「KATANA」とは現代の刀狩、すなわち米国の銃砲規制に与えられた作戦名。年間3万人もの市民が銃の犠牲になっているアメリカ。これはそれだけのテロがあるのと同じことを意味する。武器を持つことは建国以来アメリカの憲法に認められた市民の権利。しかし、銃がなければこれだけの犠牲者を出すこともないと考えるのは平和ボケした日本の田舎物の考える妄想だろうか。なにしろ、自分の身は自分で守らなければならず、またそうする権利があるとするアメリカ。そんなアメリカから銃を一掃することは、夢物語に等しい。しかし、テクノロジーの進歩がそれを可能にした。「命を繋げる銃」の発明である。人を殺すことなくダメージだけを与える銃、しかも銃把には登録人認証システムが組み込まれており、登録人その者のみが発砲可能であり、誰が撃ったのか被害者にはこれも微細な認証マーキングが残されるようになっている。
この「命を繋げる銃」を巡って物語は展開する。登場するのは国際軍事コングロマリット、米国情報機関、テレビ局のリサーチャー。事件の解明役となるのが国際軍事コングロマリットのエージェント崩れの自称“派遣組”の兵藤。体形やちゃめっけたっぷりのキャラクターはヒロ・ナカムラそっくり。そして、キーマンとなるのが記憶をなくしたヴィンス。彼がまた、特殊能力を発揮する。頭に描いたもの、また記憶の底にあるもの、見たもの正確に書き上げてしまう。これがヒーローズのアイザックを彷彿させる。さらに、キーとなる最新テクノロジー「ジオタグ」。これはデジカメで撮った被写体の認証システム。たとえば鳥の写真を撮って、それを検索にかけると、ネット上の鳥図鑑の中からその鳥を選び出し、その鳥の名前がわかるという仕組み。さらに、ウェブ上の同じ鳥の画像を認識しそれを抽出してしまう。何時何処で撮られたのかも一目瞭然。記憶を無くしたヴィンスは、自分の描いた精巧な絵をデジカメで撮って、無くした記憶の断片に迫ろうとする。
テーマや最新テクノロジーの創出はおもしろいと思うのだが、国際軍事コングロマリットや米国情報部が出てくる割には深みやスケール感に乏しい。B級映画やテレビドラマの原作としてならまぁまぁの作品であろう。
最近ノッテいる池井戸潤の作品を手に取った。どんな作家にも旬という時期があると思うのだが、その間の充実ぶりが作品に現れている。文章に迷いが無く、飾りもしない素直な表現。読んでいて心地よい。企業小説とミステリーとファンタジーを融合させたような内容で、浅田次郎と東野圭吾と石田以良を足して3で割ったような文章と読後感。噂は真実だった。
今自分が見ていること、感じていることが現実なのか、それとも夢の中なのか、誰もが感じたことがあると思う。そんな感覚をうまくモチーフに取り込んで作品に仕上げている。
時は昭和38年、東京オリンピックに沸く、昭和のよき時代。舞台は経営が行き詰まった従業員100人足らずの運送会社。40年前の夢とも現ともつかない世界に、他界してしまっている主人公の父親となって、入り込んでいく。
なかでも象徴的で物語の牽引役となっているのが、運送会社の配送車のボンネットトラック、BT '21号車。そのトラックを使って行われている悪事の真相に主人公の父親が迫っていく。陰惨で凶悪な事件のわりに、ちょっと抜けたところがある悪者。最後にはほろりと涙する場面も出てきて、浅田次郎の作品を彷彿させる。ミステリー仕立てにしなくても良い作品に仕上がったのではないかと思った。
芸術性漂う表紙カバーがこの作品には重荷とはならない。読後に余韻が残るような重厚な作品ではないけれど、王道を行く本格推理小説として読み応え十分。
神酒に仕込まれたトリカブトの毒による殺人未遂事件。いつ誰がどんな方法で毒を入れたのか、その謎解きにページの大半が注がれる。「探偵が事件を解決できるのは作者が探偵に耳元でそっと囁くからだ」言われてみればそんな気もする。そんなそしりを免れるべく、作者はあらゆる視点から事件を推論できるようにもくろんだ。すなわち対象となる人物の視点によって事件が動くように仕組んでいる。物語の最後にもその点について登場人物の言を借りて作者は述べている。あらかじめそれぞれの視点や行動を用意しておいて、それらをガチャガチャポンとしてしまえば、元の要素はなかなか解明しにくい。しかし、作る側はそれがわかっているから、話を右に左に持っていっても、最終的には元の要素に辿りつくことが出来る。読者はガチャガチャポン後の姿しか見ていないので、どのような筋道でそれが出来上がったかを推論することはまず不可能。そうなると、いきおい、作者の一人舞台となって、読者乖離となる危険性もはらみがちだが、本作品では、そうならないように、そのぎりぎりをいきながら読み手との駆け引きを保とうとしている。一つだけ難を言えば、後から出てきたフランス女性がいかにも簡単にガチャガチャポンを解いて行くところ。いくら事実に基づいた推論であっても、ちょっとね。本格推理小説の大御所もうら若き女性には甘いようだ。
『ロング・グッド・バイ』に気をよくして手に取った二冊目。この作品も村上春樹氏による“新訳”。小気味よいテンポで、最後まで一気読み。ウイットの効いたフィリップ・マーロウの名台詞が随所で炸裂する。ピンチのときでもマーロウの口からは一刺しが放たれる。それを聞かされた方の悪党もさすがに「減らず口は止せ」と言わんばかりの応対。この期に及んでもまだ気障な台詞を吐かなければならないマーロウ。作者もこれを楽しんでいるのだろうが、この作品ではちょっと度が過ぎるとの印象を受けた。
スコット・トゥローはおもしろい、中高年の星だ。
