最終章「蒼穹の章」、その最後の最後は目がしらを熱くせずして読めないだろう。
途中読みながら、水滸伝はこれで一服にしようかと幾度思ったことか。それがこんな終わり方をされたのでは、また次を手にとってしまいたくなった。
「水滸伝」の中で楊令が初めて登場しとき、こんな幼子が戦さに関わるには随分長い話になるのだろうな、まさかね。と思いながら読んでいた。その楊令が梁山泊の総帥となって、宿敵禁軍の将童貫に戦いを挑む。第二次梁山泊、そして第二世代梁山泊の物語である。
童貫との戦いを終えたとき、水滸伝第二部の完となる。ざわざわとした余韻を残したまま、ここで打ち切りにしてもよかったと思うのだが、作者はそうしなかった。
「水滸伝」では腐敗した宋という国への反抗精神に満ちた梁山泊の胸のすく戦いぶりが見ものだった。「楊令伝」では童貫を討った後、梁山泊は第一世代の資産を活かしたまま、さらに発展させ、基盤を盤石のものとし、第二世代のつわものが育ち、中華において最強の軍団となってしまった。はたして、戦のあと梁山泊はどうなるのか、楊令はその後どんな生き方をするのか、そこに興味の的がいく。
楊令は言う「俺は、自由市場が普通の市場であり、物資が豊かに流れる国を作りたい。それはもう、国とは言えんのかもしれん。国が果たすのは、物流の統制。治安、国外からの攻撃に対する防御が中心になる」、と。これはもう現在の国あり方そのものを代弁している。
はたして楊令の国づくりはどんな結末を迎えるのか。それが楽しみでページをめくっていった。
コレクションズとは人生の様々な物語を集めてつなぎ合わせた「集成」のことかと思ったら、そうではなかった。綴りが違った「L」ではなく「R」、すなわち「修正」の意だった。
ジョナサン・フランゼンの二冊目。もっとも、先に読んだ「フリーダム」よりこちらの方が先に書かれている。「フリーダム」を読んだ直後、思わぬところで再びフランゼンの作品に出逢った。この種の奇遇に度々驚かされることがある。人との出合い、本との出会いは不思議なものだ。
作品としてはジョン・アーヴィングと似た雰囲気が感じられ、文学的だが自分には一番ついていけない種類の作風。
「フリーダム」よりは、こちらの方が物語的にはおもしろいように感じた。「フリーダム」は、ややもすると風俗小説ギリギリの感があった。やたら「寝る」「セックス」という言葉が出てくる。頻繁に、どころではない。究極の欲望の物語だった。「コレクションズ」「フリーダム」とも、ストーリー展開を楽しむというよりは、「会話と心情、そして生活の緻密な描写」に引き込まれるという作品だ。「コレクションズ」ではそれももちろん秀逸だが、それにストーリー性も加味されていて、面白みに勝ると感じた。
作品では老夫婦とその二人の息子と娘の生きざまが描かれている。その中でも、パーキンソンと痴呆に病んでいる夫と、その夫に付き添う夫人の物語が重みを増している。やがて自分にも来るかもしれない老いの世界。それを大胆にかつ緻密に描き出している。まざまざと見せつけられる老いの現実。それだけでも迫力十分。そこに三人の子供たちそれぞれの物語が加わり、老夫婦の暮らしとリンクさせ、それでいて全体のバランスもうまくとれている。
2001年に全米図書賞、全米書評家協会賞、ピュリッツアー賞、PEN/フォークナー賞にノミネート。結局、全米図書賞に輝いた。それだけの内容はあると思う作品だ。
初めて北方謙三の作品を手にとった。
全19巻、最初全部読み切れるかと思ったが、そんな杞憂は読みだしてすぐに吹き飛んだ。
1巻を読めば2巻、2巻を読めば3巻と、次々に物語に引き込まれていく。特に10巻頃から始まる梁山泊と禁軍の将童貫との総力戦は圧巻。時間も忘れての一気読みに突入していった。
敵を倒すための戦略には様々な要素が絡み合う。彼我の軍力の分析、兵の調練と将の配置、諜報と兵站。そういった梁山泊と官軍の読み合いとかけ引きの物語はそれだけでも十分おもしろい。しかし、ここに描かれているのは、まさしくそこに生きた人の物語である。疲弊し腐敗したた国を立て直すため、どんな人が集まり、どんな英傑が登場し、彼らが何を思って戦って、死んでいったか。それより、なんといってもおもしろいのは、小が大に立ち向かうことの痛快さである。数では絶対的に劣る彼らが、その志のもとに一丸となって官に立ち向かう。これほど庶民の心を揺るがす物語はあるまい。
思えば、昔っから中国という国は、同じことの繰り返しではないだろうか。近代に入って、毛沢東のときもしかり、現代に至っても一党独裁のもとでの役人天国。梁山泊の頃と少しも変わっていない。
怒涛の762ページ、定価4000円のこの分厚い本は読み応え十分。
よきにつけ悪きにつけ現代アメリカの姿を鮮明にかつ克明に描写していると思われる。(なにせアメリカには行ったことがないのだから、想像の中でしかないのだが)
自分に対して忠実に生きようとする夫婦、とその家族、そしてその周りの人々。男女間の、欲望の深さと錯綜。子供が大人として自立していく過程。何が正しくて、何がいけないのかとかそんな枠を超えた、理屈抜きに物語自体を楽しませてくれる力がこの作品にはある。長編ながらも、冒頭から最後まで一貫した読み応え、ただ単に読み進むことの快感が持続する。主人公らの日常に自然と引き込まれてしまうのは、そこに自分の姿の投影を見るからであろう。
