法の草原に出ると程よい風が初夏を感じさせる。トキソウには若干時期が早かったようだが、タテヤマリンドウが盛りであった。

ウド、ウドブキの畑が随所にあり、ネマガリも太いのが出ていた。

























投稿者: hangontan 投稿日時: 2020-6-26 16:39:42 (229 ヒット)

Tに誘われて再びクズバ山に行くことになった。

7時30分、東小糸谷出発で11時山頂着。この間数人の下山者とすれ違う。1650のピークに立つと、すでに太陽は真正面の位置。ベタな写真にしかならない。くっきりとした山肌、射光を求めるなら、5時過ぎには出なければならないだろう。

我々が着いたころは山頂に数人くつろいでいたが、次から次と上がてってくる。登山道が付けられてから、剱展望の人気のハイキングコースとなってしまった。

下山し始めた頃はまだ剱に小さな雲がいくつかまとわりついていただけだったが、そのうちガスに覆われてしまい、まったく見えなくなってしまった。それでも、登ってくる人が絶えない。せっかく苦労して登っても視界が効かないのでは残念無念だろう。

今回の収穫としては、ツマトリソウとツバメオモトが確認できたこと。前回来た時から4週間たつ。山はすでに夏模様。イワウチワ、ショウジョウバカマはあとかたもない。もう少し時期をずらせばまた別の花が見られるのだろうか。と思いめぐらす。
















投稿者: hangontan 投稿日時: 2020-6-19 8:55:24 (253 ヒット)

























牛首を過ぎて平に向かう。春にはいつも利用する左手の谷にはすでに雪はない。平らに出ると見渡す限り緑一色。大日岳の斜面も雪がまばらに付いているだけ。爽やかな風が草原を吹き抜ける。コシアブラは採り頃を過ぎている。トキソウでも咲いてないかと足元を気にしながら行くとチングルマがちらほらと咲き始めている。小屋を過ぎて最初の木道の休憩所で一本取る。

雪が出てくるのは二股あたりから。雪の上を行くが、ルートはほぼ夏道通り。傾斜がきつくなってきたところでアイゼン装着。雪解けは早く、ところどころ雪渓が割れていて、ジグを切りながら進む。夏道では右に大きくカーブを切る少し手前で行動を打ち切った。

あと1時間もすれば稜線に出られるだろうが、ここから先、雪の付き方が予測できなかったのと、帰りトレースが消えてしまうこと、そして午後から雨の予報がでていたので、無理をしないことにした。単独で、不確定要素が多い場面に踏み込む勇気はまだない。

登山口起点:小屋を過ぎて最初の木道休憩地まで2時間 2185まで1時間40分


投稿者: hangontan 投稿日時: 2020-6-14 13:35:21 (200 ヒット)

30年以上も前に読んだときは、やたら長すぎる感だけが印象に残った。今回、読み直ししてみると意外に面白く読めた。ここ何年か歴史小説を取り込んできたせいもあるのだろうが、20代の頃はまだこの作品に接する素地が自分には出来ていなかったのだと思う。作品は変わらずそこにあるのだから、読み手に変化があったとみるのが筋だろう。歳をとるというのはそういうことなのかもしれない。


投稿者: hangontan 投稿日時: 2020-6-14 13:34:20 (227 ヒット)

1951年に発表されたというからかなり古い本。1999年に装丁も新たに発刊された。
登山がらみのミステリーかと思ったら、そうではなくマッターホルンの麓を舞台とした物語だった。ミステリーとしては古典的で、ポアロが出てくる探偵劇と雰囲気は似ている。事件に遭遇したいわくありげな登場人物のアリバイを追って物語は進んでいく。単純なストーリー展開だが、ノスタルジックな気分に浸らせてくれた。


投稿者: hangontan 投稿日時: 2020-6-10 18:51:57 (248 ヒット)











事故に遭う前のいつの頃だったか、ブナクラのコルに向かう途中で、最初に通過する小ブナクラ谷出合い付近に咲くシラネアオイが目にとまった。あれ、こんなところにあったんだ、と思ったことを覚えている。あれから、それが気になっていたが、事故を起こしてからまる2年間ブナクラ谷へは触手がいかなかった。今回はそれを確かめに行った。