彼の作品を十代、あるいは二十代の若者が手に取ったとき、どう捉えるだろうか。それどころか、最後まで読み切れるだろうか。彼の作品はある程度人生経験を積んだものが読んでこそ、その良さが、より実感できるのではないだろうか。自分の学生の頃と重ね合わせた場面が随所にあった。自分の初恋のころのほろ苦い思い出、なぜあんなぶきっちょだったのか。二十代の頃、自分は本当に何も考えていなかったのだな、と。
事件はスラムのビル街で起こった。チンピラに襲撃され、一人の老女、ジューンが射殺された。一見して、ジューンは何らかの事件に巻き込まれたかのような印象を受ける。が、逮捕され告訴されたのが、その息子であるナイルであった。はたしてナイルは無実なのか、迫真の法廷劇がこの作品の一つのみどころ。
この裁判の判事を務めるのがソニー・クロンスキー。彼女は被告人と旧知の仲であり、また証言台に立つ彼の父親のエドガー(州の上院議員)、そして今は分かれたが殺された元妻のジューンとも深い縁がある。さらに、ナイルの弁護人であるホビー・タトル、彼もまたソニーと青春の一ページを過ごした仲。そして、法廷の傍聴席にはソニーの元恋人で、今は新聞にコラムを書いているセスがいる。期せずしてこの裁判がもとで再び相まみえることとなった彼ら。一見、出来すぎた話のように思えるかもしれないが、スコット・トゥローの場合は一味も二味も違う。
1960年から70年にかけてのアメリカはベトナム戦争のさなか。ニクソン大統領の疲れ切った灰色の顔がテレビ画面に映しだされ、人種差別はまだ色濃く残り、若者は皆マリファナに陶酔しきっていた。エドガーとジューンは「闘争」に明け暮れる。一方、セスはエドガー夫妻の子供であるナイルのベビーシッターをやりながら、学業に励む。恋人同士のセスとソニーであるが、セスのあまりにも熱く濃い想いをソニーは受けとめられなくなる。そんなおり、セスにベトナム戦争への徴兵状が届く。ソニーは平和部隊に志願し、二人は別れ別れになる。一方セスは兵役から逃れるべくカナダへの逃亡を企てる。ことのきジューンとエドガーが一計を案じ、セスの逃亡に力を貸す。セスと一緒に逃亡生活をおくることを決意したのが、彼の親友のホビーの恋人であった。25年前の出来事と今回の殺人事件がどう関わり合うのか。トゥローならではの綿密で一分の隙もないストーリー展開に引き込まれ、読む時間も忘れてしまう。
物語は法廷で再会したセスとソニーの二人のそれぞれの語りで進められる。25年の間のかつての同士たちの歩んできた道が語られる。そして、物事を複数の視点から読み解くというトゥローの姿勢はこの作品でも重要なウエイトを占めている。当然、裁判自体もそのような視点から描かれている。同じ証人、証言でも視点が異なれば、その事件の見方そのものも変わってくる。ここでは、犯人が誰かということよりも「どこで何が起こったか」を「解明する」=「作り上げる」ことに重点が置かれている。証人が決して嘘を言っているわけではないのだが、検察あるいは弁護士の質問の仕方、切り口によって、その証言のもつ意味合いが違ってくる。裁判とは「真実」の追究ではなく、「そこで何が起きたのかを想定し」その「つじつまを合わせること」の追求ともいえるようだ。
「推定無罪」「立証責任」「有罪答弁」そしてこの「われらが父たちの掟」を立て続けに読んでみたが、どれをとっても読み応えのものあるものばかり。重層な物語の構成、きめ細やかな描写力、ウイットの効いた表現を散りばめた含蓄のある文章、そのいずれもが卓越している。何辺でも読み返したくなるような面白さ。その中にあって、この作品は頭一つ抜きん出ているように思える。
読み終わって最初のページを何気なく見てから納得。
最初のページにはこの作品が法律事務所に勤務する主人公のある事件に関する報告書である旨が記されている。だが、そんな冒頭の報告書の一ページがどんな意味を持つのか深く考えるわけでもなく、さらっと流して本文に入っていった。なんのことはない、彼はこの報告書を通して彼自身の「有罪答弁」をやっていた。最後まで読み終えてようやくそれに気付くなんて。
しばらく読み進んでも事件の真相が漠として掴めない。どんな事件が起こっているのか。いったいどうことなんだ、と、次のページをめくりたくなる。そのうち事件は二転三転するのだが、それは視点の違いからそうとれるだけ。しかし、どの筋立てが本当なのかはなかなか読み取れない。読み手は気付かないまま別の違った推理に導かれてしまっている。それでいて陳腐な技巧に走るわけでもない。全部で30の章で構成されているが、その一つ一つをとっても立派な作品として読めるから不思議だ。事件を追って行きながら、実は人間を描いている。トゥローは最初の作品からこの点で一貫している。読み返しにも耐えられる推理小説といえる。というか、推理小説という枠ではくくりきれない不思議な魅力が彼の作品にはある。とにかく読ませてくれる作家だ。
スコット・トゥロー、第二作目。
第一作同様、一人の女性の死から始まる。前回は同僚の弁護士、今回は弁護士の妻。前回は脇役として登場し、被告人サビッチの弁護を務め事件をうまく乗り切った弁護士スターンが今回の主人公。そして、今回もまた名脇役が登場する。
物語は二つの流れが同時進行していく。一つは突然の妻の自殺の原因と真相を探ろうとする主人公の物語。もう一つは義弟の先物市場での違法取引をめぐり、彼の弁護人として事件の真相を解明しようとする主人公の物語。読みながら、この二つのストーリーに何か関連性があるのではないかと推理するのだが、なかなかそれが読み取れない。もっとも、主人公はそんなことは頭にはないのだが。二つの物語はゆっくりと進む。右に左に曲がりながら、時には停滞しながら。しかし、終盤に来て、ついにその二つの流れが一つに結びついてしまう。
