投稿者: hangontan 投稿日時: 2023-7-12 17:29:47 (42 ヒット)

刑事ヴェランダー・シリーズ、第三作。
この作品は前二作と比べてかなりパワーアップ、スケールアップしている。物語の展開も前二作よりは凝っている。ストーリー性をだけをとっても最上級の部類に入るだろう。スウェーデンという国の地政学的な特異性もさることながら、この作品では作者の実体験が十二分に生かされているようだ。「スウェーデンは出る人と入って来る人から成り立っている」ということらしいのだが、作者自身のアフリカ体験がなければこの作品は生まれてこなかったかもしれない。もしかしたら、この作品で描かれている世界を描きたくて、作者は刑事ヴェランダー・シリーズを手掛けたのかもしれない。とても余韻が残る秀作であった。


投稿者: hangontan 投稿日時: 2023-7-12 17:28:38 (35 ヒット)

刑事ヴェランダー・シリーズの第二作。事件の展開がこの作品のキモ。スウェーデンで起きた事件がバルト三国、そしてソ連崩壊の物語へと繋がっていく。今でこそソ連崩壊後の混沌を知っていはいるが、もしこの作品が発表された(1992年)直後に邦訳され手に取っていたら、読み方もちょっと変わっていたかもしれない。まさか、最近読んだ「ソ連崩壊」についての知識が、この作品を読み解く上での重要な鍵となろうとは、偶然の一致とはいえ、不思議な巡り合わせと言わざるを得ない。


投稿者: hangontan 投稿日時: 2023-7-12 17:27:53 (38 ヒット)

著者の作品を2冊続けて読んで、ちょっと変わってるな、と思ったので、読み込んでみることにした。
ヘニング・マンケルを一躍有名にせしめた「刑事ヴァランダー」シリーズ、その第一作がこれ。これまでいくつかの刑事ものを手に取ってきたが、それらと何が違うのだろうか。それは決して違和感とうネガティブな印象ではなく、推理小説としての完成度が高いことに加えて、主人公への距離感がとても近く感じられるということだと思う。かといって、やたら深い心理描写があるわけでもない。頭脳明晰なスーパー刑事でもない。布石があちこちに散りばめられているわけでもない。淡々と仕事をこなしていく主人公を追っていく、その描き方がどうも他の刑事ものとは違っているようなのだ。
気になった点が一つ、邦訳にあたっての違和感を覚えた場面がいくつかあった。スウェーデン語は解さないが、日本語的にも変な言い回しが散見された。もちょっと丸く邦訳してもよかったのではないかと感じた。


投稿者: hangontan 投稿日時: 2023-6-23 9:29:21 (43 ヒット)

平に向かうにはちょっと中途半端な時期だったかもしれない。
ただ、ド快晴の中、平を歩くのはとても気持ちのよいものだ。木道脇には小さな花々が咲いている。しかし、木道を離れ、湿原に向かうと花の種類は極めて少なくなる。キスゲ、トキソウにはまだ時期が早かったようだ。シノザサの勢いも止まることを知らず、湿地もそのうちシノザサで覆いつくされてしまう感さえある。

登山口起点 平の奥、川を渡って木道が終るまで2時間
















投稿者: hangontan 投稿日時: 2023-6-6 17:30:03 (40 ヒット)

設定は先に読んだ「イタリアン・シューズ」の10年後となっている。前作ほど主人公と彼を取り巻く連中の特異さに驚かされないが、本作品はちょっとしたミステリー仕立てとなっている。

しかし、ミステリーの謎解きよりも、主人公の内面描写に強く惹かれるものがある。この作品を書いたときの作者、主人公、そして読んでいる自分の年齢が近いことがそうさせているのだと思う。描かれているのは「老化」、人間として避けることのできないこのことにどう向き合うか、そのことがこの物語のテーマ。今、自分のこの歳でこの作品を手にしたのは、偶然とはいえ何かしら意味のある事のように思えてくる。20代、30代の人が読んでもこの心持に同調するのは無理ではないだろうか。彼らはこの作品をどう読み、どう感じるのか、とても気になるところではある。


投稿者: hangontan 投稿日時: 2023-6-6 17:26:09 (42 ヒット)

主人公が氷結した海を割って沐浴する、というかなり異質な場面から始まる。自分には全くそんな経験はないのだが、まるで遠い昔そんなことがあったかもしれないという、不思議な感覚を覚えた。主人公の行為に自分を重ね合わせて、俯瞰しているようにも思える。

