投稿者: hangontan 投稿日時: 2014-2-25 19:14:01 (654 ヒット)

アラスカのデナリ、カシンリッジに冬季単独登攀を挑んで消息を絶った日本人クライマーの捜索と救出劇を描いたドラマ。ミステリータッチになっていないところが本作品のよいところ。

冒頭からしばらくはステレオタイプの展開が続く。しかし、中盤から後半にかけて、極寒のデナリにもしだいに“熱”が入ってくる。そして、アラスカ州兵のヘリによる主人公のピックアップで物語は一つのクライマックスを迎える。

カシンリッジを越えた「その峰の彼方」に待っていたものは下山時の想像を絶する壮絶なサバイバル。傷を負い、“命からがら”という言葉をはるかに超えた状況にありながら、主人公は現状を冷静に分析し、最善の方法で“生き抜く=下山”を試みる。救出にあたる仲間たちも自らの命を賭けてデナリに入る。「その峰」はそんな両者の想いと重なり、「その峰」の彼方に奇跡が待ち受けていた。

本作品において「その峰」には、さらにもう一つ別の意味合いが込められている。手短にいえば、主人公がカシンリッジに挑む前と、奇跡の生還を果たした後、その間にも一つの大きな“峰”があった。山を越えるこという行為それ自体は単なる山越えにすぎないが、それを通して人は何かを学び感じ取る。山をやっている人間は人生の分水嶺となる山行が時としてあることを知っている。そして、その逆もまた真。

救出された後も主人公は低体温症の後遺症から、病院で生死の境を彷徨うことになる。そんな彼の状況と、彼を見守る彼の妻と仲間たち。ここには荒々しい“峰”ではなく、やさしくたおやかな峰がある。「その峰の彼方」にあるのはやはり希望であろう。

クライミングには人間の経験が凝縮し、山は人生の様々な場面にたとえられる。そんな思いにどっぷりと浸らせてくれた本書だった。


投稿者: hangontan 投稿日時: 2013-12-30 18:00:52 (671 ヒット)



敬愛する山屋をただ一人挙げろ、と言われたら、迷わず高桑信一だと答える。
氏には一度も面識はないが、彼の山の活動と生き方は数々の本に刻まれていて、いつしか私にとってあこがれの存在となっていった。
高桑信一は自らを沢屋と言いきっている。彼の沢に対する想い入れは尋常ではない。そして、沢を通しての人とのつながりも濃く深い。また、彼の書く文章は他の山岳愛好家と比べれば群を抜いている。というよりずば抜けている。いっぱしの文筆家と比してもけっして劣らないだろう。沢水のごとくほとばしる感性を素直な筆致で書き綴った山の記録は、単なる記録にとどまらず、一つの芸術作品をみているかのようだ。よどみない文章とけれんみのない文体が豊饒な沢の世界へといざなってくれる。

本書の全てが珠玉の名文なのだが、ほんの一部のみ引用してみよう。

以下引用

ぶ厚く残る谷の雪渓がようやく融けだし、山肌を彩るブナの淡い新緑が少しずつ色を増していく遅い春に、会津国境の小さな沢を旅した。青桐の花の咲く山裾の仕事径をたどると、夏はいちめんの葦が生い繁る広い川原に出た。めざす小沢は、葦原の右奥からひっそりと流れこんでいた。

遭難の防止と、発生時における対応は同次元で語られるが、まったく別のものだと思っていい。遭難防止はソフトだが、遭難発生時の対応はハードだ、といいかえてもいい。

ごくまれにあらわれる天才と呼ばれる人びとを除けば、人生のすべては経験則によって支配されているといっていい。経験を下支えにした継続の力が、さまざまな技を高め、自信をあたえ、導いていくのである。いくら私がゼンマイ採りに惚れこんで弟子入り志願をしたところで、それは四十八歳の手習いにほかならず、柔和にして辛辣な会津のゼンマイ採りたちには、終生私を仲間とは認めてくれないだろう。
何十年も前にほんの少し齧った程度の経験が、いまの登山に通用すると思ってはいけない。登山における信頼すべき経験とは、継続された経験と密度である。