「模倣犯」のようなおぞましいミステリーかと思って臨んだら、そうではなかった。
14歳の中学生の校舎からの転落死を主題としているのに、その悲壮さや重さといったものは全く感じさせない。たとえが適切でないかもしれないが、きりりとしたすがすがしささえ感じたのは私だけだろうか。
仕事の旅先から戻ってみると、予約してあった図書館の本が届いていた。かみさんが代わりにとりにいってくれていたのだった。見てびっくり、分厚い三巻のボリュームに圧倒された。だが、返却期限までゆっくりと読んでいられない。山にも行きたいし、会合やら、確定申告やら、仕入れやら、他にももろもろやらなきゃいけないことが溜まっている。「この本は人気があって、あとに予約が詰まっているから、期限までに返してほしいんですけど」と、期間延長はやんわりと断れている。従って、旅先までは持っていかれない。野暮用は手抜きでやっつけて、再び旅先に出向くまでの短い間、「ソロモンの偽証」を最優先事項とすることにした。
いじめか、あるいは他にも深いテーマが潜んでいて、連続殺人へと進展いくのかと思わせる冒頭。読み進むうちに、死亡した少年と同じ学校に通う中学生らには真実を突き止めようとする機運が持ち上がり、突拍子もない行動に出る。あれ、少年探偵団?と思っていると、さにあらず、すかさず少年法廷へと物語は進んでいった。
リーガルサスペンスでは、スコット・トゥローやジェフリー・アーチャーがお気に入りだが、日本人にはこんな小説は書けまい、と常々思っていた。しかし、こんな手があったのか、と一本とられた気分。
この作品の初出は「小説新潮」。おおよそ、中学生や高校生を読者の対象とはしていない。主題は学校問題。文章は平易で、読みやすい。「金田一少年の事件簿」や「名探偵コナン」のノリで描かれている。だから、中学生や高校生が読んでも十分楽しめる、それどころか、彼らにもぜひ読んでもらいたい内容。それなのに、なぜ、作者はこの作品を「小説新潮」に掲載したのか。しかも、並みのボリュームではない。自分の子育てを通してでも感じたことだが、きょうびの中高生は、大人が思っている以上に、よく物事を考えていると思うことがある。そして、その発言にハッとさせられる場面も多い。この作品ではそれが如実だ。同じ校舎に通う同級生または同学年の生徒らが、一中学生の死の真相を知るために立ちあがる。その真実を知ることが彼ら彼女らの明日につながり、それがなくして彼らの未来はあり得ない。少年法廷の形をとって、彼らの多感な心情が綴られていく。あまりにももろく、素の中学生の気持ち。それを「小説新潮」の読者であろう大人に「読んで」もらうことが、作者の意図したことではなかったか。学校問題解決の一つの糸口として。
そして、改めてそれがこうやって単行本となって世に出て、再び大人が手に取る。当然、中高生や大学生、教育関係者も読むようになるだろう。そうやって、混じり合わない世代間の意思の共有がはかられていく可能性を秘めている、そんな作品だと感じた。
今年の本始めは、ジョン・ル・カレ。
とびっきりのスリルとサスペンスがあるわけではなく、まぁ、「大人」のスパイ小説といったところ。邦訳の仕方にもあるのだろうが、なんとなく、レイモンド・チャンドラーの「ロング・グッドバイ」の雰囲気を感じてしまうのは私だけだろうか。
スパイ、彼らのその世界のことは知る由もないが、想像を掻き立てられる世界であることには間違いがない。人は、なんで、スパイ小説に魅力を感じるのか。それは、やっぱりスパイが演じる「きわどさ」にドキドキさせられるからではないだろうか。
本作品はその「きわどさ」から少し距離をおいたスパイ小説となっている。
本年の読み納めはジェームズ・ボンド。
「ボンドはふだんは紐靴は履かない、例外はコンバットブーツが必要なときと、紐の結びかたによって仲間のエージェントに暗黙のメッセージを伝えるときに限られる」
うーん、なるほど。
ジェフリー・ディーヴァーが描くボンドはいかに、おそらくジェフリー・ディーヴァーファンならばほとんどの人がそう思ってこの作品を手にとったのではないだろうか。
結論からいうと、やはりこれまでのリンカーン・ライムシリーズの手法をそのままボンドに踏襲した作品となっている。「1953年にイワン・フレミングが生み出した世界一有名なキャラクターを、数百万の読者を失望させることなく現代に蘇らせること」は並大抵のことではない。
冒頭、ボンドの危機一髪から始まるアクションシーンは、映画のそれを彷彿させる。あの有名な出だしのスクリーン音楽が聞こえてきそう。また、セルビアからイギリス、そして南アフリカとめまぐるしく舞台が変わるのもボンド映画のお定まり。もちろんボンドガールも登場する。
まぁ、ジェフリー・ディーヴァーが手掛けただけあって、一応のレベルには達している。しかし、リンカーン・ライムシリーズのパターンが読めているだけに、斬新さに欠ける印象。切れ味という点でも、もうちょっと。もっと違った筆致のボンドが読みたかった。
