投稿者: hangontan 投稿日時: 2017-9-12 11:49:09 (373 ヒット)

熊谷達也はこんな作品も書いていたのか、というのが第一印象。
山にこもる杣人を描いた物語に魅かれて数冊彼の作品を読んだ印象は、緻密で重厚な作品を綴る作家という印象だった。

そして、今回手に取ったこの一冊はそれまでの重厚さとは別の全体を通して爽やかな風が吹き抜けている、青春小説だった。とても同じ作者の手から生み出されたとは思えない、がらっと異なる作風に新たな驚きとうれしさがこみ上げてきた。

今風の高校生が普通にさりげなく描かれて、眩しくて、切なくて、希望にあふれ、自分の高校生の頃の面はゆさとシンクロさせてみたり、息子の高校時代とかぶせてみたりして読み進む。

若干うまく行きすぎるなぁ、との思いも走るが、それを差し引いてもこの作品は傑作といえる。物語の根底に流れる、故郷で生きるということ、が下支えになっており、ただの青春小説にとどまらない味付けとなっている。

宮城県の仙河海市が舞台のこのシリーズにしばらく浸かってみよう。


投稿者: hangontan 投稿日時: 2017-9-5 12:10:04 (374 ヒット)

「黄昏に眠る秋」 ヨハン・テリオン 著 ★★★ ハヤカワ・ポケット・ミステリ

いつも思うけど、スウェーデンの作家の作品は人名が覚えづらい。
ミステリとしてはよくできている。後半から終盤にかけてのなぞ解きはなかなかの見もの。老人施設に入居中の「現役」老人が探偵役といのも時節がらか。
なにより、話の舞台となっている全盛期を過ぎた石灰岩平原という漠とした風景に魅かれる。世界は広いというが、その土地にはその土地特有の空気があり匂いがあり風が吹いている。そんな雰囲気が作品全体を覆っている。
居ながらにして、スウェーデンの島に旅した気分にさせてくれる、そんな作品だ。


投稿者: hangontan 投稿日時: 2017-9-5 12:00:25 (360 ヒット)

ピュリッツアー賞というのは報道、ジャーナリズム関係だけと思っていたが、小説のようにノンフィクション部門があるということをこの作品で知った。

原題も「The Goldfinch」。直訳すると「ごしきひわ」という鳥の名前だ。その「ごしきひわ」が描かれた絵が展示してある美術館が爆破テロにあう、という場面が物語の発端。

語り手はその爆破に巻き込まれた少年。ひとくくりにして言えば、その少年の成長譚。印象は「人生万事塞翁が馬」。語り口は軽妙で、個人的には「ライ麦畑でつかまえて」を彷彿させる。ディケンズの香りがすると評するむきもあるが、ディケンズをまだ読んだことがないので、なんとも言えない。
また、物語のテンポのよさ、予想がつかない展開もさることながら、心理状況やしぐさに至る一挙一動の細やかな描写がこの作品では重きをなしているように思う。自分が知っているポピュラーな楽曲や小説、最近テレビでみた「ビル・アンド・セバスチャン」という映画などが少年の生活の中で語られ、私が生きてきた空間と同調している感覚を覚えた。

非常に長い作品だが、3巻目に入ると物語が一気に加速し始め、そのまま終盤までもつれこむ。

最近手にする本は自分より若い作者、翻訳者が多くなり、歳をくったことを実感する。


投稿者: hangontan 投稿日時: 2017-8-12 11:11:56 (407 ヒット)

先に読んだ「蓮と嵐」と構想は同じ。
ベトナム系移民のベトナム的価値観とアメリカ的価値観との順応と葛藤を自伝的要素を多く含めて描かれている。

題名の「モンキーブリッジ」とは、ベトナムの農村地帯に架かる細い竹橋のこと。人生は細くてあやういこの橋を渡るのに似ている。勇気と度胸が必要だが、ちょっとの油断でその橋から足を踏み外すこともある。しかし、渡らないで済ますこともできる。ここに描かれているのは、サイゴン陥落前後にベトナムから脱出した難民の身を切るような物語と、移民を契機に自らの過去を書き換え自己実現を夢見るベトナム系アメリカ人の物語である。

1975年の私といえば、パチンコとマージャンとアルバイトが中心の学生生活を送っていた。将来に対して何の不安があるわけでもなく、もちろん実生活においてなんの不自由さも感じておらず、やがて、どこかの会社に普通に就職して企業戦士になるのだろう、とノウタリンを絵にかいたような人間だった。ベトナムで起きていた混沌と混乱と脱越ボートピープルの悲惨な実態については知る由もなく、平和ボケしたバカまるだしの人間だったといえる。当時、それを必死になって伝えようとしていた人たちもいたのだろうし、テレビやマスコミの報道もあっただろう。それなにの、私は何の関心も示さず自分ファーストの日々を送っていた。今、こうして2冊の作品を手にして、ようやくその時の状況がわかりはじめ、ベトナムの歴史が意外と古いことを知り、ベトナム的価値観の片りんに触れることができた。そのことをうまく伝え描いてくれた作者に感謝の気持ちで一杯だ。

本作品のみならず、ベトナム系アメリカ文学について、訳者の麻生享志が「訳者解説」に詳しく述べており、これもまた一読に値する。簡潔に要点をついた好解説で、すべてを紹介したいくらいだが、ちょっとだけ引用させていただく。