暴風の雪山で、あまりの風の強さにテントすら張らせてもらえず、そのなかに蓑虫のようにもぐりこんでふた晩を耐えた日。薄い布地のむこうに地獄があった。ひとりの女性が、差し出された食べものや飲みものに手をだそうとしなかった。体力をつけておかないともたないよ、という私に、飲むこと食べること自体エネルギーを使う。それに、飲んで食べれば出るものは出る。女性にとって、この強風地獄でのトイレは死に等しく、それならいっそ、飲まず食わずで耐えるほうを選びたい、と答えた彼女の言葉を忘れない。そのしなやかでしたたかな逞しさを見るがいい。男はどうあがいても、彼女たちにかてそうにないではないか。

山の会など、結局のところ虚構であり、泡沫にすぎない。山で飯が食えるわけではない。ロープを結んで命を支えあったとしても、家庭や仕事にかなうはずがない。思いを共有したからといって、その関係が永続するとはかぎらない。さまざまな人生と価値観を交差させて、人は離合集散を繰り返すのである。

渓にめぐりあって多くの友と仲間を得た。長く遊び続けてこられたのは、彼らの存在によるものだろう。仕事より遊びのほうが人の関係はむずかしい。仕事という大義名分で逃れられても、遊びそのものは仕事と無縁であり、純粋に遊ぼうとすればするほど、相手をきちんと見据えた関係を築かなくてはならないからだ。だからこそ彼らはかけがいのない存在であった。傍若無人にふるまってきたが、人生など所詮プラスマイナスゼロである。じたばたするまい。悲惨な老後まで、まだ少し間があるはずだ。いま少し渓をみつめていよう。それが共同幻想だったとしても。


投稿者: hangontan 投稿日時: 2013-12-7 18:17:16 (513 ヒット)

読んでいて、舞台劇が目に浮かぶ。
幕が開くとそこには背景に雪の山が描かれ真ん中にいろりを切った一軒家。
そこに住まういわくありげな夫婦と訪問者。深く雪に閉ざされた中で時間がゆっくりと過ぎていく。だが、そこで語られる物語は愛する者への狂おしさと凄まじいまでの執着心。静かで凍えるほど冷たい雪の山とは対称的な激しく熱い独白。
山は登場人物に心の内を吐きださせ、人はもがきにもがいて山に挑もうとする。しかし、最後には雪山が全てを包みこんでしまう。そして人の心にも山にも静寂が訪れる。降り積もる雪の余韻を漂わせて幕が降りる。


投稿者: hangontan 投稿日時: 2013-10-29 17:29:55 (562 ヒット)

山の本に入れるかどうか迷ったが、題名と、山に生きる木地師を描いていることから、山の本に分類した。

物語の先行きに胸躍らせるというよりも、ひたすら字面を追って、その場面場面に浸りきる、そんな風に読んでいく作品だ。文章使いは丁寧で、其処に描かれている主人公もそうだが、作者の実直な性格が伝わって来るようだ。妙な挿話もなく読んでいて安心感がある。宮尾登美子の男性版という感じがする。

この本の中にも描かれているが、木地師のルーツは志賀の近江にあるらしい。良質な木材を求めて、木地師は山から山へ、国から国へと移動していった。「ハタ」という名字が秦に所以があるように、木地師の場合は「小椋」姓が受け継がれていった。今でも木地師の里には「オグラ」という姓が残っているところは少なくないという。その先祖を辿っていくと、そのルーツは近江に行きつくことになるのかもしれない。

また、木地師の墓の中には天皇家の菊のご紋を使う墓を見ることができるという。私が仕事で訪問する群馬県の山間の村の上野村にもそれが残っている。そこには十六の菊の紋章の石塔があるのだそうだ。この紋章は近江の小椋の里に隠棲された五十五代文徳天皇の第一皇子惟喬親王を祖と仰ぐ木地師のみに許されたものだという。天皇家以外はむやみに使用してはならないとされる菊のご紋を許された木地師はいかなる存在であったのか、どうやってこれまで生きながらえてきたのか、またその末裔は今現在どのような暮らしを営んでいるのか、興味は尽きない。