主人公は世俗から隔絶した孤島に一人住んでいる。氷結した海で沐浴すること自体かなり変わった人物像を想像させるが、描かれている生活様式もそれに輪をかけて変わっている。冒頭で、そんな彼を描くことで、うまく読者を作品の中に引き込んでいる。
だが、物語が進むにつれて登場する人物は、もっと変わった人達ばかり。主人公だけがまともに思えることすらある。北欧のそしてスウェーデンの暮らしに、一風変わっているが、どっぷりと浸らせてくれた作品であった。


投稿者: hangontan 投稿日時: 2023-6-6 17:23:25 (42 ヒット)

タイトルで読むか表紙で読むか、この作品はその両方に魅かれて手に取った。昨今、こんな表紙絵の本が当たり前のようになってきた。昔は、タイトルに目がいって手に取ったことも多かった。今は、タイトルと表紙絵で消費者を引き付けるのが通常化している。題名だけよりも表紙絵を加えた方が、より情報量が多く、読み手心をくすぶる作用があるのかもしれない。

さて、この作品、「YAエンターテインメント」とカテゴリー化されている。YAって何?ヤング・アダルトの略らしい。じゃあ、ヤング・アダルトっていうのは・・・ウイキによると「日本では13歳から19歳を読者層として想定している図書館が最も多い」とか。しかし、これが本当にYAなのか?物語は結構入り組んでいて、ヤング・アダルトが読むにしては、ちょっとハードルが高いのではと思ってしまう。


投稿者: hangontan 投稿日時: 2023-6-2 18:00:53 (50 ヒット)

体調を整えるには山に登るしかない、歩くしかない。
馬場島に着いて準備をしていたら体が重かったので、サンリズムをコーヒーで流し込んで、ゆるりと出発。東小糸谷の登りも少しだけきつく感じる。コルに着いて一本。1600からの剱展望を期待して登りに掛かる。咲き始めたユキザサが癒してくれる。

だが、1600に出たとき、山々はガスの中。歩いているうちに晴れてくるだろうとの思い一心で先を行く。行けども行けども、視界は効かない。1700付近を歩いていたとき、ふわっと体に風を感じた。目線を登山道から上に移すと、ガスが風に乗って切れ始めている。先を急いでこのまま歩き続けるか、カメラを出そうか迷ったが、ガスの切れ間からの剱を撮りたかったので、結局カメラを出すことにした。だが、なかなか雲がよい位置に来ない。あわててシャッターを切るものだから、構図もなにもありゃしない。そうこうしているうちに、山はまたガスに巻かれてしまった。そんな状況のままで、山頂着。

何にも見えない。さっきカメラを出し手おいて正解だった。山頂付近のミネザクラは、三日ほど前の雨にたたかれたせいか、半分程落ちていた。

帰路、東小糸谷でアサギマダラを見かけたが,ザックからカメラを出しているうちに見失ってしまった。

登山串起点 コルまで45分 山頂まで2時間5分


































投稿者: hangontan 投稿日時: 2023-5-29 18:25:18 (45 ヒット)

ネット上の書評は概ね高評価だが、自分的には今一つパッとしない。
著者得意のどんでん返しの連続がチープでイージーすぎて、何でもありとなってしまっている。誰か、弟子にでも書かせているのではないかと勘繰りたくもなる。


投稿者: hangontan 投稿日時: 2023-5-15 17:08:51 (50 ヒット)

先に読んだソビエト崩壊の日々を綴った「レーニンの墓 帝国最期の日々」もそうだったが、本書もロシア革命を目の当たりにしたジャーナリストによって書かれている。

本書を手に取るまでのロシア革命の印象は、ツアーリの退位と民衆による社会主義国家の成立、と思っていた。だが、事態はそんな単純なものではなかったようだ。明治維新も決して楽に成し遂げられたものではなかったが、ロシア革命も一筋縄ではいかず、様々な組織(ソヴィエト)、委員会、軍隊での意見の対立や武力行使の結果、最終的にレーニンが率いるボリシェビキに収斂されていったようだ。著者は自らそれらの集会や闘争現場に居合わせて、その一部始終を見ることに(体験する)ことになり、それを臨場感あふれた筆致で克明に描いている。あまりにも多く登場する組織に、最初はついていけないが、また完全に理解するにはこの本一冊では無理、大筋だけを追っていても、ロシア革命のダイナミズムは十分伝わってくる。