以下引用:
1960年代はじめから30年の間にベトナム系移民によって100冊以上の本が英語で出版されたという報告がある。その多くは辛い戦争の過去とアメリカ移住の経験をあらわす自伝的文学で、ベトナム語から英訳されたケースも少なくなかった。

この状況が大きく変わりはじめたのはここ十年あまりのこと。「祖国の文化規範や言語能力をある程度維持しつつ海を渡った若い世代の移民」俗に1.5世代と呼ばれる移民が成人し、自伝のみならず純文学の作品も発表するようになってからだ。

彼ら1.5世代の移民は、アメリカ生まれの弟や妹と両親ら旧移民世代をつなぐ文化的橋渡しの役目を担ってきた。そのため、自らが置かれた立場や環境にきわめて敏感で、「移民社会内部の世代間のつながりだけではなく、アメリカ的価値観とベトナム的価値観と仲介者」の役割も果たしてきた。この1.5世代に属する小説家、詩人が声を上げはじめたことが、現在のベトナム系アメリカ文学の興隆につながる。

すでに頭角を現してきている若い作家の中には、ベトナム生まれであってのその記憶をほとんど持たない者もいる。移民としてアメリカ社会への順応と葛藤の物語を語ることはできても、かつてのベトナムを想い、作品として再構築する「記憶」を持たないより若い世代の芸術家が今後増えることは必至だ。だから、1.5世代移民の文化・文学は世代間の空白を埋め、すでに失われたベトナムの「記憶」を後世に残すことを使命とする。『モンキーブリッジ』は、戦争の記憶と伝統文化の保存、アメリカという新しい風土の中で生きるベトナム系移民のアイデンティティーの再構築をテーマに描かれた作品に他ならない。


投稿者: hangontan 投稿日時: 2017-8-6 6:17:32 (353 ヒット)

重いという印象が先にたつベトナム戦争という主題だが、本小説にはそれもあるが、それよりはむしろ全編を通してさわやかな風が吹き抜けているという読後感となった。

ハスはベトナムのシンボルであり国花でもある。題名の「蓮」は様々な意味合いを想像させる。ベトナムという国そのものであり、ベトナム人の心、主人公のマイとその母のクイ。そして「嵐」はベトナム戦争であり、それに翻弄されながらもしたたかに生き抜くベトナム人のいきざま、クイの葛藤、マイの父が抱く友人への疑念。

訳し方もよかったようで、大変読みやすい。テーマは多重で深いが、飾り気ののないさらりとした文章がその重さを消してくれたようだ。

作者一作目の「モンキーブリッジ」も読んでみたい気になった。


投稿者: hangontan 投稿日時: 2017-7-24 10:25:49 (361 ヒット)

中村文則、何やってんの?
四年前、NHK朝のラジオ「すっぴん」のなかで、水道橋博士がゲスト出演していた中村文則を評して、まだ若くして芥川賞をとって順風満帆の彼に対して、「今は何をやってもうまくいっていると思うけど、これでいいんかなと思う時がきっと来る」とアドバイスしていた。それに対して中村文則の反応は「自分はまだそんなに苦労していないから、そんな気持ちはわからない」と。

水道橋博士の予感的中。宇宙の塵芥を凝縮した大作を描こうという意欲は感じられるが、持ち込んだテーマのわりには、すべてにおいてうすっぺら、物語も中途半端、挿話を繋いでいく書き込みが全く足りない。作者自身もそれには気付いているだろうに。なんでこんな作品に仕上げてしまったのだろう。作者あとがきの中で「現時点においては、これが僕のすべて」と述べているのがなんとも苦悶に満ちている彼を象徴しているように思えてならない。次回作に期待。


投稿者: hangontan 投稿日時: 2017-7-22 10:01:32 (332 ヒット)

桜庭一樹ここにあり。こういう架空というか虚構と現実をないまぜにした世界を描く作者の作品が好きだ。へんてこな登場人物の名前も私のツボにハマる。
聖マリアナ学園の裏史を綴ってきた読書クラブの物語。高校時代にそういうことを思いつかなかった自分の平凡さ加減を再認識してみたりもする。この作品をヒントに、学園の裏史を綴る高校性が本当に現れるかもしれない。


投稿者: hangontan 投稿日時: 2017-7-22 9:56:53 (379 ヒット)

いうなれば、これはマンガだ。それも中高生向けの少女漫画。
それを還暦を過ぎた男が暇にまかせて読んでいる。

十代前半といえば、私はこんなにも多感であったろうか。身の回りにこんなにもいろんなことがあっただろうか、こんなにもいろいろなことを考えて生きていただろうか。ひたすら部活と遊びとそれがあたりまえかのように人生の決めごとの一つとして何の疑問も抱かずに学業に打ち込んでいた、だけだった。中学から高校にかけての勉強は未知のものへの探求心と好奇心の扉となったし、テストの評価による達成感もあって、勉強は嫌いではなかった。ただ、国語だけはちんぷんかんぷんだった。興味もわかなかった。国語には答えがないからだ。理屈ではないもやもやとした世界はどうにも苦手だった。人の心をおもんばかるということに疎かったのだと思う。それは今も同じだ。