この作品で名脇役を演じたのは義弟のディクソン。読み手には端から彼が違法取引に関与しているとは思われない。ふてぶてしさを前面に出しながらも、まるっきりな悪人ではない。それどころか何か裏があって、それを表に出さず、一人矢面に立とうとしている、そんなふうに思えてしまう。実際、そんな風に描かれている。
また、ここで扱われている犯罪自体はそんなに凶悪性はなく、どこにでもあるような話。それよりも、その謎解きもさることながら、それが起点となってスターンの家族に巻き起こった悲劇の顛末という意味合いの方が強い。加えて、50代後半にして妻に先立たれた男やもめの性的葛藤もかなりの行数を割いて興味深く描かれている。つまり、作者は物事を一つの側からだけ見るのではなく、物語に様々な要素と視点を与えている。そして読者にそれらについて考えさせるのが実にうまい。加えて、誰もが抱いている心の内面を素直に途上人物に反映させている。この辺の複合的な物語の構築の仕方がトゥローの最大の魅力である。
前作でもそうだったが、この作品でもアメリカの裁判制度に興味がわいた。スターンはディクソンが起訴される前から彼の弁護人に選ばれている。犯罪を起訴するか否かを決定する「大陪審」があるからだ。スターンと相手側となる検察官や検事との複雑な駆け引きもこの作品の見どころの一つ。さらには弁護人であるスターンも大陪審での証言を巡って、弁護人を立てなければならなくなる、というからややこしい。アメリカで弁護士の数が多いのは「訴訟の国」だからとばかり思っていたが、そうではなかったようだ。その一面もあるのかもしれないが、起訴前にこういったやり取りが行われるがゆえに(州によって異なる)弁護士が必要になるのだろう。「あなたは犯罪の被告人として訴えられる可能性があるから、起訴される前にその審議を行います」ということになる。検察側で立件後、それが起訴するに値するか大陪審で審議、そして起訴後の公判となる。つまり大陪審には捜査機関としての位置付けがある。日本では起訴するべきかどうかは検察側の仕事(公訴権は行政にある)、という認識があるだけに、この大陪審制度は興味深く映る。
いろいろな面が複合されて出来上がったこの作品に対しては、コメントもなかなか一言では言い表しにくい。
なかなかよく出来た推理小説。大ベストセラーになったのもうなずける。導入部から最後の謎解きまで一分の隙もない。一気に深みに落とされた後は、そのままずーっとその淵から抜け出せない。
下巻の公判部分のやり取りも見ものの一つだが、中盤にかけての主人公とその周りの役者達とが織りなすドラマに引き込まれる。そして、まさかそんなことあるのか、もしかしたらそうなのか、と案じながらページをめくっていると、やはりというか、唐突に主人公に嫌疑がかってしまう。その瞬間がクライマックス。
「推定無罪」とは「疑わしきは罰せず」の意味かと思っていたら、どうも違うようだ。「何人も有罪と宣告されるまでは無罪と推定される」の意味とのこと、この本に接し初めて知った。
序盤からどうも引っかかっていたのがアメリカの検事制度。それがドラマの重要な要素の一つとなっている。どうやら、検事は市民の選挙で選ばれるようだ。読み進むうちになんとなく想像はつくのだが、日本の裁判制度に固着していると違和感は否めない。それと、大きな見どころである陪審員制度による裁判。この物語によると、陪審員はその裁判の判事が選ぶことになっている。あらかじめ用意された幾人かの候補者の中から選ぶのであるが、その選び方が予想していたのとは違っていた。すなわち、くじなどで無作為に選ばれるのかと思っていたが、判事がその裁判に関する自分の予見に合致する意見を持つ陪審員を選ぶことになっている。不当な偏見を持っていることが明らかな者を除外するという意味合いがあるのかもしれないが、判事が抱いた判断に近い陪審員を選ぶことも可能。小説の中では判事と陪審員候補者との事前のやり取りが描かれ、不思議に思った。審理をコントロールするということなのかもしれないが、これが公正な裁判といえるのか。それとも、それほど判事の権限が強いということだろうか。市民の代表たる判事という位置づけは日本のそれとはずいぶん違うようだ。。
この本はいわゆる良書である。質のよいテレビドラマを見ているようだ。出版元は・・・なるほどNHK出版か。
天安門事件を前後に中国を飛び出し、アメリカでの成功を夢見る家族の物語。冒頭から天安門事件についての記述があり、なにやら波乱万丈の筋立てを思わせる。しかし、そこは抑えて、というか物語の底流としてあるにはあるが、ことさら事件が主体となっているわけではない。どちらかというと地味なストーリー展開といえる。淡々と描かれる家族の物語から実に多くのことを考えさせられた。
まず、天安門事件が起こったのが1989年6月4日。当時私は齢30を超え、所帯を持ち、いっぱしの大人になっていたはずなのに、この事件についてはほとんど何も知らなかった、何も思わなかった。マスメディアを通して盛んに報道されていた記憶はあるが、「また中国で騒動が起こっている」というくらいにしか感じていなかった。「捉えどころがない国、中国」では「何が起こっても不思議ではない」そのくらいにしか思っていなかった。今にして思えばなんと子供子供していたのだろう。自分のことだけしか考えていなかった。
中国は意外に自由な国だ。「捉えどころがない国、中国」では何もかもが抑制された生活なのでは、という思いが強かった。しかし、この物語を読む限りそうではない部分も多くあるようだ。アメリカや他の自由主義国にも自由に渡航できる。それが驚きの一つ。現在、当地のような片田舎の富山県にも中国から多くの観光客が訪れていることを踏まえれば、格別驚くべきことには当たらないかもしれない。天安門事件で抑えられていた市民が、割と容易に海外に飛び出せることに、肩すかしをくらったような気分。