投稿者: hangontan 投稿日時: 2012-12-26 5:23:56 (924 ヒット)

ニュージーランドの秀峰「アスパイヤリング」のツアー登山で起こった遭難事故。生き残ったガイドが殺人の罪で告訴される。事故は防げたはずという未必の故意が争点となっている。

ガイド登山の遭難事故が報じられるたびに「ガイドの責任はどこまでか」ということを考えさせられる。遭難には様々な経緯、状況があり、一概に論ずるのは難しいという向きもあろうが、私は、お客さんの疾病に起因する場合を除いて、事故の全責任はガイドにあると考えている。お金をもらって、お客さんを山に案内する以上、あらゆる危険性をガイドは考慮しなければならない。安全登山こそガイドに求められる最低の責務である。もし、落石だとか、雪崩だとか、雪庇の崩落が想定外で不可抗力だったといって、責任逃れをするならば、はなからガイドの資格はない。ガイドになるからにはそのくらいの覚悟で臨んでほしい。ただ、それを告発するかどうかは、また別の問題。

さて、本作品では、登頂後の下山中、自然落石が原因で複数の犠牲者が出てしまう。ツアー登山のガイドである主人公は身の危険を顧みず、必死になってツアー参加者を助けだし、下山させようと試みる。その命を惜しまぬ活躍ぶりが物語の中心をなしている。読者は当然ガイドに責任があるはずがないと導かれる。しかし、裁判での判決は有罪。客観的にみればそういうこともあり得るということだ。

だが、なにもそんなシビアな目で読まなくてもいい。アスパイヤリングの魅力は十分に伝わってくるし、どっぷりと山の中に浸らせてくれる作品となっている。

気になるのは、人称の使い方の違和感、紋切調の表現が目立つというところ。この傾向は笹本稜平の作品全般にみられる。しかし、この”くせ”は自然に身についたしぐさのように、なかなか修正できないのかもしれない。


投稿者: hangontan 投稿日時: 2012-12-13 9:27:22 (472 ヒット)

今日の朝刊をみていて驚いた。笹本稜平の「春を背負って」の映画化の記事が載っていた。

自分がつい最近読んだばかりの本の映画化という、不思議な符合に驚いたのだった。しかも、その本は山の本を探していて、なにげなく手にとった一冊だったから、なおさらだ。映画化と自分のとった行動はまったく別の次元で進行中だったのだが、こうして妙な一致をみると、見えない糸に導かれていたのかもしれない。書架に並ぶ数ある本のなかから、この一冊の背表紙に手をかけた瞬間に、それは運命付けられていたのだろう。

監督は映画「剱岳・点の記」でメガホンをとった木村大介さん。「剱岳・点の記」では剱岳の壮絶な自然をスクリーン化した印象が強かった。今回は、原作から抱いたイメージからすると、たおやかな山の風景と人間模様が描かれるものと想像する。

しかし、なぜ富山発山岳映画二作目としてこの作品が選ばれたのだろうか。その点が気になるところ。確かに笹本稜平は山の本としては今一番油がのっている、言わば旬の作家だ。作風は本書のような穏やかなものと、山岳アクションを交えたミステリーものとの二つの路線がある。どちらをとるかは微妙なところだが、山に生きる人間模様に重きをおくならば、前者になるのだろう。

最近読んだ中では、森村誠一の「エンドレスピーク」も当然映画化の対象とされていると思うのだが、なにぶんスケールが大きすぎて、まとめるには大変。しかし、昨今の山ブーム、当たること間違いはないと思う。

それにしても映画「春を背負って」、立山周辺が舞台となるようだが、自分としては大日岳のイメージを小説から抱いていただけに、ちょっと残念。大日周辺だと、ちょっとインパクトが薄いのかも知れない。でも、私の好きな大日が、そっとしておかれるというのも、それはそれでいいことではないか。


投稿者: hangontan 投稿日時: 2012-12-9 6:38:49 (455 ヒット)

ほんわかな読後感が残る作品だ。

甲武信岳の山小屋が舞台となっている。この山域はあまりなじみがなく、尾根や登山ルート、山小屋の位置関係などに執着しなくて済む。山の小説を読んでいると、とかくそういった細かな点が気になるものだ。したがって先入観なく、物語に入っていくことができる。