それは置いといて、十代のころ、何があっても、どんな苦労があっても、それはやがて将来の糧となる、ということは大人になってから思うことで、その渦中にあるときは見えるはずもない。荒野、君には未来がある、大きな可能性を秘めている。だから、荒野、がんばれ、いっぱい悩んで、恋して、いっぱい泣いて、笑って、大きくなれ。


投稿者: hangontan 投稿日時: 2017-7-17 17:45:49 (344 ヒット)

久しぶりに中村文則を読んだ。最初に出会った頃のような衝撃はない。人の心をミキサーにかけて撹拌してビンに流し込むと、いくつかの層に分かれる。中村文則はその中の悪の部分を抽出して作品にする。こんなにも邪悪な物語を書きつづる作者の思考は私の及びのつかないところにある。はたして神の子なのか、悪魔の化身なのか。

最初から中盤にかけてはよかった、作者独特の陰の部分がよく出ていた。主人公が整形手術を受けて、他人になりすますところまでは。他人になりすまして後どんな悪が語られるのかと期待したのだが、どろどろと蠢くような悪は語られず、挿話にも切れが薄れていった。

悪の中からほんのりと光が射す終わり方は、他の類型となんら変わらない。中村文則が語る「悪」には似つかわしくないと感じた。


投稿者: hangontan 投稿日時: 2017-7-7 13:47:52 (338 ヒット)

ちょっとエロっぽいサスペンス。
多くの賞をとり評価の高いサスペンスだが、それも頷ける、よく出来た作品だ。
冒頭から引き込まれ、その後の展開も目が離せず最後まで一気読み。これまでのミステリーにはなかったセクシーな場面も組み込まれていて、それが作品の流れにうまく乗っていてエンターテイメント性が高まっている。

この作者は読み手の心をよく掴んでいる。ミステリーのつぼを押さえて、どうすれば読者に喜んでもらえるかをよく心得ている。と思いながら読み進んでいった。そう思ったら、「日本版著者あとがき」の中で、著者はまさしくその点について述べていた。『本書には、サスペンス/スリラーを好む読者の誰しもが求める要素が備わっていると私は自負している。つまり、心をぐいとつかむドラマ、魅力的なヒーローと悪役、そして最初から最後まで、ページをめくるのがもどかしいほどの意外な展開だ』と。

そうは意図していても、それを作品として完成させるのはそう簡単なものではない。それを作者は破綻のない長編に仕上げている。サスペンスの醍醐味がいっぱい詰まった本作品は今後ますます多くの人に支持され読み継がれていくことだろう。


投稿者: hangontan 投稿日時: 2017-7-7 13:45:15 (350 ヒット)

サラ・パレツキーの作品は探偵小説という範疇に入るのだろうが、ミステリーの謎解きより、事件の背景にある社会問題を捉えた社会派小説の印象が色濃い。今回は貧困と格差社会に焦点をあてている。アメリカという国にあっては、貧困から脱するチャンスは誰にでも与えられている。だが、現実は厳しい。貧困家庭に生まれた子供は、学業をこなすのも容易ではない。アルバイトをして家計を助けながら学校へ行く。部活をやっていれば、勉学がおろそかになるのは否めない。貧困世帯が住まう環境はドラッグやギャングスタからの誘惑も多く、子供たちがその道に通じていくのは自然の流れともいえる。まさし貧困の連鎖、格差の連鎖は現実に存在する。

日本でも格差の連鎖を感じることは多々ある。東大や有名大学への進学家庭のおおかたは裕福である。そこを卒業したものにはそれなり進路が約束されている。百パーセントそういう訳ではないけれど、そうした流れはたしかに存在するように感じる。

ただ、アメリカと日本との違いは、アメリカでは貧困が生む負の面が際立っている点だろう。ドラッグ、セックス、暴力、殺人といった社会のマイナス面が貧困と直結している場合が多い。

本作品では、主人公のV.Iはそういう貧困家庭や子供たちを差別し陥れようとする巨大なものと敢然と立ち向かう。V.Iと子供たちの名演技には光るものがあるが、敵となるリッチな悪役が定型的すぎたのが少し残念


投稿者: hangontan 投稿日時: 2017-6-25 11:17:55 (351 ヒット)

サラ・パレツキー、二冊目。
最初、登場人物を自分の中に取り込むのに戸惑う。述語に対する主語がつかめない文章はその場面を映像化するのが難しい。いったい誰の発言なのか、誰の行動なのかつかめない。いつ、だれが、どこで、なにを、なぜ、どうした、のうちの「誰が」を想像せよというのは至難の業だ。それが本作品の随所に出てくる。作者の頭の中ではちゃんとした映像になっているのだろうが、あまりにそういう場面が多すぎると、読み手にとってはちんぷんかんぷんとなってしまう。そう思うのは自分だけで、歳をとったが故の想像力不足からくるものなのだろうか。謎解きはストーリーだけにしてほしい。


投稿者: hangontan 投稿日時: 2017-6-25 11:13:55 (362 ヒット)

1998年度「このミステリーがすごい!」、それも第一位に何故選ばれたのか不思議でならない。その帯に惹かれて手にとったのだが、それほどおもしろいミステリーとは思わなかった。映画愛好家にはたまらない本だと思うが、そうでないものにとっては、冒頭から羅列される映画のトリビアと蘊蓄は、それがミステリーとどうつながっていくのか、ひたすら我慢のしどころ。