大猫山登山口付近で堰堤工事が行われているが、作業道はその先まで続いている。小ブナクラ谷を過ぎて、大ブナクラ谷のすぐ手前まで作業車が入る。工事関係者の方に伺ったら、この先崩壊地があって、さらに1.5キロ先まで、作業道が延びる予定、とのこと。まぁ、いつになるかはわからないが。そして、問題の小ブナクラ谷だが、そこには川底のところどころにマーキングがしてあった。これも、工事の方に聞いたところ、堰堤工事のための測量だが、いつになるかは聞いていない、とのことだった。

さて、目的のシラネアオイは以前と同じように咲いていた。ちょっと時期が遅かったのか、花はまばらだった。だが、そこかしこに咲いていてとてもうれしかった。時期が遅かったのが幸いしたようで、ウドブキ、、ウドも畑のようになっていた。

今回は久しぶりに登山道を離れ、谷筋を歩いてみたが、自分の山の原点に立ち帰ったような気分。1人だと深入りはできないが、ちょっとずつ駒を進めていこう。


投稿者: hangontan 投稿日時: 2020-5-31 18:34:57 (263 ヒット)














投稿者: hangontan 投稿日時: 2020-5-25 11:44:59 (353 ヒット)

東小糸谷登り口起点 中山のコルまで1時間(ゆっくり)1650まで(1時間15分)山頂まで(1時間)コシアブラは時期遅く、ユキザサ、エラしかなかった

1700くらいから雪を拾う。山頂は混んでいる。山頂のミネザクラに初めて気づいた。あと1週間で満開だろう。20人くらいとすれ違う。馬場島はテントもいくつかあり、活気を戻しつつある。

この時期のクズバ山がSNS上でハイキングルートとして紹介されていることもあってか、軽装の人が目立つ。初心者と思われる人がピッケルも、ポールも、アイゼンもなく雪の上を歩いている。


























投稿者: hangontan 投稿日時: 2020-5-15 6:36:55 (285 ヒット)











白萩川の車止めに着いたら自分と同じ車種、同色の車が止まっていたので挨拶をしに行った。そしたら、その方は全国レベルの山岳写真家のTさんで、これから大猫まで剱の写真を撮りにいくのだという。ご同行を申し出たら、快く受けてくださった。

大猫の登りは2年前の事故以来。あのときは、大猫を登頂した後、また別の日にブナクラのコルへ向かう途中雪渓を踏み抜いて右膝蓋骨骨折とあいなった。

剱が真正面に見えるこの尾根は好きな山の一つである。Tさんと写真を撮っていて思ったのだが、何故この尾根に魅かれるのか、その理由が今更ながらわかった。それは、自分が通った剱の峰々、尾根と谷、それらのすべてがこの尾根から眺められるからだと。たしかに、ここに来るたびにかつて自分が辿った足取りを思い返していたが、Tさんと写真の構図について論議していると、ふと、そのことに思い当たったわけだ。頂を目指すのは確かに一つの目的だが、山から下りたあと、その山を振り返ってみるのもまた楽しみの一つである。この場所にくれば、この尾根からは、自分が歩んだ道、これまでの人生が垣間見れる、だから、この尾根が好きなのだ。

で、一登りして、樹林帯を抜け、剱が一望できる場所まで。そこで、カメラを出して、めいめい撮影にかかった。うまい具合に雲も演出してくれている。Tさんは丁寧に山の撮り方について教えてくれた。もっとも、こちらが事細かく質問責めにしたしせいもあるのかもしれないが、面倒くさがることなく、親切に教えて下さった。それは、手取り足取り、まるで教え子に諭すような話しぶり。これまで、写真は独自の無手勝流で、誰にも教えを乞うたことがなかった。なので、Tさんの一言一言はとても新鮮で、納得のいくものだった。これまでの我流の撮り方から、一枠抜け出すきっかけになった。

山は行ってみければわからない、今日もそんな一日だった。


投稿者: hangontan 投稿日時: 2020-3-27 14:17:16 (233 ヒット)

前作「阿黒篇」の続き、舞台は京都へ。
藤原緒嗣にすり替わった怨魔と緒嗣のライバルである藤原良房との抗争を軸に嵯峨上皇亡き後の皇位争いをからめ、魔界の盟主総門が企む地上征服を阻止しようとする空海(死後復活を遂げた)らの伝奇活劇。総門は美貌の死魔であるシバを半人半獣の鵺として蘇らせ、役小角らと共に京の夜に跋扈する。それに対し、空海は和気諒の力を借りて不動明王や愛染明王出現させ、反骨精神から野狂とも称された小野篁らと共にこれに対抗する。
阿黒篇同様、歴史の中に伝奇物を挿話として組み込み融合させており、歴史・伝奇物好きにはたまらない作品となっている。