中国から出奔した主人公のアメリカでの知人はみな高学歴な人ばかり。主人公自体中国の大学で学位を取得しているエリートなのだが、アメリカの大学でさらなる学歴を積もうとしている。登場人物は画家、詩人、小説家などが出てくるが、皆そんな人ばかり。今の中国を動かしているのは、欧米帰りの学位取得者達、といつかNHKの番組でやっていたが、それは一つの見方として正しいようだ。本書では、主人公は本当の自由を得るためにアメリカへ渡るが、それは母国中国との決別を意味する。アメリカで学位を取って中国に錦を飾る思いは微塵のかけらもない。
アメリカでは中国の学歴など通用しない。自由を求めてアメリカに渡ってきた移民にとっては、アメリカでの「仕事」のみが評価される。自由を手に入れることと生活していくことは同じこと。主人公は詩人になりたくて、それを夢見てアメリカで暮らす。しかし、自らだけではなく、妻と子供を養っていかなければならない。生活とはまず食べること。そのためには、中国の学歴、学位などなんの役にもたちゃしない。自らの手で食い扶持を確保しなければならない。これは全てのアメリカ国民にいえること。すなわち、自由生活の対価として、自分を確立しなければならない。主人公はレストランの見習いから始め、やがて自分の店を持つようになり、結果、それなりの収入を得、住む場所も手に入れ、成功者の一人となった。その間、食べていくための労働に全力を注ぎながらも、詩作への情熱は消えなかった。しかし、自分の思い描いていた「詩人」とはどこかが何かが違うことに、主人公は自問する。それは母国中国語で詩を書くか、英語で詩を書くか、そういうことにも繋がってくる。ネイティヴでない主人公が英語で書いた詩をどれだけの人が理解してくれるか、主人公自身どれだけ英語に堪能であっても、限りなくネイティヴに近付くことはできても、所詮中国人の英語にすぎないのではないか。
この作品は作者の自伝小説ともいわれている。作者自身、作品の主人公と似たような体験をし、現在アメリカで活躍している。ばかりではなく、アメリカで最高の小説家の一人と目されている。移民としてアメリカに渡った中国人が英語で出す小説に多大な評価が置かれ、全米図書賞など栄誉ある賞をいくつも叙されている。その中国人が英語で書いた小説を日本語に訳した作品を読む、というのもまたおつなものではないだろうか。
時空を超えることが出来る「トラヴェラー」と、それを守る「ハーレクイン」。そして彼らに立ちはだかる悪の組織「タビュラ」。新たなヒーロー物語の誕生といったところ。三部作の一作目とあるが、今回ではまだ「トラヴェラー」の能力は全開には至っていない。
作者の素性は明らかにされていが、なんとまぁ、人を食ったようなペンネームだろうか。文中には日本の武道や文化に係る場面が度々出てきて、これはよく書かれている。もしかしたら作者は日本人ではないかと思われるくらい描写に違和感がない。かなり日本に造詣が深い人物とみた。話の筋仕立てもアニメのそれに似た雰囲気が漂い、本当に日本人ではないかと思ってしまう。読みながらSF映画に浸っているようで、映像化を前提に書かれた作品と感じた。
もし、一番最初に読んだ本がこの一冊だったら、本なんてものはつまらない、何書いてあるんだか、ちんぷんかんぷん、理解できない。と、本から遠ざかってしまうかもしれない。一から十まで荒唐無稽の内容。裏を返せば、それほどインパクトのある作品ともいえる。舞台は南米らしきところにある、マコンドという小さな町。そこに暮らすブエンディア一族の年代記と町の盛衰を描いた物語。登場するブエンディア一族は同じ名前ばかり。幾代にも渡り同じ名前が受け継がれていく。それがややこしいかと思えば、意外とそうでもない。同じ名前でありながら、それぞれのブエンディアに物語があり、それぞれの個性がついてまわる。次々と放たれる挿話がそれぞれのブエンディアを物語っている。読者はその挿話によって各々のブエンディアを頭の中に描き、出てくるブエンディアごとに抽斗を開けたり閉めたりして同じ名前の登場者を入れ替えする。空飛ぶ絨毯、浮遊する神父、錬金術、ホメオパスなどがモチーフとなったりして、ファンタジーのような印象を受ける。
「ガープの世界」で必殺の一撃を食らったジョン・アーヴィングの本としては二作目。この作品も長編。訳者自身あとがきで書いているが、確かに長い。しかし、長いわけには理由があった。上・下二巻からなる本書は、一つの物語でありながら、二度楽しめる、という趣向がこらしてある。事象の二面性をうまく利用しているという点では、三度楽しめるということにもなるかもしれない。登場人物はどれも主人公を含め想像の域を超えたものばかり。全身に楽譜の刺青が彫ってあるという放浪中のピアニストの父親を求めて、母と幼子がヨーロッパの港々を探し回る。しかも、その母親自体が有能な刺青師。また、手掛かりを探して尋ね歩く先々には超個性的なキャラクターが待っている。そんな彼らが醸し出す世界は当然超個性的というか荒唐無稽。作者は思いつくまま好き放題に書いているかのように思える。スラスラと自然に筆が運んでいっている感じ。もしそうならば、物書きにとっては、この上ない幸せだろう。肩に力の全く感じさせない作品だ。
訳の中で、面白いと思ったのがいくつかあって、そのうちの一つを書いておく。しゃべり方に特徴がある女の子が登場し、「うち」が「くち」に聞こえるという場面が数回出てくる。おそらく原書では「house」と「mouth」ではなかろうかと想像される。英語と日本語の奇妙な一致がおもしろい。