山は人との関わりが無ければただの風景にしか過ぎない。そこに人がいるから山は生きてくる。そしてまた人も生かされる。

読みながら、大日平にある小屋とそのご主人を思い浮かべていた。


投稿者: hangontan 投稿日時: 2012-11-15 6:44:06 (561 ヒット)

女性クライマーには美人が多い。
フリークライミングで多くの偉業を成し遂げその伝説となった彼女。そして、女性クライマー美人説を象徴するのもこの本の筆者であるリン・ヒルである。

表紙を飾る写真をみれば、クライミングに興味があろうとなかろうと誰もがこの本を手にとってしまうだろう。その精悍ともいえる整った顔つきと、岩壁の次の一手を見つめ、獲物を見据えるヒョウのような眼差し。そして岩と一体化した手と足、研ぎすまされた体。彼女のまわりの空間までもが張り詰めたクライミングの一部であるかのように彼女を包む。そして、巻頭に並ぶ究極のクライミングシーンを写した写真の数々、それらがこの本の内容以上のものを物語っている。

彼女の初めてのクライミングとの出逢いと、そして、その後フリークライミング界において数々の金字塔を打ち立てることになる、その彼女のフリークライミングの人生を綴っている。とともに、自らがその流れの中にあったフリークライミングの黎明期から現在に至るまでのクライミング技術とクライミングに対する捉え方の変遷もうまく描かれている。

なにより重要なことは、彼女には常によきクライミングパートナーがいて、大勢の仲間達がいたことだ。彼らとの出逢いがなければ、いくら才能のある彼女でもあれだけの偉業は成し遂げられなかったであろう。フリークライミングが本当に好きだということ、そして仲間達への賛辞と感謝の気持ち、そういう思いも本書からひしひしと伝わってくる。


投稿者: hangontan 投稿日時: 2012-11-7 18:03:20 (435 ヒット)

山を題材とした森村誠一の作品は実質上「エンドレスピーク」で終わった。そのあとに出された三部作はとても彼本来の作品とは思えない。誰か、他の彼の弟子が出筆したのではないか、そう思われるほどの出来具合。

そこで、原点に返り、初期の頃の作品を読んでみることにした。

この作品は昭和48年に書かれている。私が手に取ったのは昭和60年頃、30歳前後だったと思う。山登りを始めてから、山岳関係の小説を探しているうちに森村誠一に出会ったのだと記憶する。

後立山連峰の白馬岳から唐松岳に向かう9月の稜線上、そこで起こった遭難事故から物語は始まる。時代は高度成長期、財界と政界とが密接な関係を築いていた。そして、商社がその地位を盤石にしつつある時期でもあった。一方、原子炉開発に関しては、当時はまだ、核兵器への脅威とのジレンマで世論が右に左に揺れ動いていた。

以上のモチーフを背景としながら、男女の愛を描きつつ、密室殺人のトリックも盛り込み、最後には「うーん」とうならせる結末。いわば、おもしろさてんこ盛り。あろう意味、欲張り過ぎの作品と言えなくもないが、森村誠一の魅力が凝縮された作品といえる。


投稿者: hangontan 投稿日時: 2012-2-17 18:18:34 (475 ヒット)

いかにも森村誠一の作品にありそうな題名。
「純白の証明」「青春の雲海」につづく山岳三部作の最終巻、というのだが。

これまで読んだ二作品もそうだったが、この作品も中身がまったくない。それどころか、三部作の中では最低の作品となってしまった。この作品からくらべると、最初に出された「純白の証明」がまだましと思えるくらいの出来。

唯一の読みどころといえるのは「著者あとがき」くらい。これだけは森村誠一の意志が感じられる。

「青春の幻影を山岳ミステリーに具象化させたかった」と森村誠一は言っている。

その意味合いはなんとなくわかるのだが、作品としてはいずれも低レベルに終わっている。
もっと、しっかりとした山岳小説を彼には期待していたのに。

「エンドレスピーク」を頂点に、森村誠一の山は終わってしまった。


投稿者: hangontan 投稿日時: 2012-2-16 18:16:50 (677 ヒット)