投稿者: hangontan 投稿日時: 2020-3-27 14:15:09 (242 ヒット)

時代は一気に平安時代へと遡り、そして舞台は再び陸奥へ。
一作目同様、伝奇小説の面白味を堪能できる。加えて、今回は歴史度がかなり高い内容となっている。よく知られている歴史、坂上田村麻呂が征夷大将軍となって蝦夷を併合させたこと、その流れを汲んで、その時代背景を一つの骨子として、SF度、伝奇度をうまく融合させた物語となっている。というよりは、時間軸に史実を置いて、伝奇をその場面場面に織り込むように刷り込ませ、裏歴史なるものを描いている感がある。

ところで、本作品のあとがきで作者は以下のように述べている
『総門谷』の再開である。自分でもちょっと信じられない。
ほぼ六年前の今頃に『総門谷』の最後の行をワープロのディスプレイ上に打ち終えた時、すべてが完結した、と思った。その感慨には小説だけはなく、自分の青春や、興味や、情熱その他、あらゆるものが含まれていた。自分はもう物書きとしての仕事を果たしてしまったのではないか・・・とも思った。読者にこの小説がどのように受け止められようと、自分にとってはこれが限界だと感じたのだ。これ以上の作品を書けるとは思わなかったし、アイデアも使い果たしてしまった。

自分でも驚いたのだが、これはまさしく、自分が前作を読んだときに抱いた感想を裏打ちさせてくれた内容だ。つまり『伝奇小説とミステリー、そしてSFの要素てんこ盛りで、これでもかこれでもかとかぶせてくる膨大な未知の物語、に当時は圧倒されてしまっていた』ということ。あながち自分の印象は外れていなかったようだ


投稿者: hangontan 投稿日時: 2020-3-27 14:12:43 (220 ヒット)

昭和60年に初版が発行されたときに読んでから30年以上もたっての再読。当時はわくわくさせて読んだのを覚えているが、内容はからきし覚えていない。そして、いつか読み返してみようと思っていた一冊。
さて、その内容は。初めて読んだときに抱いていた印象とは、どんなものだったか正確には覚えていないが、今とは少し違っているように思う。というか、大きな隔たりがあるようだ。読み返して思うのは、伝奇小説とミステリー、そしてSFの要素てんこ盛りで、これでもかこれでもかとかぶせてくる膨大な未知の物語、に当時は圧倒されてしまっていたのだと思う。だが、今思うのは、ちょっと大風呂敷に過ぎるということ。詰め込み過ぎがあだとなって、逆に詰めが甘い。B級テレビドラマか映画を観ているような感じで、エンタテインメント性には申し分がないが、それ以上の作品ではなかったようだ。
「総門谷」は「総門谷R」へと引き継がれていくのだが、これも内容は全く覚えていない。どんな物語だったのか、楽しみにして読んでみようと思う。


投稿者: hangontan 投稿日時: 2020-3-11 11:35:41 (271 ヒット)

誰の作品だったか忘れたが、一度トライして難解なので途中であきらめた「平家物語」。もしかしたら、宮尾登美子の本なら読みやすいのではないかと思って手に取った。令和2年に入ってから読み始め、2月中旬に読み終えた。読みやすいとまではいかないが、平家物語の世界観とその時代背景のおおよそは掴めたのではないかと思う。物語を事細かく追っていくにはあまりにも登場人物が多く、その関係が複雑にすぎる。もう一度手に取って読み返したら、その辺のところがもう少し頭に入ってくるかもしれない。

それにしても、「おごれる人も久しからず」謡われた平家の栄華は30年余り。本当につかの間の天下だったようだ。30年といえば、長い歴史からみればほんの一コマにすぎない。それなのに、平清盛や平家のことを知らぬものはいないくらいその名は一つの時代として広く認識されている。そこのところのギャップというか、それほどの時代だったのかな、という印象が強く残った。


投稿者: hangontan 投稿日時: 2020-2-8 17:57:55 (255 ヒット)













久しぶりに雪となって、冷え込みもきつかった。朝、家の前の道路はツルンツルンに凍っていた。馬場島までの道を考え遅い出発。伊折を出たのが10時過ぎ。スノーシューで膝下までのラッセル。先行者がいたがすぐに追いつき、追い越す。久しぶりの新雪ラッセルはとても気持ちがよい。上空はやや霞んでいるが、剱がばっちり見え、最高の身分。剱センター跡までたっぷり2時間かかった。山に登るにはもう少し雪が欲しいところ。