今度の題材は“ブログ”、そして活躍するのはキネシクス捜査官のキャサリン・ダンス。毎回斬新な切り口で楽しませてくれる作者。その中でも、前作の“データ・マイニング”をテーマとした作品は秀逸であった。はたして、最新作の本書はいかに。
ブログの記事とそこへのコメントが犯罪を引き起こす、という設定。今風で、ありそうな話だが、ジェフリー・ディーヴァーが描くと真実味を帯びてくる。ネット上の記事と状況証拠から、一人の少年が浮かび上がる。しかし、ダンスも読者も絶対にそうであるという確信がないままに、彼は追い詰められていていく。このままでは終わらないだろう、この先どう話を運んでいくのか、その興味が先にたつ。そこで持ち出してきたのが、ネット上のゲーム。少年がヴァーチャルなゲームの中で操るアバターから、少年の無実をダンスは確信する。一見安直な設定に思えるかもしれないが、現実とヴァーチャルな空間を行き来する少年の描写が秀逸で、違和感のないダンスの推理が成立している。本書で読み応えのあるのはその部分で、物語的に仕組まれている犯人探しのいくつかのどんでん返しは付録にしかすぎない。ある意味、ネットと小説を融合させた欲張りな野新作と言えるかもしれない。
はっきり言って捉えどころのない作品だ。けど、誰かに「読んでみな」と薦めたくなる本でもある。文芸書としてはエロ小説っぽく、単なるエロ小説にしては挑戦的すぎる内容。村上春樹によれば「反現代であることの現代性」とのこと。訳者あとがきにも触れられているが、この作品をみるかぎり、ジョン アーヴィングは小説に新しい可能性を模索した芸術小説家であろう。
劇中劇というのはよくある設定だが、この作品には小説中小説が出てくる。しかも、一本ではなく数本。その組子となっている小説がまるっきりそのまま載せてあって、それがまた,本作品と同じくらい奇妙な理解しがたい内容。
そして、それらが物語の重要な構成要素となっている。その組子の小説自体それだけでも芸術的すぎる内容なのに、それらと本筋とが混ざり合ってまたまた奇妙な世界を形作っている。そのなんとも表現しがたいバランスがこの作品の特徴の一つでもある。
組子となっている小説について訊かれた掃除婦のおばさんはこう答えている。
「するときみは次がどうなるか知りたくて本を読むわけだね?」
「ほかに本を読む理由なんて、ないのとちがうっけ?」
これこそが作品中小説の著者である本作品の主人公ガープが目論むところであり、本作品の著者ジョン アーヴィングが意図したところではないだろうか。その意味ではこれを読んでいる自分はまさしくその動機付けに誘われて「ガープの世界 」にのめりこんでいっている。新しい可能性を模索した芸術的小説でありながらも、小説の不変的で単純な命題が根底に貫かれている。
エロな場面も多く男性には魅力的な作品だが、世の女性方はどう読むのだろか。
「アフガンの男」を読んで、消化不良気味だったので、これならどうか、と、手に取ってみた。
1990年8月、イラクがクウエートに侵攻したことに端を発した湾岸戦争がモチーフとなっている。テレビに映し出されたハイテク兵器によるアメリカ軍による空爆は、まるで映画の1シーンのようだった。ピンポイントで目標物が破壊される様に目を見張った。今回、フォーサイス先生はその「砂漠の嵐作戦」をドキュメンタリータッチで追っていき、かつ、そこに架空の物語を挿入し、それらを絡み合わせた物語を作り上げた。本作品中の戦闘シーンが、まぶたに残る空爆の映像と重なり、臨場感が否応なしに高まる。事実は事実として利用し、それを毀損することなく小説に仕立て上げ、架空の主人公がまるで本当にそこに存在したかのように史実の中に溶け込んでいる。同じハイテク軍事ミステリーありながら、まるっきり虚構の世界で楽しませてくれるトム・クランシーとは毛色が異なる。
とかく「アフガンの男」と比較される本書だが、やはりこちらの方に軍配が上がる。というか、「アフガンの男」は本書の二番煎じと言われても仕方のない作品といえる。今回は単身イラクに潜入した兵士の描写と活躍が図抜けている。「アフガンの男」では、主人公の登場の仕方、その幼馴染が敵側にいる、など、話運びに本作品と類似点が見受けられ、「フォーサイスはどうしちまったんだ」と評されるのも無理のない話。それほど、この作品は完成度が高い作品と言える。
フォーサイスの本
「アフガンの男」
「マンハッタンの怪人」
「アヴェンジャー」
「戦士たちの挽歌」
ネット上での書評はかなり手厳しい。「フレデリック・フォーサイスは終わった」と。そこまで言うのはフォーサイス先生への期待が大きすぎることの証。一介の新人がこの作品を書いたなら、「フォーサイスの再来」と評されること間違いない。綿密な取材のもとでの虚実織り交ぜたストーリー展開が彼の真骨頂といえる。本作品でも虚実の整合性は実にうまくとれている。ただ、事実を折り曲げられないせいか、物語性を犠牲にしている感が否めない。すなわち、スケール感や意外性に乏しく、著者のもう一つの持ち味であるストーリーテリングに生彩を欠いている。しかし、アフガン紛争やタリバンそしてイスラム過激派によるテロについて学ぶ導入書としては、もってこいの本だと思う。
にしても、この本は紙質が悪い。
ツイッター上のつぶやきからこの作品に辿りついた。時代は変わった、ネット社会恐るべし。手にとって初めて、著者が自分と同郷なのを知った。へ〜、そうなんだ、こんな人も富山にいるんだ。