投稿者: hangontan 投稿日時: 2023-5-14 18:25:48 (63 ヒット)

出だし足が重かったが、息を切らさないようにゆっくり歩いて80分で登頂。なんとかコースタイムをキープ。
東小糸谷はまだまだ賑やかだった。下部はニリンソウが盛り、今年初のシラネアオイも見られて大満足。




















投稿者: hangontan 投稿日時: 2023-5-14 18:11:47 (51 ヒット)

例年よりは2週間近く雪解けが早い今年。
早月尾根の状態を確かめに行った。さすがに、1250から左に出て雪渓に乗るのはヤブだらけで無理。1700少し手前から夏道に雪が残る。そこを越すと1800手前までなだらかな雪の斜面。赤布を打って進む。1850の乗越からは雪がべったり。右手の夏道は気付かない。そのまま雪歩きを楽しんで2000で行動を打ち切った。帰路、1900から1800まで夏道を拾う。雪面に出ると、赤布を回収しながら無事安全圏の夏道に到達。コシアブラ、ユキザサラインは1200まで上がる。

登り3時間30分、下り4時間


























投稿者: hangontan 投稿日時: 2023-5-6 16:47:32 (47 ヒット)

海抜ゼロから登る山として近年人気の大鷲山。
想定したより登山道はしっかりついていて、全般に渡り電車道。途中の林道(標高500)を挟んで植生が一変するのもおもしろい。700付近から風衝地帯に入るのか、大きな木立がなくなる。そして、その一角にシャクナゲの群生地があり、満開を迎えていた。

山頂からの眺めは素晴らしい。白鳥、犬ヶ岳など栂海新道の山々がまず目に入り、右手には残雪をまとった初雪山。西側は入善、黒部方面の水を張った田んぼ、登ってきた道を振り返ると、新緑の山々とエメラルドグリーンの富山湾が目に染みるほど鮮やかだった。

登り2時間30分、下り3時間














投稿者: hangontan 投稿日時: 2023-4-26 10:03:31 (54 ヒット)

現代ロシア関連の本三冊目。いずれもインタビュー形式で、市民の生の声を通して、今のロシアを伝えようとしている。先に読んだ2冊も信じられないような話ばかりだったが、本書はさらに度を増して、本当にこんなことが起こっているのかと勘繰りたくなるような、ゲスなロシアの現実ばかり。100年前ツァーリからの解放を勝ち取ったロシア革命の後も、30年前ソ連崩壊の後も、庶民の不満と混乱、混迷はさして変わらないように思える。

ソ連が崩壊し、新生ロシアが生まれたものの、官僚体制はソ連当時のものを引き継ぐしかなく、KGBもFSBを初めいくつかの派生組織となって生き残り、その影響と支配力はソ連時代となんら変わりはない。旧態依然とした官僚と元KGBに繋がった者だけが、新生ロシアの恩恵を受けることがでる。つまり、資本家と官僚と軍とマフィアの癒着。それが敵の排除という形になって現れ、闇の支配が市民生活を覆っている。さらに、それを見て見ぬふりをする国家。元KGB出身のプーチン体制はそんな背景がある。はたして、これを「壊す」者が次に現れるのか、たとえそうなっても、また更なる混迷が待っているのか。さっぱり、わからない。

邦訳の仕方にも問題があるのだろうが、やたら「イデオロギー」という言葉が出てきて、気になった。


投稿者: hangontan 投稿日時: 2023-4-26 8:26:08 (65 ヒット)

山のサクラを探して、200mmレンズ一本持って山に入る。
馬場島は雪解けが2週間ほど早く進み、周辺のサクラはすでに終わりを告げている。先日は立山川方面を辿ったが、よいサクラが見つからず、今回は白萩川を行くことにした。ここでも、光の条件と咲き具合いがちょうどよいサクラには巡りあえず、そのまま引き返すのも何なので、大猫の尾根を行くことにした。

晴れ予報だったが、寒気が入り込んだせいか山はうっすらと高曇り、期待した青空は臨めなかった。当然山はメリハリのない写真となってしまう。目線を変えて、樹木に着目したら、これがよい具合だった。直射日光の影響が少ない分、明暗差が付きにくく、それがかえってよい効果をもたらすこともあるようだ。