投稿者: hangontan 投稿日時: 2020-1-8 17:54:45 (252 ヒット)






















投稿者: hangontan 投稿日時: 2019-12-27 18:35:38 (277 ヒット)






投稿者: hangontan 投稿日時: 2019-12-24 12:34:43 (275 ヒット)

最近の作品はややトーンダウン気味でがっかりの連続だったが、この作品でちょっとだけ息を吹き返した感がある。だが、かろうじて及第点といったところで、初期の頃のような、切れ味、ワクワク感、スリル感にはほど遠い。
今回のテーマは「ダイヤモンド業界」。これでまたダイヤモンドに関する薀蓄が増えた。

訳者あとがきの中にジェフリー・ディーヴァーの作品手法「必勝フォーマット」についての記述がある。「何が起きたのかを振り返って解き明かす推理小説ではなく、このあとどうなるのか、何が起きるのかに読者の興味を惹きつけるスリラー小説であること、事件発生から解決まで三日ほどの短期決戦であること、データマイニングやイル―ジョン、今回のダイヤモンド業界など作品ごとのテーマを明示すること、最低三つはひねりを用意すること・・・を主軸として踏襲しつつ、作品ごとに異なる要素を盛り込んで肉付けしていく」

なるほど、本作品は「必勝フォーマット」に沿っているのは間違いない。確かに、この先どうなっていくの?こいつが犯人のはずはないだろう、という思いは常々念頭にあって、その期待が裏切られたり、読み通りだったりに一喜一憂しながら読ませてくれる。「ひねり」にも、あえて軽くしたものや、強引なものも織り交ぜて、それらを読者が推し量れるような余地も用意してある。だが、何か物足りなさが残る。「短期決戦」はわかるが、スピード感がいまいち。悪い奴ら、リンカーン、サックス側双方に迫力や凄みが欠けている。作品としての「飢え」が感じられない。


投稿者: hangontan 投稿日時: 2019-12-15 13:35:24 (258 ヒット)

電気工事の図面引きの「本島」、出始めの頃。姪の強姦事件を薔薇十字社に相談に行ったのが運の尽き。榎木津の下僕仲間に引入れられてしまう。釜から瓶、そして山嵐事件へと続く。陰鬱さ、おどろおどろしさよりもコメディに徹した探偵物語三編。京極堂シリーズにおいて、「百鬼夜行 陰」はスプリットボール的な感じだが、本作品は大きく曲がるカーブの曲がり始め的な印象を受けた。


投稿者: hangontan 投稿日時: 2019-12-15 13:33:39 (297 ヒット)





久しぶりの笠取山。
昨日、茗荷平山でカンタケに出会って、そういえばこの山にもあったはず、と思い出して、出かけたのがこの山。
この山は雪のある時期には城山までの縦走路の起点となる山。また、秋から冬にかけてはキノコの山となり、幾度か通ったことがある。一時期、どこを歩いてもナメコの群生にありつけたのだが、その朽ち木も老化が進み、菌床にすらならなくなってしまった。それでも、山は行ってみなければわからない。無いならないで、その確認もしてみたかった。
結局見つけたのは、帰路、半分朽ちかかっていたミズナラの立ち木一本。まだ開ききってはいないが、それでも味噌汁一杯分にはなる量。全くゼロよりマシだろう。


投稿者: hangontan 投稿日時: 2019-12-15 13:31:28 (259 ヒット)









新調した登山靴モンベルアルパインクルーザー2000の慣らしとリハビリを兼ねて出かけた。それにしても、いつになったらリハビリ山行から脱することが出来るのだろうか。

長く使っていたハンワグの靴底が剥がれ、自分で接着剤で処置したが、それも剥がれたので仕方なく買った。数年前に底がすり減って一度底を張り替えたことがあるので、二度目だから、まぁ、諦めもつく。だが、そのモンベルの靴、なかなか足になじまない。アッパーが皮でできているので、履きこめばそのうちなじんでくるかと思ったのだが、当てが外れたみたい。

さてこの山、やはり雪がない。登山道に積もった枯れ葉が冬を感じさせるのみ。稜線に出れば、天下一品の大パノラマが広がる。ハゲ山に2時間ほどで到着。まだお昼前だったので、引き返して、茗荷谷山で昼食とすることにした。
ベンチに腰掛けて、うっすらと雪の乗った剱周辺の山々を目にしながら、ポタージュスープを溶かし、ハムサンドとジャムパンをほおばる。30分ほど景色を楽しんで山頂を後にした。