「アラスカ物語」を手に取った少女が、その主人公フランク安田に憧れ、彼が眠っているビーバー村を訪れる、という著者自身の体験を綴った冒険物語。ビーバー村はアラスカにあるが、彼女はカナダからユーコン川を独りカヌーで下ってそこに行き着くことにこだわった。なぜ、カヌーなのか。しかも、彼女は全くカヌーの経験がないのに。フランク安田に会いに行くには、それしかなかったのだと彼女は言っている。自分とは関係のないもの、あるいは未知のものに身をゆだねて、自分を試してみたい。おそらくそういう思いもあったのではないだろうか。作品中ではさらりと描かれているが、女性独りで1500舛發猟垢さ離をカヌーで下るには、大変な苦労があったろうと想像される。それを笑い話のように書き綴っているのは、彼女の何事にも前向きな姿勢があるからだ。それと、道中に知りあった多くの人々との交流が、彼女の旅の支えとなったのではないだろうか。旅は楽しい。まず憧れがあって、試練が大きいほど、得られる喜びもひとしお。山とおんなじ、人生もまたしかり
2003年ピューリツアー賞受賞作。「ミドルセックス」直訳すれば「中間の性」ということになるのか。文章中には「インターセックス」という言葉も出てくる。中間の性という言い回しはとても曖昧。早い話が、女性として生まれ、女性として育てられ、成長期のある時期に男性的性徴が現れ、自分が純然たる女性ではないことに気付かされた男性の物語。医学的には5α還元酵素欠損症性。性がテーマであるから、それなりの場面が出てくるが、全体を通してユーモアとペーソスの効いたタッチが漂っているため、官能的なイメージはあまり感じさせない。
テーマとしてはとても重いはずなのに、それをさらりと描きだしている。まるでエーゲ海の風が吹いているかのようだ。アメリカに渡ったギリシャ系トルコ人の三世代に渡るそれぞれの青春物語と数奇な運命も十分に読みごたえがある。それだけで一つの作品にしてもほどほどの賞は獲れるであろう。この二つテーマの絡み具合が絶妙で、うどんとだし、あるいは、おでんとそのだし汁のような関係。それぞれが一級品でありながら互いを引き立てる役目を担っている。これが両性具有者の苦難と悲哀を謳っただけの物語であったなら、これほど芳醇で面白みのある作品に仕上がらなかったはず。さすがピューリツアー賞受賞を獲っただけのことはある。
「ブラッド・メリディアン」直訳すると「血の子午線」あるいは「血の絶頂」となるのだろうか。それほどこの作品は血にまみれている。血と暴力と虐殺が全編通して描かれている。テーマは重たいのだが、その描写はあくまでも淡々としている。あっと、思う間もなく拳銃が抜かれ顔がふっ飛び、ナイフで体をえぐられ死人の顔の皮がはがされていく。残酷なシーンなのだが、それを残酷と受け止める気が麻痺しているかのような乾いた空気が全編を包む。
「すべての美しい馬」「ザ・ロード」と、全くの予断なくして、マッカーシーの作品を手に取ったが、いずれも読みごたえのあるものだった。三作品ともに共通するテーマは「旅」と「自由」。どの作品も彼独特の文章使いで描かれている(超絶技巧的な筆致)。すなわち、「」、読点がない文体。それゆえ、一文一文がとても長い。特に本作品ではそれが著しく、全く読点がないまま四行五行という文章もざら。一見、まどろっこしく感じられ、斜め読みしたくなるのだが、よく読むとその長い一文はとても意味が深いものばかり。一つ一つが詩を成していて、その連続体で作品が仕上がっている。また、マッカーシーの作品は知的好奇心を刺激するものではない。目新しいものがあるわけでもない。書かれたものをそのまま素直に丁寧に拾っていって、そこに広がる宇宙を堪能する。それでいて、どの作品も映像が目に浮かんできて、映画化への期待を抱かせる。独特な世界である。
奇妙な小説だ。父と子がカートを押しながら旅をしている。野宿をしながら、焚火にあたりながら、寄り添って毛布にくるまり寒さをしのぎ、防水シートの下で眠る。食べ物もろくにとらずに、というか食べるものが手に入らない、ひたすら歩き続ける。毎日、毎日。ただそれだけの話。最初は、居場所を追われた親子の逃避行かと思ったが、読み進むにつれてそうではないことがわかってくる。
おそらく核戦争によりなにもかも破壊された世界であろう。行けども行けども、廃墟と化した街と灰に覆われた大地。食べ物や水を見つけられなければそれはすなわち死を意味する。生き残ったもの同士の悲惨な戦いもある。父と少年は生き延びるために過酷な闇の世界を彷徨い続ける。「火を運んでいる」と物語では言い表されている。父は少年に語りかける。「寒くはないか」「食べてごらん」「そこで待っていろ」少年はそれに答える。そんな会話が幾度となく交わされる。父は少年にしてやれることの全てを試みる。時間経過が一直線で伏線というものは全くない。ミステリーと違って、誰が犯人かとか、どんなトリックがあるのだろうか、などと考えなくてもいい。ただそこに書かれている情景を見さえすれば話が進んでいく。はたしてこの物語は行き着く先があるのか、ハッピーエンドがあるのか。ただそれだけが気がかり。天使のように純真な少年はスティーヴン・キングのファンタジーを思い起こさせ、父が子を守りながら連れ立っていくさまは「子連れ狼」を連想させる。
いつの間にか、少年を我が子に重ね合わせて読んでいる。「お父さん、お父さん」と呼びかけてくれた幼い頃を思い起こす。常にかたわらに寄り添う幼子と二人っきりで旅をしたならどんなにか楽しいだろう。似たような体験があるとすれば、息子とテントを担いで歩きまわった山登り。あのときはここに出てくる父親のように振舞っていた自分があったような。同じような会話をしていたような。息子は素直にこの私に従ってくれた。私も息子の話を聞いてやった。
読み終えてから知ったのだが、マッカーシーはこの著書でピューリツアー賞の栄に輝いた。心の琴線に響く作品であることは間違いない。