折戸のキクザクラは満開となるも、木自体が盛りを過ぎているため勢いはなく、華やかさよりも、ひとかどの哀愁を感じる。折戸の村も全盛期を過ぎて久しい、村の衰退と時期を同じくして、サクラも終焉を迎えようとしているのかもしれない。

























投稿者: hangontan 投稿日時: 2023-4-8 16:58:39 (52 ヒット)

著者は当時ワシントン・ポストの記者で、ちょうど、ソビエト崩壊のそのときモスクワに赴任していた。グラスノスチとペレストロイカ真っただ中のソ連を目の当たりにし、幸運にも、その終焉に立ち会うことになった。記者としてこれにも勝る機会はめったにないだろう。その直後に書かれたせいか、推敲のための時間がとれなかったのか、少しまとまりに欠ける感がある。それでも、ゴルバチョフから始まったソ連の変体の模様と混沌は十分に読み取ることができる。

日本版はそれから十数年たって発行された。崩壊後のロシアは苦悩の連続で、それを納める形で出現したプーチンによって、またさらなる変体を遂げようとしている。日本版序文にはその辺の諸々のことに触れている。曰く、クレムリン主体のソビエト主義の復活。これが、ウクライナ進攻にまでエスカレートしていくとは。つくづく、ロシアという国には民主主義というものが根付かないものなのかと思わされた。


投稿者: hangontan 投稿日時: 2023-4-3 6:06:43 (85 ヒット)

人気のテレビ番組「日本百低山」に触発されて、遠路遥々出かけてきた。

お目当てのミスミソウは園芸品種も見られて、ほとんどは移植されたような印象を受けた。自生の大群落を想像していだけに、ちょっと残念。登山道の脇はカタクリが全盛期であった。

アズマイチゲともキクザキイチゲともつかないような花も一面に見られた。はたして、これはどちらなのだろうか。いつも、富山で見かけるキクザキイチゲとはちょっと趣が違うような気がする。山頂で話しかけた人に聴いたら、アズマイチゲではないかとのこと。ネットで検索してみると、キクザキイチゲとの報告が大半を占める。中には交配種との意見もあり、とても気になるところではある。



投稿者: hangontan 投稿日時: 2023-3-8 9:50:07 (55 ヒット)

1991年ソビエト崩壊によってロシアはどうなったのか、人々はどんな生き方をしてきたのか、周辺の国々はどうなったのか、それを知る手掛かりが本書にはある。ゴルバチョフのぺロストロイカ以降、知っていそうで知らなかったロシアの実態が、インタビューを受けた様々な国々、人種、職業、階層の人々の生の声によって語られる。

だが、なんかあまりピンとこない、というか信じられない。本当にこれが今のロシアなのか、近代民主主義国家の姿を呈しているが、実態はそれとはかなり隔たりあるようだ、ロシアに民主主義は育たないのか、それとも似合わないのか。

本書はロシアのクリミア侵攻(2014年)前年に出版されているが、本書から読み解く限り、それは必然であったようにさえ思えてくる。ソビエト解体から20年間、人々が当初思い描いた幸せは万民に降ってはこなかったし、西洋とは等しくならなかった。そこに登場したのがプーチン、そして、ウクライナへの攻撃。ロシアはいったいどこに向かおうとしているのか、人々の思いはこれからどう変化していくのか、興味は尽きない。


投稿者: hangontan 投稿日時: 2023-3-8 9:44:31 (57 ヒット)

昨年のロシアのウクライナ侵攻に触発されて手に取ったということもあるが、自分の興味の流れから辿り着いた一冊でもある。キリスト教の色合いが濃いウンベルト・エーコの小説がその発端で、以後、十字軍、トルコ文化へと導かれ、そして行きついたのが本書であった。

日本の歴史年表には「クリミア戦争」と、たった一行載っているだけで、名前だけは知っていても、それが歴史的にどういう意味があったのかは何にも知らなかった。本書では、実に詳細に、膨大な史料を駆使して、順序だてて、それに関わった国々の事情なども精査しながら、戦争の実態を描いている。かつ、一つも漏らすことがないようにと調べ上げたエピソードが柔軟剤のような役目を果たしていて、飽きのこない歴史絵巻、ノンフクションでありながら、大河ドラマのようなスケールの大きな読み物となっている。