行動時間 日石時パーキング起点 4時間30分
カンタケ少々 味噌汁二杯分


投稿者: hangontan 投稿日時: 2019-12-10 10:31:42 (279 ヒット)















12月2日から伊折のゲートが閉じて、また静かな山歩きの季節がやってきた。
今年は11月になっても暖かな日が続き、12月初旬もその傾向は同じ。ゲート付近は全く雪がない。雪の状態が分からなかったので、冬用の靴を用意してきたが、いらなかったようだ。もちろん、スノーシューは置いていく。ザックにカメラセット2台と三脚を入れて、出発。
雪は少ないものの、快晴の元、白く雪をまとった北方稜線の連なりが青空に映えて眩しく光る。こんな光景がずーっと続く馬場島への道は、ゲートが閉じてからが本番となる。小又橋手前の杉で覆われた道路あたりから雪が少しずつ現れる。融けているところはアイスバーンとなっているので、わずかに残った雪を拾いながら歩く。ゾロメキ近くになると、よけいに氷が張っていて緊張する。

ゾロメキを過ぎ、カーブを右に回ると、いつもの撮影地点。毎年見慣れた光景だが、何枚も写真に撮る。この時期は早朝よりも、光が右斜めから射しはじめる9時半過ぎからがよい。一通り撮り終えて、再び歩き出そうとしたら、怪我をした膝が固まってしまっていて、思うように動かない。歩いているときは、さほど感じなかったのだが、ほんの20分程度足を延ばしたままでいたら、文字通り棒のようになっていて、歩きづらい。

誰もいない馬場島に到着。警備隊の人もいない。積雪はくるぶしくらい。今年の秋に開拓した、立山川への道を行こうかとも思ったが、いつもの景色が見たくて、白萩川へと降りていった。さすがに、この道に入ると雪が徐々に深まっていく。スノーシューがあればそれに越したことはないが、ツボ足でも大丈夫。テムレスの中に汗をかきだしたので、薄手の手袋と交換する。ラッセル、早歩きにはテムレスは不向きだ。

一歩きすると、右側の山の斜面が切れ、眼前に小窓尾根、剱尾根を見渡せる地点に出る。ここからの眺めは逸品だ。岩の殿堂剱を目の当たりに感じられるこの場所は、新緑と今の時期そして厳冬期が格別賞賛に値する。

戻って、馬場島の日の当たる場所で昼食。生姜湯で温まりながら、ジャムパンとハムサンドを食べる。不整脈と膝の怪我で山から遠のいてしまったが、昔の頃を思い出しながら、再び会心の山が来ると信じて、ここに通っている。

行動時間 ゲート起点 5時間


投稿者: hangontan 投稿日時: 2019-12-8 11:37:43 (267 ヒット)

8千メートルを超える高所での登攀シーンが本書の売りだが、登山経験や知識のないものが読んだらたぶん退屈な内容だと思う。ただ、エベレストに次ぐ世界第二位の山K2で、夏と冬の2度に渡る登攀シーンが味わえるのは少しだけ得した気分。フィクションとはいえ、あまりにも簡単に事が運びすぎるのが気になる。それをよい意味でとらえれば、山岳小説の敷居を低くして、幅広く読んでもらおうとの意図があったのかもしれない。


投稿者: hangontan 投稿日時: 2019-12-8 11:35:20 (250 ヒット)

電気工事の図面引きの「本島」が語り手となり、探偵榎木津礼二郎におもちゃにされる。豪徳寺の招き猫から始まり、三つの事件に引きずり込まれる。事件の裏に暗躍する、榎木津と宿命のライバルの存在が浮き彫りになる。


投稿者: hangontan 投稿日時: 2019-11-30 10:34:19 (237 ヒット)

メフィスト賞の作品ということで手に取ったが、その期待は大きく裏切られた。それまで抱いていたこの賞のイメージ、どちらかというとミステリーかファンタジー、を根本から覆す作品だったからだ。「面白ければ何でもあり」というこの賞の理念からすれば、こんなのもありかな、かもしれない。

アルバイトがきっかけで水墨画と触れ合うことになった大学生を描いた青春小説。
題名がそうなら、本の表紙も今風、中身も軽いタッチ。やはりこれも時代が生んだ作品なのだろう。