個々の疾病については、それを知ろうと思えば様々な方法がある。今の世ならばネットで検索するのが手っ取り早い。症状についての詳細、治療法や対処法について相当詳しく知ることが出来る。

しかし、登山中の不具合と関連付けて記載されたものは意外と少ない。また、お医者さんにしても、山をやっていなければ、山行中での不具合について、100パーセント患者側に立って理解し、処置、指導するのは難しいのではないかと考える。

近年になって身に起こって来た登山中に起こる突然の体調の不具合について調べていたときに出会ったのが、この本だった。この本で「日本登山医学会」なるものがあることを初めて知った。

日本の医療はより細分化、専門化されてきているが、登山中の疾病についても適切な見識が求められ、患者側(登山者)もそれを求めている。
より登山について詳しいお医者さんに診てもらいたいと考えるのは小生だけではないだろう。登山中に同じ経験をしたことがあるお医者さんならば言うことなし。

小生が知りたかった循環器疾患について、山での疾病すべてに言えることだが、「最大の対策は予防である」と言いきっている。すなわち「循環器疾患は急速に進行し、都会でも分単位の診断・治療を要する。ましてや登山中に発症すると致命的であり、迅速な搬送なくして救命は難しい」からだ。

さらに、「登山中に起こる循環器救急疾患の特徴と発症時の対策」については、要点をまとめ一覧表にしてわかりやすく解説してある。自分の症状と照らし合わせるには好材料となるであろう。

他にも登山中に起こりうる様々な疾病も網羅されており、登山者、特に中高年登山者にとっては一読の価値があると思う。もちろんお医者様方にも。


投稿者: hangontan 投稿日時: 2012-2-14 19:38:59 (444 ヒット)

山岳ミステリーとしてはなかなかよくできている。

あとがきで著者が言っているように「山とミステリーの融合は難しい」

そこをよく練り込んだ筋立で乗り切っている。

単独で出かけた女性の遭難が事件の底にあり、それにからんだ様々な人物が登場してきて、犯人探しの醍醐味もある。

しかし、架空の山の設定に若干の違和感を覚えた。周辺の山域や最寄りの町が実名で出てきているのに、対象の山や尾根が架空の名前となっている。なんとなくその場を想定しにくい。

また、何年もかけ何度も何度もチェックを行ったとのことだが、それでも腑に落ちない表記があった。山での岩登りを「岸壁登攀」としたり、「剣岳」と「剱岳」が混在していたり。

そういった詰めの甘さも作品の完成度に影響を及ぼすものだ。


投稿者: hangontan 投稿日時: 2012-1-17 18:25:47 (628 ヒット)

先に続けて読んだ「純白の証明」「青春の雲海」と、二冊ともに、期待を裏切られ、今度こそはとは手に取った一冊。地元北日本新聞をはじめ多くの新聞に連載されたというから、それなりの内容のはず。

だが、今回もまたまた期待を裏切られてしまった。
「森村誠一はいったいどうしちまったんだ」と、つまらなさに斜め読むことしきり。

森村誠一の作品もまた類型化してしまっている。そのパターン化にしても、心地よさがまったく感じられない。字面こそ埋め尽くしてはいるが、上辺だけで、内容がともなっていない。同じパターン化にしても、昨年自分の中で大ブレークした池井戸潤とはえらい違いだ。

それとも私の読みが足りないのだろうか。今や大御所作家のはずなのに、この出来の悪さは不思議でたまらない。

物語は沖縄の知覧特攻隊基地から始まる。愛する女性のために二度も三度も口実をつけて特攻から戻って来る隊員。必死の命に背いて、生きながらえるため、特攻機を駆って単身中国大陸に向かった隊員。彼らの末裔たちの織りなすドラマ。これが、一つの類型。この部分で新聞読者の心をつかんではいるのだが。

軍事政権で揺れる東南アジアの某国から逃げてきている民主派指導者をかくまう非政府組織。この集団が浅田次郎ばりの個性派集団。その中の一人の女性が外国要人の特別供応係り。これもまた一つの類型。