まず、題名になんとなく違和感を覚える。単に「美しい馬」ならわかる馬でなくバラ人々車そのほか何でも当てはめてみてもしっくりこない「すべての馬」がどうしたというのだそんな気分で本書を手に取った。
舞台はアメリカ南西部とその国境を挟んだメキシコ出だしはやや戸惑い気味会話と他の文章との途切れがなく淡々と語られていく主人公ジョン・グレイディの置かれている位置がよく理解できないまま物語が進んでいく。かまわず読み進む。まだ十代のグレイディとその連れのロリンズが街を出て馬を駆って旅に出るシーンから物語は一つの山場へと向かっていく。そこでもう一度最初から読み返すと実にしっくりとくる独特の文章運びに慣れてきて物語の脈絡が見えてくるこの山が大きなうねりとなって物語を引っ張っていく。終盤に差し掛かるころはたと気付かされるなんのことはない小説の基本「起承転結」がうまいようにハマっている。長旅のすえ二人はメキシコの大きな牧場に落ち着く牧場での生活に慣れてきた頃二人は身に覚えのない罪を押し付けられ警察に拉致されてしまうそこでさんざん暴力を受け文字通り瀕死の状態に陥る。そこから物語は「転」に移っていく。
淡々とした状況描写と会話の妙が読む者を惹きつける馬なくして語れないアメリカの一面を強烈に印象付けられた以前読んだアメリカ西部開拓の物語「センテニアル」(ジェームズ・ミッチナー 著)の中の一文を思い起こした。「馬に乗れるようになれば一人前とみなされる。あとは自分のケツは自分でふかなければならない」自分の人生は自分で選ばなければならない自分探しという甘っちょろいものではなくて自分で決める自由がありそれは自らの手で掴み取らなければならない。ジョン・グレイディにそんなアメリカを見た。
「センテニアル」
このところ、リンカーン・ライムシリーズはやや低調だった。しかし、今回は久しぶりのヒットという感がある。よい作品は出だしから引き込まれるものがあるが、本書もから冒頭からぐいぐい引っ張ってくれる。モチーフとなっているデータマイニングというテーマも時流に乗っていて、グッドタイミング。
それが必要であろうとなかろうと、我々はデジタル情報とは無関係ではいられない。携帯電話の履歴、インターネットを通じたやり取り、テレビショッピングのやり取り、ATMや銀行での取り扱い情報、プリペイドカードやスーパーの会員カードからの買い物情報、ETC利用による位置情報、病院からは病歴、年金や税金の支払い履歴などなど。それらの情報はすべてデジタル化されている。物流も同じこと。あらゆる製品にICタグが埋め込まれ、何が何時どのような状況に置かれ、どのような経路を経て、今誰の手元にあるかがわかるようになってきている。それは人間が生まれてから死ぬまでのデータ管理の可能性を示唆している。ゆえに、データは金になり、データマイニングという分野が生まれてきた。
そこに何かあるかはわからないが、それらのデータをかき集めたものをメタデータという(らしい)。そこにはありとあらゆる個人情報が残されている。仮に個人Aのメタデータを手に入れれば、分析によって、その個人の行動をパターン化して予測することも可能。いつ、どのようなタイミングでDMを送れば買ってくれそうか、などということにも利用できる。また、テロリストの動向をチェックして、事件を未然に防ぐことにも役に立つ。実際、最近の事例で、ある種のデータからテロ計画を察知し直前でそれをくいとめたという報告もある。要するにデータを制するものはとてつもない力を得るということである。
今回の悪役はその「全てを知る男」。データを自由に操ってライムの前にたちはだかる。なかなか手ごわい。
冷戦終了後。任務を終えたアメリカの軍事査察隊を乗せた航空機がロシア領内に墜落した。その事故検証のためアメリカ軍とFBIから調査員が派遣される。主人公の二人、ピーターとヘレンは事故の裏に何かきな臭い匂いを感じ取る。しかし、ヒントを探しあてたその先々で不可思議な事故が連続する。二人は危機一髪の窮地から幾度も逃れながら、真相に迫っていく。一方、アメリカでは事業に成功したアラブの王子が巨万の富を背景に着々とテロの準備を整えつつあった。彼はロシアから用済みの核弾頭を巧みに偽装してアメリカの各地に運び込んでいた。テロ実行が秒読み段階に入って、企ての全貌が明らかになる。残された時間内に阻止しなければ全米が核爆弾の雲に覆われてしまうのだ。この絶体絶命の危機に立ち向かうピーターとヘレン。クライマックスは手に汗握ること間違いなし。
車で渋滞するサンフランシスコのゴールデンゲイトブリッジが破壊され、多くの死傷者が出た。それはイランのテロ組織の手引きによる犯行だった。アメリカはその報復として、テロ組織の温床となっている軍事施設に攻撃をしかけ、甚大な損害をイランに与える。その惨劇を目の当たりにしたイランの将軍が、アメリカへの復讐を心に誓う。表面上はアメリカとの同調を装いながら、陰で着々と軍の増強を図り、テロ計画を推進していく。そしてアメリカ各地で発生するテロ。アメリカは打つ手もないまま大混乱に陥ってしまう。そこにイランに潜入しているアメリカのスパイから、イラン軍の不自然な動きを示唆するメッセージが届く。疑惑は確信のものとなり、イランに強襲部隊が派遣される。
トム・クランシーに匹敵する軍事描写が見もの。繰り広げられるテロ攻撃は現実のものとなりうる可能性を感じさせる。
文庫本の帯には「このミステリーがすごい!第1位 ’97年版」とデカデカと書いてある。今から13年前に買って読んだのだろうが、もっと昔に読んだような気がしていた。もちろん内容は全く覚えていない。ただ、古本を巡ったミステリーだということはなんとなく記憶にあった。その再読。