ミステリー的な度合いが増してくるのは後半に入ってから、それも一気に加速し、壮大なファンタジーへと進んでいく。そして終盤はあまりにもとりとめもない話となって、物語の着地どころが気に懸る。
この本のどこが「すごい」のか、聞いてみたい。


投稿者: hangontan 投稿日時: 2017-6-3 15:34:29 (347 ヒット)

堂場瞬一、初めての作品。
この作品で「スポーツ小説」なる分野があることを知った。

「山」には読み物がつきもので、紀行文はもとより山を題材とした小説は多くある。山について書くことは、ふり返って登る行為を自分の中で昇華させ、その山を完結させることにある。山の紀行文を読むことは、行かずしてその山に登らせてくれる。山の小説はピンキリだが、山と人をうまく描いた作品に出会えたときは至高の喜びだ。

他のスポーツではどうだろうか、山をスポーツと捉えるにはいささか問題があろうが・・・。柔道、剣道、野球、サッカー、卓球、テニス、バスケを描いた有名なマンガはいくつかあるが、それらが束になっても、「山の本」には及ばない。それほど「山」の懐は深いのだと思う。

さて、本作品。中盤になるまで話の筋が読めてこない。うすぼんやりとベールがかぶせてあるようで、まどろっこしさに戸惑う。中盤以降一気に話が進む中、テーマとなっている「ドーピング問題」に考えさせられる。「ドーピング行為」そのものと、自分と身近な者がドーピングをやっていたとしたら自分はそれに対してどう対処できるか。

また題名ともなっている「ルール」に関しても、文中にさりげなく書かれている「ドーピングが不公平というのなら、本当の公平さを求めるなら、参加選手がすべて同じ条件の下、同じ環境下で練習しなければならい」というような内容のこと、は自分でも思うところはある。オリンピック競技場と同じ施設や器具を使って練習するのとそうでないのとでは結果に差があるのは当然だろう。それが出来るのはお金に余裕ある国に限られる。それは私に言わせれば、ドーピングと同じで反則ではないかと常々思っている。

本作品はいわば小説の下書きみたいな仕上がりで、もっと深く掘り下げた内容であればもっとよかったのではないかと思う。


投稿者: hangontan 投稿日時: 2017-6-3 15:32:40 (371 ヒット)

これを読めば陪審員裁判の仕組みのすべてがわかった気になる。
いわゆるタバコ訴訟を借りたフェイク小説。

「裁判は陪審員を選ぶ段階からすでに始まっている」ということは、これまでに読んできたいくつかの裁判小説を通して知ってはいたが、この作品に描かれているような凄まじい内幕があるとは思いもよらなかった。

読みはじめから「落ち」がなんとなく想像できるのだが、そこまでに至る物語が軽妙で心地いい。善玉と悪玉の対比も単純明快。分厚い本だが、一気に読めてしまうエンターテイメント作品だ。


投稿者: hangontan 投稿日時: 2017-6-3 15:31:14 (344 ヒット)

今年になって自分の中ではじけたジェイムズ・エルロイ。「アンダーワールドUSA三部作」と「LA四部作」を読んで、エルロイの世界にどっぷりと浸り込んだ。彼の作品ならどれでもいいと思って手にしたのがこの一冊。

随筆のような、小説のような、つかみどころのない、とりとめもない散文的な短編集。エルロイのことだから、どんな爆弾を仕掛けているのかと期待して読み進んだが、それまでの作品には及びもつかない内容にがっかり。以前の作品にみられるような破壊力もなければ毒舌もない。ジェイムズ・エルロイを「いいとこ取り」するなら、やっぱり「アンダーワールドUSA三部作」と「LA四部作」だろう。


投稿者: hangontan 投稿日時: 2017-5-17 10:41:57 (429 ヒット)

LA四部作の四作目であり、最終作。
第四作目にしてJFケネディが登場し、「アンダーワールド USA 三部作」への序章的な含みも感じられる。これは「アンダーワールド USA 三部作」を先に読んでいたからそう思うのであって、順番にLA四部作から読んでいたとしたら、そんな深読みはしないだろう。しかし、エルロイのこと、当然アメリカの闇を描いた次のシリーズを念頭においていたに違いない。さらに、「アンダーワールド USA 三部作」の第一弾「アメリカン・タブロイド」に見られる、破壊的で投げ捨てるような文体がこの作品ではこれまでの三作になく顕著である。

LA四部作の最終作だけあって、話の筋も凝りに凝っている。ちょっとした読み飛ばしもできないくらい、居眠りしている暇もないくらいの緻密さ。暴力性の裏に潜む繊細な物語性。ただ、これまでの作品同様登場人物がやたらと多く、推理小説的には未消化の感も否めない。

アメリカの闇を描いた「LA四部作の四作目」と「アンダーワールド USA 三部作」をもう一度最初から読み直して、これらの作品を完全にものにしたいと思った。


投稿者: hangontan 投稿日時: 2017-5-17 10:40:57 (335 ヒット)