主人公を取り巻く麗しい女性たち。主人公はあくまでいい人物である。

その女性たちや個性派集団を引き連れて山に入り、登攀シーンを繰りひろげ、山の世界を垣間見せる。これもまた他の作品に使われた手法。

今回はおまけとして、民主派指導者を抹殺するために送り込まれた八人の殺人集団が余興として登場。なんとも漫画チックでおバカな役回りを演じている。

そして最後にくるのは、ヒマラヤ山脈の末端に位置する某国にある未踏峰アグリピークへの大遠征。ここの場面にかなりのページが割かれている。資金力にものを言わせた三カ月にも及ぶ大キャラバン。相当大げさな大名行列だが山の話としてはいくらか見ごたえはある。

他の作家にはまねのできない、森村誠一得意の山の描写が冴えわたる。

そして、最後の最後にきて、主人公らを襲う悲劇。頂上アタックの帰路、殺人集団の最後の残りの一人がしつらえた罠にかかって、アタック隊は稜線から転落。4人のパーティーは一本のザイルで宙吊りとなってしまう。そして切断。これもまた類型の一つ。

正直言って、山の話にくるまでは、なんとも支離滅裂型の内容といっても過言ではない。特攻隊の末裔が見えざる運命の糸によって引き寄せられ、困難を共にし、そして一つの目的に向かって道を切り開いていく。それが物語の主題をなしているのだが、それにボリュームをもたせる肉付けがうまくいっていない。

直前に読んだ「青春の雲海」でも感じたが、この作品も「題材やそちこちに散りばめたプロット、プロットはまぁまぁだと思うが、筋立てや伏線の張り方が安易すぎて深みと面白みに欠ける」という印象だ。

加えて、この作品は多くの新聞に連載された作品。冒頭の特攻隊のつかみから某国の民主化運動に絡んだ序盤からは、新聞読者はある程度の期待を抱いていたはず。それが、物語が進んでいくにつれて、作者は深いロジックを組み立てられなくなり、へんてこりんな殺人集団の登場や、抽斗にあった過去の作品のモチーフを拝借して、それらを危ういながらも繋いで最後のアグリピークの遠征までもっていった、との印象が残る。

その辺を、生で読んでいた新聞読者はどう捉えていたのだろうか。そして、この作品を掲載した新聞社はいかに。


投稿者: hangontan 投稿日時: 2012-1-15 17:36:35 (447 ヒット)

人生二毛作、三毛作。
人生をリセットするため、行方をくらまし、赤の他人に成りすまして暮らしてみたい。そんな願望は誰にでもあるのではないだろうか。今回の作品はそれが主題となっている。

山に行くといって、そのまま行方不明となってしまった本屋の主人。
その妻と、白馬から針ノ木への縦走路で棟居刑事が遭遇する。

本屋の主人とその会社の女性従業員との不倫逃避行。二人が転がり込んだ先は、これがまた人生二毛作、三毛作を地でいく人ばかりが住んでいるアパート。そこの住人は浅田次郎の小説に出てくるような、なんとも個性派揃いな連中ばかり。

外国要人のための特別供応担当女性まで登場し、主物語に絡んでくる。

数年前に起きた老婆殺人事件と今新たに起こった身元不明者の殺人事件の接点が次第に見えてくる。

棟居刑事が再び山に登る。

この作品もコメディなのだか、刑事ものなのだか、さっぱりわからない。題材やそちこちに散りばめたプロット、プロットはまぁまぁだと思うのだが、筋立てや伏線の張り方が安易すぎて深みと面白みに欠ける。浅田次郎ばりのユーモア仕立てにも程遠く、この作品にもがっかりさせられた。


投稿者: hangontan 投稿日時: 2012-1-14 18:30:56 (445 ヒット)

中央官庁の課長補佐がビルから飛び降り自殺をした。課長補佐といえばノンキャリア組としてはそこが最後の行き着く場所。しかし、省内の生き字引と慕われ、職場はもとより出入り企業からも一目置かれていた彼には自殺に走る理由は見当たらない。

自殺か他殺かをめぐり、警察が捜査を進めていくなかで浮かんできたのが、自殺をした課長補佐が絡んだ山での遭難事故。登攀中の仲間の一人が転落し、宙吊り状態の彼はパーティーを救うため自らザイルを切断してしまう。