訳者あとがきに「戦闘の現場に戦争報道記者と戦争写真家が登場したのは初めてであった」「国民世論が戦争遂行にとって決定的な役割を果たすことになった」とある。翻って、今般のロシアのウクライナ侵攻ではネットが重要な役割を果たし、居ながらにして瞬時に遠隔の地の状況を知ることができ、全世界の世論の醸造に役立っていることを想うと、歴史の不思議な巡り合わせに感慨を覚えずにいられない。


投稿者: hangontan 投稿日時: 2022-12-29 9:58:14 (61 ヒット)

ネット上では概ね好評だが、中には★一つという手厳しいものも見うけられる。
それほど読み手によって感じ方が異なる作品だということだろう。私自身、ハテナ?と思いながらもページをめくっていったのも事実である。

小説の醍醐味は作者が紡ぎだす虚構の世界にどれだけ読み手が入り込めるかにあると思うが、その点、この作品には読み手が許容する範囲をはみ出しすぎる、言葉は適切ではないかもしれないが、あまりにも荒唐無稽、拙速、刹那的なストーリーが徹頭徹尾貫かれている。それを、どう捉えるか、捉えられるかが、評価の分かれ道となるのであろう。

しかし、他のどの作品にも共通している、「トルコ」を描き出すという点では、この作品もその例外ではない。今回の主題となっている「恋」の描き方は多少変則的ではあるが、トルコという国のリアリズムをうまくはめ込んだ虚構の世界に浸ることが出来た。


投稿者: hangontan 投稿日時: 2022-12-14 10:39:33 (78 ヒット)

オルハン・パムク、四冊目。今回の主人公は呼び売り商人。「ボザ」というトウモロコシから作ったトルコの伝統的発酵飲料を、天秤棒を肩にかけ、「ボーザー、ボーザー」と呼び声を発しながら、イスタンブルの街を練り歩く。
主人公、その親、そして子供達、そして親類縁者にまつわる物語。1950年代から数十年間、世界のどの国もそうであるように、トルコもの激動の時代を迎えた。そして、ギリシャローマ時代から西欧とアジアとを繋ぐ要衝でもあったスタンブルも急激な発展と変貌を遂げる。

イスタンブルの変容は、極端な西欧化は伝統的文化の軽視と排除をもたらす、そして伝統的なもの、失われたものへの「ヒジュン(憂愁)」、これはこれまでに読んだ作者の作品を通して描かれた不変のテーマでもある、ボザ売りの主人公にも大きな影響を及ぼす。彼自身の数奇な恋愛体験とイスタンブルの変容がうまいぐあいに交錯し合って、作者独特のトルコ社会を映し出している。
また主人公の「呼び売り商人」への想いは私の商売「越中富山の薬売り」にも通ずるところが多々あって、変貌を遂げていく世の中で一つの業を続けていく姿勢に共感を覚えたのも事実である。


投稿者: hangontan 投稿日時: 2022-11-2 12:20:31 (79 ヒット)

オルハン・パムク、三冊目。その内容は、いずれもトルコとイスラムにとても固執している。本書で出てくるのは、「政治的イスラム」という聞きなれない言葉。イスラム教が多数を占めるトルコにおいて、政教分離が内包する危うさを問うている。国家としてはイスラムを前面に押し出さないことを政治信条としているが、それに従うことは個人的にはイスラムの教えと矛盾することが多々ある。トルコ人の多くはその辺を曖昧にしながら暮らしている。しかし、政府の直截的なやり方になじめない人がいることも事実で、そういう人々は「政治的イスラム」として自分を主張する。彼らの中には反政府的な行為をとる者も出てきて、またそれらに対抗する輩も出現する。本書はトルコ辺境の地、まだ「トルコらしさ」が残っているとされるカルスという小さな町で起こった出来事を通して、トルコとイスラムについて深く考えさせる。
一文が長く、また二人称なのか三人称なのかよくわからずに読んでいて、はたとそれに気づくこともあった。邦訳の仕方によるものなのか、原文のニュアンスをそれがうまく伝えているのかわからないが、前に読んだ「イスタンブル」と同様な「憂愁(ヒジュン)」が感じられた作品であった。


投稿者: hangontan 投稿日時: 2022-11-2 12:19:55 (56 ヒット)