今度の池井戸潤はいつもとは一味違う。
舞台は大手総合電機会社ソニックの子会社東京電建。会社という組織は様々な部署の有機体。そこにはそれぞれの立場、それぞれの生き方がある。そのそれぞれの仕事に携わる“社員=人”をオムニバス形式で綴りながら、全体として一つの物語に集結させている。そのさりげなさ、というか、挿話と本筋の構成の妙、技巧に走らないストーリーテリングのうまさが際立っている。
会社とは何か、仕事とは何なのか、究極の選択を迫られたとき、どう人間は動くのか。
なんとまぁストレートな題名だ。
どうせ話題に乗じた紋切調の薄っぺらな内容の本だと思っていたら、これがまた、おもしろかった。
件の事件がなかったならば、それほど興味を示さなかっただろう「竹島」。
韓国に加えて中国との微妙な外交戦を軽妙なタッチで描いている。まるで、落語の小噺や講談を聴いているかのような心地よさ。テンポの良さは最初から最後まで続く。
一発触発の緊張感のある難しいホットな題材を、コミカルでハートウォーミングなサスペンスを通して、やさしく説いてくれている。「領土とは言葉だ」なるほど、よいお勉強になった。
うむ、門井慶喜、なかなかやるな、気になる存在だ。
初めての赤川次郎。
売れっ子作家の作品はどんなものだろうかと思って、手にとった。
“マンガ”みたいなものかと想像していたが、少し違っていた。どちらかと言えばファンタジーに近い。
ベルリンの壁がもたらした悲劇を日本にまで引っ張り、ファンタジー仕立ての推理小説に仕上がっている。そして、小ざっぱりと短くまとめてある。題材を活かせば、書きようによっては、もっと重厚な作品に仕上がると思うのだが、あえてそうしないところが赤川次郎たる所以なのかもしれない。同じモチーフで高村薫が書いたなら、心にずしりとくる作品になるであろう、と思ってみたりする。
次はベストセラーを読んでみよう。
今やバンカー、リーマンのバイブルとなった池井戸潤の作品。もちろんバンカーでなくとも、楽しめる。
東京中央銀行から子会社の証券会社に左遷された半沢が、IT企業の買収劇をめぐって本社と真っ向勝負。銀行側の理不尽なやり口に半沢が牙をむく。「やられたら倍返しだ」
半沢の生きざまは実にカッコいい、明快で痛快だ。半沢の生き方に共感を覚えるのは私だけではないだろう。池井戸潤は会社人間の悲哀を描きつつ、人としてなくしてはならない矜持を登場人物に語らせている。たとえ自分の考えが正しいと思っていても、背中を押してくれる者がいなければ、なかなか前に行けないものだ。もし30年前に池井戸潤と出逢っていたならば、自分にはまた別の人生があったかもしれない。
最近のジェフリー・ディーヴァーの作品は、人々の関心が、今、何に向いているか、我々の生活の身近なところに着目し、それらがもたらす恩恵とその裏側にある危うさをテーマとしている。
「ソウルコレクター」では“データマイニング”を主題として、身の廻りのあらゆる情報がデジタルデータ化されている現代社会の裏に潜む悪をあばいてみせた。そして、今回のテーマは“エネルギー問題”。今ではそれに必ず付いてまわる代名詞“代替エネルギー問題”の“仕掛け”をちらつかせている。今まさに旬の作品といえよう。
物語の中盤で犯人が特定され、捜査はたたみかけるようなスピードで犯人に迫る。だが、しかし、リンカーン・ライムの読者なら、このままで終わるはずがないことを知っている。これから、どうやって読者を楽しませてくれるのか、どんな展開がまっているのか、それを期待しながら読み進む。これもまた、リンカーン・ライムシリーズのお定まりとなっている。
本作品がこれまでの作品と若干違うのは、捜査終了後の余韻をうまく描いている点だ。事件とは直接関わり合いのない何気ない挿話が最後の最後にきて生きてくる。事件の決着後にくるもう一つの物語。それをうまく仕組んだジェフリー・ディーヴァーはさすがだ。シリーズはまだまだ経年劣化していない、次回も楽しみだ。
原題もそのまんま「Silent Spring」
この本は1962年にアメリカで出版され、その直後1964年に邦訳されている。以来、平成20年の時点で71刷。実に長きにわたって支持され読み継がれている。
今でこそ農薬禍に対する考えは多くの人々の間で共有されており、ときには過敏とさえ思える面も見受けられる。しかし、この本が書かれた頃はまだ農薬の有効性ばかりが先にたち、その有害性についてはほとんど論じられていなかった。
この作品が出された背景の一つに、1930〜50年代の農薬乱用ということがある。当時、ただ単に無駄あるいは不必要と思われる草花(雑草)の除去、作物や人間にとっていらない虫や病害虫の駆除のため、むやみやたらと化学薬品が使用された。その「スプレー」のやり方が尋常ではなかったのだ。膨大な量と広範囲にわたり、大義名分の名のもとに、なりふり構わず薬品がばら撒かれていた。それが自然界にどんな負荷を与えるか、またそれによって人間がどんなしっぺ返しをくうか、おかまいなし。とりあえず目先の利益が得られれば、それで良しとした。