捜査の糸口をその事件に見出す棟居刑事。

そのパーティーのメンバーを捜査中に相次いで起きる山の死亡事故。そして、再びザイル切断による死亡事故が起きてしまう。

サスペンスものとしてはロジックが薄弱、社会派小説としては企業悪が描き切れておらず、山の本としては深みがない。いまいち乗りに欠ける作品だ。


投稿者: hangontan 投稿日時: 2012-1-10 5:43:50 (450 ヒット)

かつて、大日平と弥陀ヶ原を分けている称名川に橋を架ける計画が持ち上がったことがあった。もし実現していれば立山周辺の観光状況は大きく変わっていただろう。その後、どうなったのだろうか。

この作品は槍ヶ岳の開発計画が素地となっている。そして街で起こる殺人事件。そのアリバイのために山が使われた。写真を使った巧妙なトリック。図説まで挿入してあり、山と推理小説どちらも狙った野心的な作品。

ストーリーや、トリック自体はそんなにワクワクさせてくれるほどのものではない。しかし、ときおり描かれている山の臨場感が秀逸。言葉で表現しがたい一瞬の輝きをこうやって文章で言い表せるのも、やはり物書きのなせるわざだろう。

以下引用:

『一瞬の時点をとらえての写真に定着させたような観察すら、赤と黄を主体にした色彩の洪水である。それが時間の経過にしたがって、夕闇の藍と黒の蚕食を受けて、少しも静止することのない千変万化の色彩の饗宴をくりひろげていた。稜線に近づいて赤みを帯びた太陽が、雲を染める。逆光の中に濃いシルエットを刻んで沈む稜線の真上が最も赤く、天の上方へ行くにつれて茜から黄色へ、そして、夕闇がひたひたと侵蝕して来る東方の藍色の空へとつながる』

『その中間にあって、複雑に堆み重なった雲層が、落日を屈折して乱反射する。光を浴びた雲の下層は燃え上がり、雲そのものが炎のように見える。上層の雲は、紫から、黒へと退色する』

こんな書き方してみたいなぁ。


投稿者: hangontan 投稿日時: 2012-1-1 15:40:49 (497 ヒット)

この作品は1968年に青樹社から出版され、その後2006年まで、数多くの出版社から発刊されている。
実に40年間、その時代時代において、様々な読者層に読み継がれてきた秀作である。

小生が山を始めてまだ間もないころにも一度読んだことがあったと思うのだが、内容はすっかり忘れてしまっており、題名だけが脳裏に残っていた。その再読。

作者は、この作品を「ある先輩作家から酷評されて、私は一時、自信を失った」というのだが、自らも述べているように、小説は「評価や読み方も読者によって天地ほどに分かれる」。これほど長きにわたって読み継がれている事実をしてみれば、その「酷評」は、とある一読者の一つの見方にすぎなかったのだろう。誰がどう酷評しようとも、それ以外の読者の好みに合いさえすれば、その作品が世に出された価値があるというもの。

「分水嶺」は人生の分岐点と重なり合う。題名を「分岐点」としたならば、それこそ味気ないものになってしまっていただろう。「分水嶺」の持つ語感のよさに引き付けられ本書を手に取ったものも少なからずいるだろう。

冒頭から始まる穂高の分水嶺での山岳シーンがこの物語の成り行きを暗示する。その後、登場人物それぞれの前に様々な形で現れる分水嶺。それを右に左に分けながら話は進んでいく。

分水嶺には二通りあって、自らその進む方向を決められるものとそうでないもの。どちらも、運命を分ける重要な分岐点となるが、後者においては、選択ということで自分に裁量権が与えられている。

逆にいえば、選択は自分の人生を自ら決め得ることのできる鍵ということである。日々に下す様々な決断、その前には必ず選択がついてまわる。人生を決める大きな分水嶺に接し、決断を迫られたとき、人は何を基準に選択するのか。この作品はそんなテーマを問うている。