LA四部作の三作目。
LAPDの闇を描くことで、1950年代のロスアンゼルスしいてはアメリカの抱える問題点をあぶり出している。ただ、その描き方が強烈で、容赦ない。出てくる連中はみんな悪ばかり。

金、ホモ、麻薬、ギャンブル、赤狩りが絡んだ殺人事件が次から次と起こる。
戦後世界を牽引してきたあのアメリカにこんな時代があったのかと思わせるくらい、おそらく知られたくない、誰にも探られたくない、それまで抱いていた常識と価値観をひっくり返されるくらい、しかし、事実としてあったその深い闇を作者は描いている。

「ブラック・ダリア」から始まる連作物だが、主人公は毎回異なる。共通するのは悪の中にありながら、突出して「切れる」警官たち。今回も三人の警官の、事件を通してのそれぞれの思惑と身の振り方、葛藤、焦燥感が描かれている。

そして、混沌のなかから紡ぎだすようにして導き出される一つの物語。
読み終えて、その構成力と先の読めない物語にあらためて作者の底力を感じた。


投稿者: hangontan 投稿日時: 2017-4-27 13:52:39 (359 ヒット)

前作「ブラック・ダリア」では事件に入るまでの「まくら」がとても長かった。推理小説としては類まれといってもいいくらい長かった。しかし、本作品ではいきなり、それが普通なのだろうが、事件が起こってしまい、その犯人探しが主筋となる。

「ブラック・ダリア」同様本作品も警察小説の部類に入る。一般的には、ミステリーに登場する主人公は一旦その事件に係ると、その事件一筋に突き進んでいく。もちろん枝葉の挿話や人間関係のあやなどで話を膨らましてはいる。本作品においても一人の警察官がその事件を追いかけるのだが、実際、一つの事件だけで世の中が成り立っているわけもなく、人間生きている間にはいろんなことが関わってくる。エルロイは一つの事件をそういうもろもろの世相のなかの断片として切り取るのがとてもうまい。それは時代背景というよりはその時代に生きた人間生活そのものである。であるから、複雑な人間関係と登場人物の多さは当然であり、いくつもの事件が次から次と降って湧いてきてもなんの問題もない。

描かれた一連の世相の断片が後半にきて繋がってきて、主筋の物語へとリンクしていく。高い目線で作品全体を見渡しながら読んでいくと、複雑なエルロイの作品も見え方が違ってくる。


投稿者: hangontan 投稿日時: 2017-3-31 10:23:30 (361 ヒット)

本格的なハードSFというふれ込みだったが、まさしく超ハードな内容に全くついていけなかった。久しぶりにSFの世界に浸りたいという思いはもろくも砕け散った。
この作品を読むには高度な数学的、物理学的、量子力学的な専門知識が必要。
一般市民にとって、これはかなりの難問。想像力でカバーするには限度があるというもの。ただ単に読んで終わったという印象。


投稿者: hangontan 投稿日時: 2017-3-31 10:22:33 (366 ヒット)

アンダー・ワールド三部作からエルロイの世界に入っていったものにとって、彼の出世作にあたる本著から受ける印象は、彼もはじめの頃はまともなサスペンスを描いていたのだ、ということ。アンダー・ワールド三部作のような破壊力のある作品をイメージしていたが、その意味では若干拍子抜けした感がある。

舞台は1947年のロスアンゼルス、猟奇的に損壊れた死体が発見され、その後犯人が捕まらず未解決に終わった実際に起こった事件をなぞっている。あらかじめ未解決事件と分かっているので、犯人探しというミステリーの醍醐味が欠落している作品を読んでいてもつまらない、と思うことが何回かあった。

終盤にきて、案の定未解決のまま幕引きとなったように思えた。が、まだかなりページが残っており、これから先、何を語ろうというのか、という疑念がわく。なんといっても、実際、未解決事件として閉じているのだから。だが、それだけでは終わらなかった。未解決事件を題材として膨らませたそれまでの挿話のなかにとんでもない伏線が仕込まれていた。一本取られたというのが正直なところ。

未解決事件という先入観なしに読めば、もっと楽しく読めたのだろうが、読む前にそれを知ってしまっていたので、それもせんないこと。それでも、当時の退廃的で暴力的なロスアンゼルスしいてはアメリカ全体の裏の世界に引き込む力は十分にある。怖いものみたさ、を十二分に満喫させてくれた作品だった。


投稿者: hangontan 投稿日時: 2017-3-14 11:06:24 (369 ヒット)

サラ・パレツキー、初めての本、よくできた探偵小説だ。
作者のことはこれまで全然知らなかった。本書を手にとって、初めて彼女の存在を知った。

9.11のテロ後に出されたというところに本書の持つ意味は深い。9.11後、あらゆるサスペンス、ミステリーはその事件とは無関係ではいられなくなった。現実の世界もそれを機に変わらざるを得えず、当事者のアメリカにおいては、イスラム教徒への偏見やしめつけ、排斥の傾向が強くなり、『愛国者法』の名の下において超法規的な権力の執行が可能となった。そんなさなかにこの作品は書かれた。