著者はその実態を丹念に調べ上げ、行われた愚行を一つ一つ書き記している。本書はその実証データの羅列といっても過言ではない。これでもか、これでもかと、ややくどすぎるくらい書き連ねている。
彼女は化学薬品の乱用を危惧し、未来への警鐘を鳴らした。しかし、本書が出されてから50年近くたった今、現状はどうであろうか。日本ではリンゴやブドウなど、ほとんどの果樹栽培には過剰とも思えるほどの農薬散布が欠かせない。一面真っ白になるくらいの果樹園、それも一回や二回ではない。そこまでしないと消費者に好まれる果実が収穫できない現実。フィリピンなどのプランテーションで栽培されるバナナもしかり、作業者の健康を脅かすくらいの農薬が使用されている。というか、現地で働く人たちの犠牲によって我々は安価で旨いバナナの提供を受けている。事態はひとつも変わってないように思われる。
「化学薬品はなんでも悪である」との読み方はしないが、自然界に限らず、すべてにおいて強いインパクトを与えるものは必ずや負のインパクトをもたらす可能性がある。そう考えておいて間違いはなさそうだ。
「暗号解読」「代替医療のトリック」に続いて、サイモン・シンとしては三冊目。
ネット上の書評は非常に高い、ほとんどが五つ星。しかし、自分としては最初に読んだ「暗号解読」のインパクトが大きかっただけに、それと比較してしまい、あとに読んだ二作品はそれほどのインパクトはない。もし、最初に「代替医療のトリック」あるいは今回読んだ「フェルマーの最終定理」を手にとっていたならば、双方とも間違いなく星五つとなっていただろう。それでも「暗号解読」のほうがおもしろさに勝っていると思う。
今となっては解明されたので「フェルマーの最終定理」と定義されているが、1995年にそれが証明されるまでは「最終予想」と呼ばれるべきであった。それでも、それがなんであるかは知らなくても「最終定理」という言葉はこれまで何度となく耳にしてきた。
本書でサイモン・シンはこの「最終予想」がどのようにして解かれるに至ったか、解明の歴史を記している。そして、そこに登場する人物やその時代背景をまるで見てきたような語り口で描いている。数学的な命題にストーリー性を持たせ、かつ臨場感も味わせてくれる。そこが、ただ単に「フェルマーの最終定理」について素人向けに説いている入門書とは趣が異なる。
フェルマーが予想してから、実に350年の後にしてようやく解明されたこの定理。多くの偉大な数学者が挑んできた。それぞれが証明に一歩ずつ近づいていくのだが、証明までには至らなかった。そこにみられるのは理論の積み重ねであった。すなわち、あとに続いたものが、前者の理論をうまく取り込んで次のステップに進んでいく。それ自体非常に評価されるべき偉大な一歩といえる理論ばかり。そんな試行錯誤があって、次第に解明へと近づいていったのである。そして、最後に頂上に立ったのがアンドリュー・ワイルズだった。
ただ一人のあるいはチームによる一時代的な話かと思っていのだが、これほど劇的な展開が一つの定理の裏にあったとは思いもよらなかった。数論の一定理を壮大なドラマに仕立てしまうサイモン・シンの作品は一般向け科学書としては秀逸である。
「代替医療」とは、「主流派の医師の大半が受け入れていない治療法」と本書では定義されている。さらに本文中の言葉で言い表せば「科学的根拠にもとづく医療」以外のすべての医療行為ということになる。本書では科学的根拠にもとづかない医療を厳しく断罪している。そして、なぜそう主張するのか、科学的根拠(信頼性の高いデータ)にもとづいて解説している。
訳者あとがきでは、「二人の著者の狙いは、これだけ普及している代替医療を、メカニズムが科学的に理解できないからといって頭から否定することにあるのではない」と言っているが、小生の感ずるところ、彼らの主張は限りなくそれに近い。「科学的根拠にもとづかないものを認めるわけにはいかない」と。
ここでは主要な「鍼」「ホメオパシー」「カイロプラクティック」「ハーブ療法」に焦点をあて、科学的根拠の無さを証明している(一部限定された効果については認めている部分もある)。しかし、なぜそれにもかかわらず、現代において多くに人々に認知され医療として扱われているのだろうか。その裏には何らかの要因があるはずだ。そこで、効果が証明されていない、または反証された医療を広めた責任者の登場となる。その責任者とは、「セレブリティ」「医療研究者」「大学」「代替医療の導師たち」「メディア」「医師」「政府と規制担当局」「世界保健機関(WHO)」。中でもイギリスのチャールズ皇太子の“貢献”についての記述は手厳しい。
科学者らしい正論を歯に衣着せない文体で、かつ、素人にもわかりやすく解説している。だが、「科学で説明できない、自分が認めないことは真実であるはずがない」という主張になんとなく引っかかるものがある。たとえ科学によって代替医療が全否定されたとしても、代替医療が根絶することはないと思う。人間の心には白と黒、完全に割り切れない部分が相当ある。それが人間をして人間たらしめる所以ではなかろうか。そう考えると、本書ははかない抵抗のようにも思えてくる。
変死した妻の遺体発見から通報まで空白の一日。その間に何があったのか。