日本では古書店の主人、京極堂が憑き物落としで事件を解決するが、こちらは古本マニアの刑事が主人公。ちょっとアウトロー的でハードボイルドなところが魅力。文章はさらりとしていて、物語は淡々と進んでいく。しかし、エピソードや伏線はしっかりしと書き込んであり、最初から最後まで飽きさせるところがない。最後の一文がミソ、頭の中の電球に明りがパッと灯った。
キングの本すべてが面白いとは限らない。邪悪なものの位置付けがあいまい。それに相対して、善である少年の描き方にも無理がある。出だしから序盤まではなかなかよかったのだが、中盤以降冗長的な感がぬぐえなくもない。
本書でも多人物同時進行型的手法が用いられている。であるから長編になりがち。作者がそれを意識しようとしまいが、それは推理小説を含めた現代の小説の一つのありかたであるようだ。ただ単純な勧善懲悪のホラーよりも、より複雑で、腹一杯になるような物語を今の読者は求めているのだと思う。今回キングはそれに応えようとしたのかもしれない。プロット、プロットの組み合わせ方は悪くはないと思うのだが、全体を通して焦点がわずかに合っていないように思える。
「トミー・ノッカーズ」 「ザ・スタンド」 「不眠症」
常にメイフェア家の魔女とともにあり、彼ら彼女らに取り付いてきた精霊ラシャー。その目的は実体化すること。そして邪悪な企みをその胸に秘めていた。現代最強の魔女ローアンはその企みを知りつつも、ラシャーに身をゆだねてしまう。そしてついにローアンの体を借りて、ラシャーが肉体化する。
前作『魔女の刻』よりも官能的な度合いが増す。またおどろおどろしさに拍車がかかり、猟奇的な感さえ覚える。医療に関するSF的要素が加わっていかにも現代版魔女の物語といったところ。そして、ジェットコースターに乗りながら迎える最終章。悲しい幕切れが待っていた。
原題は−The Witchng Hour−魔女の刻(とき)と呼ぶのだが、個人的には魔女の刻(こく)と題した方がよかったのにと思っている。
1990年にアメリカで出版されるや、たちまち絶大な人気を得、大ベストセラーとなった。その後直ちに邦訳、文庫版として日本で出版された。この本にたどり着いたのは同じ著者による「夜明けのバンパイア」から。「夜明けのバンパイア」でいっぺんにアン・ライスに魅せられ、バンパイアクロニクルにはまっていった。それだけに、この「魔女の刻」への期待は大きかった。本屋さんに並ぶとすぐに買い求め、むしゃぶりついた。そして、いつかまた読む機会があるだろうと本棚に積んでおいた、その再読である。
現代版魔女の話。「夜明けのバンパイア」は現代版バンパイアクロニクル、続編に続編を重ね長大な物語となってしまった。本書もシリーズ全部合わせるとかなり長い物語となる。長い話にも関わらず論理的破綻もない。17世紀から現代に至るまで続いているメイフェア家の魔女の系譜が圧巻で、まるでそれが史実のようであるかのように感じられる。加えて官能小説もびっくりの描写と先行きがわからない謎解きの妙が現代の魔女の物語をうまく演出している。また舞台となっているニューオリンズの植生、気候などもふんだんに取り入れられ、そこにいったことがないのに、そこを見ているかのようにまたその舞台に立っているかのような臨場感が味わえる。アン・ライスの真骨頂はこの臨場感にあると思う。冒頭からいきなり入りこみ、そのテンションが下がらぬまま最後まで一気読み。これぞエンターテイメントの極みだ。
T・ジェファーソン・パーカー著 ★★★ 早川書房
保安官の妻が自宅のバスルームで撃たれ殺されていた、その夫はすぐそばでやはり撃たれて発見された。夫は一命をとりとめたものの、意識不明の重症を負う。はたして、夫が妻を殺し、自分も死のうと無理心中を図ったのか。それとも他殺なのか。状況証拠は撃たれた保安官が決して無実とはいえないことを示している。だが、事件担当の同僚の女性保安官は彼の無実を信じていた。頼みは、撃たれた保安官が意識を回復し、彼から事件の証言をとること。しかし、その間に、株の取引を巡り保安官にとって不利な背景が浮かび上がってくる。やはり、夫は黒なのか。
事件発生から中盤までの物語は、この先の展開が楽しみな運び。撃たれた保安官の無実をどう勝ち取るのか、そこに焦点が絞られる。しかし、中盤以降、株取引に絡む別の事件が作中に出てきてから、やや散漫になってきた感がある。株取引にまつわるモチーフそれ自体はなかなか興味を惹かれるものなのだが、本事件との融合のしかたに、無理というか安易さが感じられる。
「サイレント・ジョー」「カリフォルニア・ガール」よりも先に出された本ということを考えれば、まだパーカーの世界が確立していなかったのだと、得心した。
三浦綾子 著 ★★★ 新潮社
お盆に帰省した息子に何か面白い本はないかと尋ねたところ、出してきてくれたのがこの『塩狩峠』。なるほど、高校生向けの推薦図書だけあってなかなかよい作品だった。
主人公の少年期から大人まで、その時々の心情がうまく描かれている。明治時代の話なのだが、自分の頃と照らし合わせてみても、人間の本質的な気持ちというのは不変なのだなと思わせてくれた。また少年期から青年期にかけては、息子とダブらせて読んでいる。彼もまた同じ悩みや思いを抱きながら成長してきたのだな。胸が熱くなる場面では息子も小生と同じ思いで読んだに違いない。主人公の生きざまは何かしら今の息子の糧となっているのだろう。小生、『塩狩峠』、息子と、本を頂点とした三角関係のようなものを感じ、息子から手渡された本書によって、息子との絆というものを今初めて認識したような気がする。
最後に、新約聖書から引用された巻頭の一文を記しておこう。
一粒の麦、
地に落ちて死なずば、
唯ひとつにて在らん、
もし死なば、
多くの実を結ぶべし