最初から最後まで抑揚がない、と言えば魅力に欠けるかというとそうではなく、心地のよい一本調子が貫かれている。読み始めてすぐ思うのは、これは読む漫画だ、ということ。ネットで探るとすぐにこの作品のコミック版がヒットする。誰でも考えるのは一緒とみえて、コミック化に向かうのは必然だったのだろう。
漫画のような物語の運びなので、スーッと読めてしまう。多くの人は一気読みするだろう。予定調和的な印象がぬぐえないのにもかかわらず、心のひだに引っかかるという不思議な作品でもある。

最初は軽いタッチで描かれている、と単純に思っていたが、読み進むうちに、作者はあえてこのような書き方にしたに違いないという確信に変わっていった。一見抑揚がなく、軽い言葉で書かれているようにみえるが、実は何度も何度も推敲され緻密に計算されて生まれてきたのだ。

次に出す作者の作品はどういうものになるのだろう、この路線での二番煎じはあるのだろうか、それとも一発屋で終わってしまうのだろうか、気になるところ。


投稿者: hangontan 投稿日時: 2019-11-30 10:29:39 (229 ヒット)

京極堂を読みたくてたまらないのだが、近々は刊行されてなくて、昔に戻って読んでいる。
本作品は短編集だが、それまで出てきた京極堂の登場人物がそれぞれの主人公となっている。本編では触れられなかった一癖も二癖もある人物の一面が垣間見られる。というか、その人物のキャラクターを補筆している。「あー、そういうことだったのか、なるほど」と、思うことしきり。そうなれば、また「姑獲鳥の夏」から読み返してみようという気持ちが湧いてくる。京極堂はそういうループをもっている。


投稿者: hangontan 投稿日時: 2019-11-20 10:05:23 (240 ヒット)

「烏の伝言」以来、長らく待ち望んでいた高田大介の本、やっぱり面白かった。伝奇小説の部類に入るのだろうが、単なる伝奇物に収まらないところが本書の奥深さ。鍵となる言葉が要所に散りばめられ、その鍵とも記号ともつかぬ言葉がパズルのピースのように物語に落とし込まれていく。論理的な破綻は微塵もなく、ただただ知的好奇心の向かうがままに読者を物語の中に引きずり込み、引っ張っていく。「豊富な」という一言では言い表せないくらいの語彙力が物語に魔術師的な厚みをもたらしている。日頃聞きなれないような言葉が次々と登場し、技巧に走った読みにくい文章であるかと言えば、そうではなく、逆にすんなりと腑に落ちていく。ある意味不思議な感覚。この辺の按配、空気感が「図書館の魔女」以来の著者の魅力であろう。
さらに、この作品において異彩を放っているのが、語り言葉の8割以上が上州弁で占められている、という点。それも、コテコテの上州弁。言語学者でもある著者の一つの遊びなのかもしれない。群馬でベストセラー一位になるのは間違いがないだろう。


投稿者: hangontan 投稿日時: 2019-11-16 10:54:04 (246 ヒット)

弔堂シリーズの二冊目。今回はうら若き女性が物語の進行役となっていて、文章運びも新鮮に感じる。前作の登場人物を要所に配していて、読者心理を掴むのがうまい、さすが京極夏彦。伏線とまではいかないが、確かこいつは?と、記憶の糸を辿りながら読み進む。
両作品を通して、京極堂と弔堂との関係性を示すと思われる記述がさらりと描かれていて、何時しか京極堂に辿り着くのではという期待感を持ちながら読んでいたのは私だけではないと思う。


投稿者: hangontan 投稿日時: 2019-11-16 10:49:47 (248 ヒット)

憑き物落とし「京極堂」に代わって、本を供養する「弔堂」が心の窓を開けてくれる。『世の中に無駄な本など一つもない、無駄にする人間がいるだけだ』なるほど、うまいことを言う。人、一人ひとりに見合った一冊の本があるのだという。その一冊を「弔堂」が探してくれる。その本は出合ったその人によって価値が見いだされる。弔堂に言わせれば、本が成仏する、ということになる。しかし、それは逆で、悩み彷徨える人間がその本によって一筋の光を見出す、あるいは選択の道標と為す、そういうことではあるまいか。
短編の集合体の形をとっているが、それぞれに登場する人物が後の物語へと引き継がれて行き、伏線となっていく。それがこの作品に厚みを与えている。京極堂のような破壊的な理屈回しではなく、じわっとくる説教が持ち味なので、通快感は薄い。作者も年月を経て、作品にも人間性に於いても丸みが出てきたのかもしれない。


« 1 ... 4 5 6 (7) 8 9 10 ... 45 »