そして被告として裁かれるのは、夫のラスティ・サビッチ。上訴裁判所首席判事、州最高裁判所判事候補だ。20年前「推定無罪」で裁かれてから、再びサビッチが被告として法廷に立つ。
今や60歳になったサビッチは性懲りもなく前回同様不倫を犯してしまう。しかも、今回の相手は20歳以上も若いすこぶるつきの才女。いつもながら中高年にとってはうらやましい役柄。その不倫が今回の事件と関係があるのかないのか、サビッチはそのために妻を殺したのだろうか。それとも誰か他に犯人がいるのか、あるいは自殺なのか。
「推定無罪」ではサビッチが無罪と判決が下されたものの、本当に彼はやっていないのだろうか、自分的にはそんな疑惑がぬぐい切れない。そんな中で出された今回の作品。サビッチはどうなるのだろうか、逃げ切れるのだろうか。そんな思いで読み進む。
「推定無罪」を読んでいなくても楽しめるとは思うが、サビッチや他の役者の人物像が頭の中にある程度出来ていた方が、よりおもしろく読めると思う。法廷場面の描写は臨場感があて、さすがという感じ。不倫相手との情交場面もなかなか読ませてくれている。
「推定無罪」と重ねて読んでしまうところが、面白みを倍増させる、とともに、“二番煎じ”という感も同時に沸いてきて、なんとも不思議な作品となった。
一度買った本はなかなか捨てられない。いつの日にかまた読む機会があるだろうと、とってあるのだが、そうでなければただの飾りにしかすぎなくなってしまう。
いつまでも本棚の肥しにしておくのもしゃくだし、かといって捨てるに忍びなく、最近になってその中から一冊ずつ取り出して読み返している。本書もその一つ。
二十数年ぶりの再読となる。
先に読んだ「ベスト&ブライテスト」と甲乙つけがたい面白さ。
第四の権力と言われるメディアについて、アメリカでの勃興と富と苦悩について描かれたノンフィクション。新聞や雑誌、ラジオ、テレビがいかにその時代時代において政治や市民と関わってきたかを時代背景とともに示し、またそれぞれのメディアの担い手たちの人間味あふれる姿を描き出している。現場記者の描写は迫真に満ちて、もちろんおもしろいが、それより巨大メディアを築き上げた“社主”の姿が数多くのエピソードを通してとてもうまく描かれていて興味深い。
本書では、ワシントンポスト、タイムライフ、ニューヨークタイムズ、ロスアンジェルスタイムズ、CBSを追ってそれぞれのメディアの一時代を切り取っている。
話はケネディ、ジョンソン、ニクソン大統領の時代を背景とし、ベトナム戦争、大統領選挙戦、ウォーターゲート事件を主な題材として取り上げている。
どのページをとっても新鮮な話ばかり。だが、特に印象に残ったのは、新聞、雑誌、ラジオが時の権力と密接な関係にあったこと、ときには政治家の代弁者そのものであったこともあり、またそれがメディアの意思でもあったということ。テレビの時代に移ってからは次第にその傾向は薄くなっていくが、逆に政治家がテレビを利用し始める。1960年の大統領選でのケネディとニクソンのテレビ討論では、まさしくテレビが決定的な力を持つことの証左として認識されることになった。ことのきケネディ側が彼のテレビ映りをよくするためにと選んだ「マックスファクターのクリームパフ」がその勝敗を決めたことは今も語り草になっている。その後、テレビと大統領選とは切っても切れない関係となっていった。
また、ウォーターゲート事件報道の裏側にあった話も実に興味深い。その時、それぞれのメディアはどう動いたのか、現場記者とメディアトップとのやり取り、そして会社の運命を決めることになるかもしれない記事や報道に対するトップの決断。それらが臨場感たっぷりの筆致で描かれている。
メディアの先進国アメリカ(少なくともう自分は日本のはるか先を行っていると思っていた)の、その知りえなかった世界がここに描かれている。
もしかして、これは「LOST」みたいな物語なのだろうか。読んでいるうちにそんな思いが頭をよぎる。
テレビのコロンビア白熱教室でシーナ・アイエンガー教授は「選択することが困難を切り開く力になり得る。選択こそ人生を切り開く鍵である」と説いていた。
その選択の根拠は何か?私たちは朝起きてから、夜床に着くまで様々な選択と決断をそれと意識せずに下している。しかし、特定の場合、特に困難な場面に遭遇したとき、明らかにこれから進むべき道の選択を迫られ、それを意識する。
ここに出てくる主人公はその選択のよりどころを確立論と統計学に求める。あーなって、こーなって、そうすると次に起こりうる選択枝は、そしてその確率は・・・。しかし、自分自身で決めていたはずの行動が、集合的無意識に左右されていたとしたら。
サイコロの目の出方や、ポーカーゲームなどを確立論でやさしくひも解いたりして、数学や物理に興味のある高校生にはお勧めの本かもしれない。
それと。巻末の「謝辞」が作者の人柄を伝えているようで好印象を抱いた。
1975年に書かれているこの本は、すでにアラブとアメリカとの悲運を捉えていた。
アメリカのイスラエルへの武器供与に対するパレスチナゲリラの憎悪。
テロの主体はパレスチナゲリラからイスラム原理主義過激派へと移っていく。