そういう時代背景はかつて1950年代から1960年代に吹き荒れた『赤狩り』にも共通するものがある。マッカーシーと非米活動委員会らは「共産主義者」や「ソ連のスパイ」、もしくは「その同調者」を糾弾し、その矛先はアメリカ政府関係者やアメリカ陸軍関係者だけでなく、ハリウッドの芸能関係者や映画監督、作家にまで及び、彼らのプライバシーや基本的な法的権利を踏みにじった。そして、マスコミの報道や自由な表現に自主規制がかかり、自らが標的になることに対する恐怖から、告発や密告が相次いだ。

一人のジャーナリストの不信死から始まる本書は、そういうきな臭い二つの時代をうまく癒合させ、一つのミステリーに仕上げている。

アメリカは大統領にトランプが選ばれた後、改めて国策としての対テロ活動を全面に出してきた。そんなときにたまたま本書を手にしたことは、偶然にしても、なにかしらの因縁を感じる。得てして本との遭遇は神秘的なところがあると常々感じるところであるが、本書もその一冊だった。


投稿者: hangontan 投稿日時: 2017-3-10 6:16:40 (385 ヒット)

アンダー・ワールド三部作の締めくくり。
前二作よりも推理性が色濃く出ている。だが、その真相を解くのは容易ではない。前二作からのキューバとベトナムそしてケネディとマフィアとFBIの物語の資産を引き継いでおり、この作品単独で味わうのは非常に難しいだろう。そうでなくとも、文間を読み解くのに苦心する作者の世界。作者はそこに推理性を加えて、一味付けたかったのだと思う。

前二作とは起源を別にした「エメラルド伝説」をモチーフとした物語と、それまでの物語が交錯しながら進んでいく。うまい具合に仕組まれているというか、そのどっちの物語のことを描いているのか、ごっちゃになって、とりとめもなくただただ物語が進んでいくように感じる。いったいどこで落とし前をつけるのか、どういう結末が待っているのか、それが全く読めない。前二作のものすごいエネルギーをもった物語と伍していくには、そこに新たに加わる物語はそれ相当の品質が担保されなければならない。たしかに新たに加わった物語は奥が深く、本流とうまく綾なして描かれている。しかし、それが「すとん」と収まったかと言われれば、素直にうなずけないものがある。

中途半端な破壊力はつまらない。


投稿者: hangontan 投稿日時: 2017-2-21 17:00:00 (376 ヒット)

前作ほどの衝撃はない。それほど一作目の破壊力は凄かった。
キューバ危機とジョン・F・ケネディの暗殺を主題とした物語はヴェトナムのエスカレーション、マーティン・ルーサー・キングとロバート・ケネディの暗殺を舞台とした物語へと移っていく。

前作から一貫して描かれているのは、マフィアとFBI、CIAと麻薬を絡めた裏社会の暴力。今回はそこにヴェトナム戦争によってもたらされた軍の暗部が加わって、ドラマ、人間関係ともにより複雑になり複層さが増している。

場面が刻々と変化していくなかで、ただでさえ読みづらい文章なのに、細やかで緻密な場面の動きを必死に理解しようと読み進む。しかし、読み終えてから作品全体を俯瞰してみると、複層したプロットの全体像が見えてくる。暴力的で破壊的な場面場面に一喜一憂しながら、そこにこだわって読むだけではこの作品のスケール感が見えてこない。絵画から少し離れて観賞する感覚とよく似ている。
ただ、前作よりは理解しやすく、読みやすくなったのは間違いない。


投稿者: hangontan 投稿日時: 2016-12-29 17:25:56 (458 ヒット)

歳の瀬になって、こんな爆弾を背負い込むとは思ってもみなかった。
北欧のミステリーにハマり込んだこの一年だったが、最後の最後になってとんでもない作品に出会ってしまった。いつもの例にもれず、たまたま手に取った一冊の本。それがそれまで自分が抱いていた小説という概念をひっくり返してしまった。というか、想像をはるかに超えた異次元の産物に出会った感がある。史実と虚構をないまぜにした作品はよくあるが、この作品は「虚構」の部分がとてつもなく破壊的。ガルシア・マルケス、桜庭一樹、ジョン・アーヴィング、とは全く趣を異にする想像力のビッグ・バンとも言える。

JFKのまわりに集まった優秀な人材を描いたノンフィクションにデビット・ハルバースタムの「ベスト&ブライテスト」がある。そこには権力深奥部の人間ドラマと繁栄の中のアメリカの苦悩と挫折を同調させたアメリカの現代史が描かれていて、とても興味深かい内容だった。

本作品ではそこではベスト&ブライテストであったはずの「賢人」が不正と悪と裏切りと堕落にまみれた、訳者の言葉を借りるなら、「異形のモンスター」として描かれている。加えて、ギャング、FBI、CIAなどが複雑に入り乱れ、物語は極めて重層な作りとなっている。作者自身の声で言えば「幻想を打ち砕き、排水溝から星までの新しい神話をつくりあげる時がきた。時代を裏で支えてきた悪党どもと、彼らがそのために支払った対価を語る時がきた。悪党どもに幸いあれ」、となる。この言葉もどこまでが本音なのか推し量ることはできない。
しばらくは、ジェイムズ・エルロイの世界に浸ってみよう。


投稿者: hangontan 投稿日時: 2016-12-22 16:48:08 (372 ヒット)

原題は「SOLITUDE CREEK」、事件の最初の舞台となったナイトクラブの名前。本書の内容からすれば、邦題は極めてまとも、というより的確に過ぎる。作者が何故そのまともすぎる題名にしなかったのか、そこまで出版社は考えなかったのだろうか。