「憂愁(ヒジュン)」、イスタンブルへの想いを作者はこう表現していて、本書では頻繁にこの表現が使われている。
訳者はトルコ語でいうところの「ヒジュン」の言い回しに苦心したのかもしれない。「憂愁」をそのまま英訳すると「メランコリ」となる。だが、この自伝を読む限り、どうも「メランコリ」ではしっくりこない気がする。「ヒジュン」は「ヒジュン」なのであり、本書全体に漂っている雰囲気を表している。それが、感じられただけでも、この本を読む価値があったというもの。


投稿者: hangontan 投稿日時: 2022-10-24 13:18:54 (94 ヒット)













天気が良かったので、1900ぐらいまで上がって、いつものダケカンバを撮りにいくつもりだったが、心臓も膝も意外と調子がよく、伝蔵まで足を延ばすことになった。途中、写真を撮るために何度も足を止めたのがよい休憩となったのかもしれない。おかげで、昨年来気になっていた、今しか見られない風景を撮ることができた。ただ、ピンボケと手振れが半数近くあり、今後の課題がまた残った。

登り4時間30分、下り4時間




投稿者: hangontan 投稿日時: 2022-9-24 5:37:21 (76 ヒット)

図書館をぶらついていて、初めてトルコ人による本を手に取った。イスラムを背景とした小説としても初めて。ウンベルト・エーコ以来、このところ宗教を題材とした作品に惹かれる。ヨーロッパからトルコ、ペルシャの歴史を語るとき、宗教なくして成り立たない気がする。

オスマン・トルコのスルタンに仕える細密画の職人集団の物語。語り手が次々と変わる構成は作品に入り込むまでかなり苦労する作品が多いが、この作品はそんなことはなく、歴史的、宗教的素地がなくても、わりあいすんなりと入っていける。謎解きの要素も手伝ってか、ぐいぐいと引き込まれ読ませてくれる。

主題となっている伝統のトルコ細密画、何十年と描き続けた職人は、目を酷使するため、しまいには盲目になる人もいたとか。そして、それこそが、名人の証として尊ばれたという。そうまでして描かれた細密画とはいったいどんな絵なのか、とても興味のあるところではある。


投稿者: hangontan 投稿日時: 2022-9-24 5:32:37 (74 ヒット)







ヒガンバナが田んぼの畔や道路の際に目立ち始めるころ、アサギマダラがやってくる。今の時代、どこに行っても耕作放棄地が目につくが、その一角に植えてあるフジバカマを目指してアサギマダラが飛んでくる。今年は気温が高めに推移しているせいか、9月中旬になってもなかなか目にしなかった。アサギマダラにとっては気温25度ぐらいがちょうどよいようだ。

この日は台風が去って、一気に空気が入れ替わり、やや寒いくらいの朝だった。それが、日が高くなるにつれて、気温も徐々に上がり、絶好の条件となった。フジバカマも満開期とくれば、期待は膨らむ。
11時頃その畑に出かけてみると、あにはからんや、アサギマダラがフジバカの蜜を吸いながら乱舞していた。それも次第に数が増してくる。いったいどこから飛んでくるのか、気が付いたら、フジバカマ畑の周りを飛んでいる。そして、適当な花を見つけては羽を休めて止まり蜜を吸い始める。時たま、羽を広げたりするのだが、そのタイミングがわからない。ジーっとカメラを構えたままその瞬間を待つ。花の周りを舞っている姿を写真に収めたいのだが、せわしなく飛び回る蝶を撮るのは今の私にとってはハードルが高すぎる。また、来年の課題としよう。

さて、畑の持ち主は、アサギマダラを追っかけるのに忙しい。一旦花に留まれば捕獲はそんなに難しくはない。捉まえた後、百円店で調達したホワイトボードに固定して羽にマーキングする。日付、その愛好家グループ記号、捕獲した場所、最後に捕獲者番号とその日の何頭目かを示す数字。そして、放してやる。逆に、マーキングされた蝶を捕獲することもある。

やがて、アサギマダラは南下しながら日本を移動していく。九州、沖縄まで飛んでいくことも稀ではない。そのマーキングされたアサギマダラを確認した人が、ネットを通して報告する。それを知ったときの喜びはなんとも言えない。その人、あるいは地域地域との不思議なつながり、縁を感じる。アサギマダラの魅力はそのステンドグラスのような美しさにもあるが、ふらふらと旅をする蝶への憧れもあるのかもしれない。