9.11の惨劇はなにも突然に降って湧いたものではないことをあらためて感じる。
パレスチナゲリラと手を結ぶのは、ことのきすでに暗躍していた悪名高きカダフィ大佐、そしてベトナム戦争で捕虜となった元海軍将校。対するはパレスチナゲリラを執念深く追ってアメリカにやって来たモサドの諜報部員。元海軍将校が企てたのは飛行船による満員のフットボール会場での大量無差別殺人。
物語は緻密でストーリー的には破綻はない。役者も丁寧に描き込まれている。場面作りも申し分ない。作り方的には時代を感じさせるが、昨今流行りのジェットコースター・サスペンスとは違って、ひたひたと迫りくる緊張感がたまらない。
本が世に出るということは、たぶんに、偶然によるところがあるのでは、と思うことが多々ある。
本書もその一つ。たまたまこの作品が村上春樹の目にとまり、彼が邦訳することになった。
本の表紙に“村上春樹訳”と書かれていなければ、自分の目にとまることもなかっただろう。
村上春樹自信のオリジナルはまだ一つも手にとっていないというのに、彼の訳した外国書はこれで三冊目。彼自身の作品がうちの書棚にないわけではないのだが、なぜか遠のいてしまっている。
日本語以外で書かれた本は、邦訳されてしまうと、その時点でそのオリジナル性はなくなってしまう。村上春樹のように著名で偉大な作家が訳すとなると、その作品はその作家が訳した本だから、さぞ読むに値するのだろう、ということで手にとってしまう。実際、これまでに読んだ村上春樹訳の作品は、その期待をうらぎることはなかった。
世界が終ったあとの世界。零下30度にも40度にもなる極北のシベリアがその舞台。
廃墟と化した街とシベリアの厳しい自然との取り合わせが妙にマッチする。
汚染された街でのサバイバル劇は3.11後の福島と重なりあう。
訳者村上春樹がこの作品の邦訳にとりかかったのは、3.11の前年。その作業途中でのあの惨劇。「この作品が何かの啓示とかそういうものではない」と、あとがきで述べているが、それを暗示させる内容があるのは確か。これを偶然の一致と捉えるならばそれまでだが、そうではない不思議な因縁というものを感じたは私だけではあるまい。
期せずして、3.11後に出されることになったこの作品の力を思わずにはいられなかった。
なぜ4割打者の絶滅と進化論が結びつくのか?
メジャーリーグでは1941年を最後に4割打者が出ていない。守備力や投手力の向上に対して、打撃が追いつけていないからなのか。打率は相対的なものであり、100メートル走などのような絶対的な記録とは異なる。一方、守備力はある程度、絶対的数値で測ることが可能だ。エラー率などは統計的にみると確実に少なくなってきている(これにはグラブの向上なども貢献している)。
一方、平均打率は、メジャーリーグの歴史において、どの時代でもおおむね2割6分台をキープしており、大きな変動はない。ボールの芯を硬く巻くと、より遠く飛ぶようになる。それはそれで観客の喜ぶ結果になる場合もあるが、試合そのものを大味にしてつまらなくしてしまう。すると、ピッチャープレートとホームベース間の距離を伸ばすことによって、打率はある程度減少する方向に導かれる。
昔はカーブとストレートぐらいしかなかったが、これは打者に有利に働いた。しかし、グラブの向上が守備力を高める結果をもたらすことにもつながった。昔のグラブは球を補足する“カゴ”などついていなかったのだ。そのうち、球種が増えてくると、守備側が優位になってくる。しかし、打者も打撃技術の向上によってしだいに適応するようになる。
ようするに、こうゆうことなのだ。
初期の頃のメジャーリーグではまだ守備、打撃ともに技術力はまだ発展段階にあった。打率や守備力は個人の先天的能力に左右された。平均打率こそ2割6分であっても、それには左右、下から上まで、大きなばらつき(多様性)がみられた。4割打者も出た代わりに、1割前後の打者も多かったわけだ。それが、時代がたつにつれて、打撃、守備双方に技術的向上が進み、全体として大きなばらつきが(多様性が)少なくなって来た。(打率で言うと標準偏差が小さくなってきた)。左右の振れが少なくなり、打率の変異が時代とともに凝縮されてきた。当然、その右端に位置した4割という振れも左に動き、4割打者が出にくくなってきたというわけだ。しかし、これは4割打者がこれから先、出ないということを示すことにはならない
なんとなく分かったような。
これまで一般的であった末広がりの生命樹とは相反し、多様性の減少と悲運多数死が進化の姿だというグールドの説には共鳴できる。4割打者の絶滅の理由は、技術力向上による多様性の減少(標準偏差の縮小)から導かれる、ということは分かった。しかし、右壁がなぜ4割でなければならないのか、それにつていはいま一つ解答がなかったような気がする。
1909年、カナダ、ブリティッシュ・コロンビア州の東端に位置するカナディアンロッキー、スティーヴン山系の高度2400メートルの斜面に露出しているカンブリア中期(5億5千年前)の頁岩層から動物群の化石が多数見つかった。