終盤にきてのどんでん返しは作者の得意とするところ。この作品では、それが全く読めなかった。しかも、そのどんでん返しが複数仕掛けられているのだから、うかつに彼の作品は読んではいけない。しかし、一見なんでもなさそうな会話や、描写、一つ一つその裏を考えていたら読むリズムが狂ってしまって、とてもミステリーを楽しむところではないだろう。ここは作者に騙される、いっぱい食わされた、ことを素直に認めよう。

気になった点が一つ。今回の主人公のキャサリン・ダンスといつもの主人公アメリア・サックスがだぶってしまうということ。二人とも強くて聡明で優秀な刑事という役どころとして描かれている。しぐさや得意とするところは違っていても、話の展開が定型的なので、主人公の印象も同じように感じてしまう。キャサリンとアメリアを入れ替えても、物語的な破綻はないだろう。明らかに色合いが違う作品になってないところが残念であった。


投稿者: hangontan 投稿日時: 2016-12-15 17:26:07 (379 ヒット)

クリフトン年代記第五部。
前四部作を覚えていなくとも、この作品はこれ自体で十分楽しめる。
最近お気に入りで読みこんでいる北欧の推理小説とはガラッと趣が異なる。繊細で緻密な物語展開が際立つ北欧の推理小説は読むのにも力が入り、その分読後は深い充実感に満たされる。一方、クリフトン年代記はそうした細部にはあまりこだわらず、深読みもいらず、くつろぎながら物語の展開を追っていくという楽しさにあふれている。
ハリーはスターリンの実像を描いた作家ババコフの投獄事件に巻き込まれ、同じころエマはレディ・バージニア・フェンウィックと名誉棄損裁判で争う。ジャイルズは選挙で宿敵フィッシャー少佐に敗れる。若きセバスチャンが文字通り勢いを加速しながら物語を盛り上げている。
セバスチャンの物語があまりにも旨く行きすぎ、無茶振りにすぎるというのが、引っ掛った。


投稿者: hangontan 投稿日時: 2016-12-10 14:13:21 (417 ヒット)

「ロマ」という言葉を知ったのはいつか読んだ北欧の推理小説の中だった。
ロマという異端の人種が街の片隅に寄りそって暮らしている。一般市民からはあまりよくは思われていない下層の人々と印象付けるように書かれていた。それが事件と繋がるわけではなく、物語の情景描写の一つ、その街を形作る一つの構成要素として描かれていたに過ぎない。あらかじめロマのことを知っていたらならば、その街のことをもう少し突っ込んで想像出来ていたかもしれない。

ジプシー、ジタンもその意味をよく知らないでいたが、本書からすると、両方とも差別用語の部類に入るらしい。サラサーテのツィゴイネル・ワイゼンという有名な曲も、ツィゴイネル=ジプシー=ロマという意味で使われたようだ。ツィゴイナーと呼ばれていたロマの少年は『ツィゴイナーという言葉はぼくの青春を台なしにした』と、本書の中で嘆いている。今風で言うならポリティカル・コレクトネスとしては通らない言葉のようだ。ロマは彼らと同等にみられることに反感を覚え、自らのアイデンティティーを主張する。

流浪の民ロマの出自ははっきりとわかっているわけではないが、故郷はインド北西部にあり、11世紀初頭、イスラム教徒の侵略がありロマ民族の先祖は逃亡を開始した、というのが通説となっているようだ。その後ヨーロッパで「子供をさらうジプシー」「犯罪者集団ジプシー」との烙印を押され、差別と迫害を受け、ナチスによって相当の数が虐殺さている。そのような歴史から、現在もロマに対する偏見と差別がヨーロッパに根付いており、ロマは厳しい生活環境におかれている。

そんなロマのことを理解してもらうために出されたのが本書だ。
最近イギリスのEU離脱が決まった要因の一つに、移民や難民に対する拒絶感が上げられる。イギリスに限らず、北欧諸国も洗練された国々という印象がある半面。下層民や移民、難民に対する偏見と差別は確実に存在するようだ。

ロマという少数民族を通してヨーロッパの一面を知らしめてくれた一冊だった。


投稿者: hangontan 投稿日時: 2016-12-1 15:06:15 (444 ヒット)

ジョン・クラカワーの本としては二冊目。一冊目はあの1996年のエベレストの悲劇を描いた「空へ」。今回は2010年から2012年にかけてモンタナ州第二の都市ミズーラで大学のアメフト選手が引き起こしたレイプ事件(キャンパスレイプ)の真相について深く斬り込んでいる。
前作「空へ」のときも感じたが、彼の仕事は綿密な取材から始まる。具体的には直接当事者にあって、事件を忠実に再現する。その際個人的なコメントは極力控え、ひたすら事件の全体像を描くことに専念する。その上で、それに対してどんな見方があるか、出来るかを双方の立場から検証する。それゆえ読み手は彼の記述に沿って容易に事件の真相と司法制度の矛盾点についての考察をめぐらすことができる。