投稿者: hangontan 投稿日時: 2022-9-12 17:24:22 (74 ヒット)













昨年は9月に入ってから行ったが、レンゲショウマにはちょっと時期が遅すぎたようなので、この時期ならよいだろうと思って出かけた。
そしたら、どんぴしゃだった。昨年見た藪の中以外にも数か所見つかった。登山口すぐにもかなりの株があった。これはもしかしたら植栽されたものかもしれない。山頂に着いたときは高曇り。そのうち、ぽつりと雨が落ちてきたのでそうそうに引き上げた。山頂にウメバチソウが咲いていたのにはちょっと驚いた。水場近くだけかと思っていたら、そうでもなかった。


投稿者: hangontan 投稿日時: 2022-9-11 16:23:04 (90 ヒット)













レンゲショウマが見られるというので確かめに行ってきた。榛名山は初めての山域なので、その下見も目的の一つ。

名物のユウスゲは終わっていて、草原にはマツムシソウやワレモコウが盛りを迎えていた。踏み跡を適当に辿って、相馬山らしき登山道に入る。修験の山らしく、鳥居や石塔が随所に見られる。レンゲショウマは急登になるあたりに5,6株程見られたが、花数は少なくもう終わりに近かった。下山時に写真を撮るつもりでいたが、見過ごしてしまうほどよく注意しないとわからない。あとで聴いた話では、山の関係者が数年前に植栽したのかもしれない、ということだった。

一汗かいて山頂に着くと、ガスっていて視界はゼロ。山頂には立派な小屋があり「黒髪山神社」と書かれていた。相馬山の名はない。ネットで昔の記録をたどっててみると、相馬山となっているので、最近になって改められたものだろう。

近年、西上州や妙義あたりは、6月から10月にかけて、ヤマビルの天下となっていて、それを避けるためにも榛名山周辺や妻恋の奥の山々に足を向けるのがよいかもしれない。


投稿者: hangontan 投稿日時: 2022-9-5 9:55:50 (96 ヒット)

「バウドリーノ」から始まったヨーロッパ詣で。
その後、「十字軍物語」「パックス・ブリタニカ」ときて、今本書にたどり着いた。「ローマ人」の物語から始まった歴史エッセイ(著者はこう定義している)の最後を飾る作品となった。曰く、「ローマ人の物語」の中ではほんの少しか触れられていないギリシャに対して失礼きわまりない、と思ったことが本執筆の発端だったとか。物語はスパルタとアテネを中心とするギリシャの都市国家の盛衰を、その時々に現れる名将を通して描かれている。スパルタとアテネの文化的相違に「ははん」となり、両国の攻防戦に手に汗握る。まるで三国志を読んでいるみたいな気。

最期はマケドニアのアレクサンドロス大王にかなりのページを割いている。アテネ、スパルタの自滅ともいえた歴史的空間に突如現れたアレクサンドロスはまさに必然的出現ともいえる。そして、その東征。大国を撃破しながらの大進軍だとの認識があったが、実は弱っちいペルシャを配下にして廻っただけだった。

さて、著者最後の歴史エッセイとなった本書の末尾に「十七歳の夏―読者へ」お題して著者の言葉が添えてある。その中の一文が心に響いたので書き留めておく。

***あなた方が書物を読むのは、新しい知識や歴史を読む愉しみを得たいと期待してのことだと思いますが、それだけならば一方通行でしかない。ところが、著者と読者の関係は一方通行ではないのです。作品を買って読むという行為は、それを書いた著者に、次の作品を書く機会までも与えてくれることになるのですから。中略 ほんとうにありがとう。これまで書き続けてこられたのも、あなた方がいてくれたからでした。中略 最後にもう一度、ほんとうにありがとう。イタリア語ならば「グラツエ・ミッレ」。つまり、「一千回もありがとう」***


投稿者: hangontan 投稿日時: 2022-9-5 9:48:27 (73 ヒット)

1897年、ヴィクトリア女王即位60周年記念祭の記述から始まる。
このころ大英帝国は絶頂期にあり、世界各地に植民地を持ち、まさに帝国の権威をほしいままにしていた。本書では、大英帝国の光芒史を描くのではなく、事情が異なる様々な植民地での苦心譚やそこに派遣された人々と現地人との触れ合いを通して、帝国の栄華と苦悩を描いている。


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