1960年代から、その化石群の再評価がなされ、そこに生息していた節足動物は現在の分類群にあてはまらないものが多くあることが判明した。
そこから、著者グールドは進化論についての再考を促す独自の主張を展開する。
すなわち、
『現生生物に見られるパターンは連続的な多様性の増大と進歩向上によってゆっくりと進化したわけではなく、(形態的デザインが最初に急速に多様化した後に起こった)とんでもない悲運多数死によってしつらえられたものなのだ』
それは「偶発性も重視する断続的進化論」であり、それまで一般的に唱えられてきた進化論の主流、「自然淘汰の作用を最大限に重視する漸進的進化論」と相反する。
本書を読む前から常々、生物種の多様性を不思議に思っていた。たとえば、人類の肌の色や、目の色、髪の色の違いは元を辿るとどこに始まるのか、人類の祖先が猿やネズミと同じとはとうてい思えない。元は黄色や、緑の肌の人間もいたのではないか、今よりももっと多種多様な生物がいて、それらの一部が消滅してしまった生き残りが現在ある姿なのではないか、と思ってみたりすることもあった。
本書は、小生がそれまで抱いていたあいまいさともやもやを吹き飛ばしてくれた。これで自分の偏見に自身が持てた。また、発掘の楽しみと喜びを伝え、化石から導き出される進化論の考察の過程が素人にもよくわかるように書かれている。
パンダの手?足?の指は6本あるのだそうだ。その6本目の親指にみえる指というのが、実は手首の骨の一部が変化してできたもの。ササの葉っぱを掴んでそれをうまく口に運べるよう、“親指”の周辺には筋肉が発達している。
これをわかりやすく解説するものとして、「その骨は主食たるササを食べるために少しずつ(漸進的)に進化してきて、現在の形になった」、というのがある。
だが、本当にそれでいいのだろうか。グールドは疑問を呈す。
ダーウインが「種の起源」を発表したのが1859年。自分的には随分昔のことだと思っていたが、実際はまだ150年くらいしかたっていない。進化論はすでに確立されたもの思っていたが、実際はそうではないようだ。
本書はダーウイン以降所説飛び交う進化論を再考するヒントを与えてくれる。
この本を初めて手に取ったのは約三十年前。あの頃はまだ自分に希望と未来があった、もちろん髪の毛も・・・。
私は「右手にジャーナル、左手にマガジン」の世代から少し遅れて大人になって、社会人となった。中身は別として、そのフレーズのカッコよさに憧れて、朝日ジャーナルをそばに置いていた。おそらくこの作品はその朝日ジャーナルに紹介されていて、買い求めたものと記憶する。
今回、三十年の時を経ての再読となった。
『ベスト&ブライテスト』とはケネディが集めジョンソンが受け継いだ「最良にして最も聡明な」人材だと絶賛された人々を指す。そんなエリート達をもってしても、アメリカはベトナム戦争という泥沼にはまり込んでいった。そのエリート一人一人がどんな人物で、時代の一ページのどの部分を担っていたかを描くことによって、当時のアメリカという国そのものをあぶり出している。
国民の期待を背負った若きエースとして登場したケネディと今のオバマが重なりあう。
重要な国の意思決定がなされる過程において、彼らがどんな役割を演じていたかが克明に描かれている。記述は概ね時間軸に沿っているが、一人の役者が登場するとその人物像を深堀して、それを起点として彼にまつわる別の役者の物語や別の事象の検証へと移っていく。なので、話があっちに飛んだりこっちに飛んだりする。三巻すべてにおいてそんな感じ。巨大なキャンバスに時間軸と事象と人間ドラマという“付箋”を思いつくまま貼り付けていって、それらが有機的に結びあって出来ている。
そこに描かれているのは、権力深奥部の人間ドラマと繁栄の中のアメリカの苦悩と挫折を同調させた、アメリカの現代史。アメリカが愚行に及んだ“経緯”と“わけ”がこと細かく記されているが、それでもなぜ、そうせざるを得なかったのか、この本を読んでる最中、そして読み終わってからも、理解に苦しむ。
百歩譲って、ベトナムに介入せざるを得なくなったとしても、当時も今も最強の軍隊を持つアメリカがなぜベトコンと北ベトナムに“勝て”なかったのかイメージ出来ない。対イラクでの砂漠の嵐作戦を目の当たりにしているとなおさらそう感じられる。正義がベトコン側にあったということは間違いがないのだけれど・・・。
ハルバースタムが必死になって伝えたい、がむしゃらさの詰まった作品だ。現代アメリカ史のサブテキストとしても十分通用すると思う。
昨年12月に図書館で予約して、やっと、廻ってきた本書にワクワク気分。
題名から、なんとなく筋立ての想像がつくが、それでも予定調和に陥らず、期待を裏切らないところが池井戸潤だ。
今回の主役は精密機械製造業の佃製作所。ロケットエンジンのキーデバイスとなるバルブシステムをめぐって、宇宙産業の大御所の帝国重工業としのぎを削る。
社長の夢を語らずして、会社経営はあり得ない。
自分の人生もまた然り、いろいろな障害や挫折そして失敗を味わいながらも、夢を追いかけてこその人生だ。
“デッド・オア・アライブ”とは「生か死か」の意味だと思っていたら「生死を問わず」の意だった。作品の内容からしても間違いなく後者であろう。