「レイプとは同意を有しない性交」であると本書では定義されている。同意を得たか得なかったかの確証が得難いため、レイプは起訴まで持ち込まれないケースが多い。仮に訴訟に入っても、そこに待ち受けているものは「セカンドレイプ」、わなわち、事件の詳細な再現がその場でなされ、被害者にはレイプ同様の苦痛が待っている。それゆえさらにレイプが訴訟にまで至るケースが少なくなる。

レイプは顔見知りによる犯行がそのほとんどである、約8割という事実。見ず知らずの人間に突然襲われるというケースもあるが、大半は顔見知りによる犯行なのである。幼馴染であったり、大学での顔見知りであったり、それまでは被害者と普通に付きあっていた者がレイプを起こすのである。しかも、レイプは再犯率が高い。被害にあった女性は、自分のような苦痛を他の人に経験してほしくない、あるいは自分のような苦痛を味わった女性が他にもいるに違いない、との思いから意を決して届け出るのである。

まず、有罪か無罪かの決定がなされる。それまで、被害者はセカンドレイプを訴訟の場だけではなく、彼女の周辺の様々な場所からも受けることになる。加えて、外野からの中傷にも耐えなければならない。本書で扱われている事件では、モンタナ大学アメフトチームの街ミズーラという特性、アメフト選手の特権意識、そういう背景からくる世間の偏見「訴えられたレイプの半数は嘘」、とも闘わなければならない。よほどの強い信念と心がなければ、とても裁判に耐えられるものではないだろう。

有罪を勝ち取ったにしても、次は量刑の判断である。これも悩ましい問題だ。過去の判例からある程度の目安があるのだろうが、それがかならずしも被害者の納得のいく結果とはならない場合がある。ということを本書では述べている。

仮に近づきになりたい男性といちゃついていて、結果性交に及んだとしても、途中で女性がそれを拒否した後も性交が続けられればそれはレイプ「同意を有しない交渉」と見なされる。このとき、女性が拒否を明確に言葉にしたか、態度で表したか、を判断するのは非常に難しい。男性側からすれば、後からそんなことを言われても、夢中になっている最中でその言動と態度が曖昧であれば「同意を有しない」と受け取ることはほとんど困難だ。それを訴訟にもっていかれたものではたまったものではない、という見方もできる。

こうして見ると、裁判で争われるのは有罪か無罪かであって、そのどちらであっても、真実はまたそれとは別にある場合があることも想像できる。真実は被害者と加害者の心の内にあるというのもレイプ訴訟の特異な点だということを実感した。


投稿者: hangontan 投稿日時: 2016-11-25 6:31:11 (368 ヒット)

1997年に出された作者の処女作。第二次大戦の末期から物語は始まる。
物語は前半と後半に分かれている。ドイツの偵察に向かった主人公二人の乗る偵察機が撃ち落とされる。深手を負いながらも適地からの脱出を試みる二人は列車に飛び乗るが、それは精神を病んだナチスの将校らを運ぶ車両だった。そのまま、精神を病んだ者たちが収容されている病院に収容される。その施設の名前が本書題名のアルファベット・ハウス。

二人が撃墜されてから施設に収容されるまでの物語はかなり緻密に描かれている。というよりは、登場するものすべてにおいて、人物であったり、風景であったり、こと細かく再現されている。まるで、其処に居た者が見えるものをすべからく描きだそうとしているかのようだ。であるから、読み手も忠実にその場面を目で追うことが可能だ。

ナチスの上級将校に成りすました主人公らのアルファベット・ハウスでの生活ぶりの描写にも手抜きがない。電気や薬物を使った治療法は生々しい。それほどの拷問ともいえる治療を受ければ、まともな人間でも精神を病んでしまうだろう。それでも生き残るためには仮病を装い続けなければならない。そんな二人の精神状態の描写は真に迫る。そして、一人は脱出し、一人は施設に残されたまま終戦となる。ここまでが前半。

後半は精神病棟から脱出したブライアンが、長年の月日を経て後、残してきたジェイムズを探す旅と双方の心の葛藤を描く。
ブライアンはジェイムズの消息を追うが、あらゆる方面から手を尽くして調べても、杳としてジェイムズの消息はつかめない。しかし、ほんのちょっとしたきっかけからブラウン自身の過去へのつながりを見出し、それがジェイムズとの再会へと導いていく。この辺の追跡場面の組み立てもそつがない。「特捜部Q」シリーズでみられた緻密な捜査手法を中心に据える物語展開は、このとき、彼の処女作にしてすでに出来上がっていた。

収容所仲間との死闘の末、ようやくブライアンはジェイムズとの再会を果たす。だが、ジェイムズは生き残るため精神病を演じ続けるうちに、本当の自分を心の奥深く閉じ込めてしまっていた。ジェイムズはブライアンとの再会で覚醒するが、ブライアンを受け入れることができない。脱出に成功した一方は普通の家庭を持って幸せに暮らしていて、方や残された一方は精神病患者として、ただただ生ける屍同然の時間を過ごしてきた。そんな長年の月日のうちに生じたブライアンとの大きな溝と格差を呪い、ブライアンを許すことができなかったのだ。

失われた時間と、異なる環境下かにおかれた二人の心の内の隔たりはあまりにも大きく、哀しくて辛い現実を突きつける。二人の関係はどうなるのか、終盤に来て手に汗握る展開となり、最後のページまで目が離せなかった。


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