前作「国際テロ」はジャック・ライアンシリーズの復活を示唆してくれたが、いささか、消化不良の感がぬぐえなかった。本作品はその第二部といったところ。はたして内容は・・・。
スパイ、軍事スリラーの分野では、東西冷戦終了後、敵味方関係の構図が変わり、テロリストがアメリカの悪役に躍り出てきた。9.11後、その傾向は顕著となる。
トム・クランシーはその最たるもの。一連の作者の作品を読んでいると、これほどまでにイスラム教徒(イスラム原理主義過激派)を悪者にしてもよいものかと思ってしまう。
東西冷戦時代のスパイ合戦は、作りもののエンターテイメントとして、それはそれで読みごたえがあった。しかし、今の時代、テロはフィクションでなくなり、その脅威は現実味をおびて来ている。そうなると、それを題材とした小説はそれ以上のフィクション性を求められ、読者はより完成度の高い作品でないと満足しないだろう。
トム・クランシー大先生と言えども、このハードルはかなり高いはず。
作者はその高いハードル越えをライアンに託し、読書もそれに期待した。それはテロに立ち向かうアメリカとジャック・ライアンの“正義”の物語だ。なんとか新鮮味を出そうとの試みがないではない。チャンバラ場面はこれまでの作品になく多く。しかし、対テロの物語は深みに欠け、というか、これまでの作品の域を超えておらず、楽しみしていたライアンと妻のキャシー(彼女の物語もまたこのシリーズを支えてきた)のやり取りもなく、作品全体としての生彩を欠いている。
あれほど手に汗握り、ワクワクして読んだジャック・ライアンシリーズも経年劣化は否めないようだ。
「赤朽葉家の伝説」からスピン・オフしてできた作品。
はっきり言って、これはマンガだ。
主人公は赤緑豆小豆、鳥取の赤珠村にある製鉄会社の社長の長女。
十二歳になって中学に入るやいなや、小豆はバイクのけつにスミレッ子を乗せて田舎の道路をぱらりら、ぱらりらと駆け抜ける。“鉄女”小豆はレディース「製鉄天使」の初代総長となって、ガールズ達を従え、鳥取、岡山、広島、山口と制覇してく。
あいかわらず荒唐無稽なストーリーだが(今回はハチャメチャ過ぎ)、1970年代からの時代背景と世相を絡ませ、少女たちの夢物語を通して、一つの時代を切り取っている。バイクに跨り夢に向かって突き進む彼女達。しかし、その純粋さはガラスのような脆さを秘めている。そこら辺もうまく組み込んで、ただのハチャメチャコミックではない青春群像としている。
少女たちが吐く台詞が本書の読みどころの一つ。しびれるぜぇ。
『真っ赤に燃えよう、オンナ道!』
『路上に生き、路肩に死す、それがオンナの生き様さぁ!』
『あたしら、ハイウエィに恋してる!純情咲かせにゃ、十三歳が泣くぜ!』
『走るんだっ、赤緑豆小豆。時を追いこすように。ハイウエィで風になれっ。それがおまえの使命だぜよっ』
『あたし、あと二年とちょっと。十五の春まで遊び倒すの、小豆ちゃんとなら地獄まで行くよ。十五の春に笑ってお別れしよう。それまで一緒に遊ぼうよ。明日死んでもいいくらいに毎日、無茶しよう。ね、いいって言ってちょー?』
ラジオは、いつも仕事中、車の中で聴いている。4月からNHKで始まった、「ぷっつん」じゃなくて「すっぴん」。曜日毎にパーソナリティーが変わり、金曜日の担当が高橋源一郎。なかなかいい味出しているなぁと思いつつ、聴いている。軽すぎるくらいの“ノリ”で、ユーモアがあって、穏やかだけど、『生きた言葉』、を発している。
そのしゃべりが、まんま文章になった感じの作品。
詩的で、散文的で、支離滅裂で勝手気ままに自分の言いたいこと書いて。
「それでいいのだ」と言っている。
本気なのか、いいかげんなのか。
こんなんで飯が食えているということ自体、不思議。さっぱり、わからん。
ジャック・ライアンの息子が対テロ活動に乗り出す。
序盤から中盤にかけては、その新たな設定を構築するためのもの。いつものクランシーにはみられない、状況説明的な記述が目立つ。
これまでのライアンシリーズの「資産」をどう活かすか、それが試されていたのだが、うまく活かしきれていない。
あれだけの役者をどうやりくりしていくのか、これからの展開に期待したい。
上下併せて、1600ページ近くの超大作。1991年に書かれ、1993年に邦訳、出版されている。当時は、ジャック・ライアンシリーズの本が出されるのを、まだまだかと、待ち望んでいたのを思い出す。
今、読み返してもさすがだなと感じ入る次第。1991年といえば、湾岸戦争勃発の年、ソビエトが崩壊した年でもある。この作品は東西冷戦終結のあとの微妙に漂う緊迫感を見事に描きだしている。また、その後にくるアメリカとテロリストとの対決、後に歴史が証明することになるのだが、を予言していた本でもある。「国家が後押しするテロリズムは戦争だ」とライアンは言っている。
長編にもかかわらず、全体に少しの無駄も無い。一部のすきも無い。テロリストの原爆製造の過程にいたっては、なるほどと感心させられた。こんなにもたやすく原爆が出来うるものなのかと。軍事テクノ、スパイ、潜水艦、ライアンの葛藤と一言一言、わくわくしてページをめくった。