今自分は人生の一つの大きな分水嶺に立っている。そんな時期にこの本を読み返したのは何かの因縁なのかもしれない。


投稿者: hangontan 投稿日時: 2011-12-9 20:54:19 (438 ヒット)

昭和十六年、日本にはきな臭い匂いが立ちこめていた。

その年の夏、女性一人を含む五人の若者が槍ヶ岳の山頂に立った。いつの日にかまた五人揃って再び槍ヶ岳に集うことを誓い合い、その証として、山頂の小石をそれぞれが持ち帰った。日本、アメリカ、中国に散らばっていった五人の青春物語。

戦後五十年を機に出筆され、朝刊紙に連載されたという。それから今はさらに十五年が経過している。

森村誠一ならではの、重厚で奥の深い作品である。それでいて品格もある。

戦後五十年といえば、まだ戦場経験のある人々が数多く残っていた。戦争の話を聞きたければ、その人達が語ってくれた。聞こうと思えば、直接その人に会って話を聞くことができた。

小生のお得意さんの中にも、満州引き上げぐみや、シベリヤ帰り、南方洋上から帰還した人たちが少なからずいて、その方々から生々しい話を数多く伺った。自分の子や身内には話さなくても、他人には話して聞かせるという方がほとんどだった。小生の父からも戦時中の話は聞かず終い。父もあえて語ろうとしなかった。自ら話してくれれば、私には聞く用意はあったと思うのだが、父が逝ってしまった今となっては詮無い話ではある。

たまたま、この小説を読んでいる最中に、父と予科練で同期だった人に会うことが出来、当時の状況を聞くことができた。その方の奥さんも同席していたのだが、その内容は、奥さんですら、何十年と連れ添っていて、一度も聞いたことのない話ばかりだった。当時予科練や予備学校の最年少部類にはいる年代の方たちも、すでに85歳前後。あと何年かすれば、その方たちの大方はいなくなってしまう。父を含めその方たちの年代は、特攻隊志願者も多い。話を伺ったその方も、ただ「現物」がないため本土で足止めをくらって、言わば順番待ちの状態で終戦を迎えたとのことだった。

作者がこの作品を書いた頃、15年前、まだ、その体験者が大勢残って、直接話を聞こうと思えばそれが可能だった。しかし、あと数年もすれば、戦争の記憶の伝え手がいなくなってしまう。 一次情報が得られなくなるということは、二次情報に頼るしかない。その意味においてもこの作品の持つ意味合いは深い。

テーマは戦争。それを描いた小説はそれこそ山のようにある。それらを決して数多く読んできたわけではないが、この作品は、その中でも最上級として位置づけられるものと思う。

悲惨な場面も数多く描かれており、涙すること多々。しかし、五人の主人公らを含め青年の純粋で前向きな気持ちが全編を通して描かれており、その悲しみを明日への勇気と希望に変えてくれる力が本作品にはある。


投稿者: hangontan 投稿日時: 2011-12-4 17:04:39 (403 ヒット)

前に読んだ「天空の回廊」よりはおもしろい。話があちこちに広がらず、ほとんどが山中心の物語に仕上がっている。

山だけで、これだけの長編を書くのはたいへん難しい。いくら山好きでも、山のシーンばかりでは、読みものとしては飽きがきてしまうからだ。そうならないようにとの思惑があってかどうか、山の小説にはサスペンス仕立てとなっているものが少なくない。本作品はそのサスペンス性を匂わせながらも、そちらに偏りすぎない筋立てに仕上がっている。

サスペンスに気をまわし過ぎると、山の話なのかサスペンスなのか、中途半端な物語に陥ってしまう場合が多々ある。先に読んだ「天空の回廊」はその一つの典型。

作家にとっても労多くして実り少なし、ということになりかねない。おそらく、作者は風呂敷を広げ過ぎた前作に懲りて、なるべく純粋な山の物語を目指したものと想像される。その薬味としてサスペンスが少々ふりかけてある。

舞台はブロードピークとK2。
K2で最愛のパートナーを悲惨なかたちで失った主人公。

その彼が再起の可能性を胸に秘め、公募登山のスタッフとなってブロードピークを目指す。そこで彼はそれまでの自分の山登りとの違いに戸惑いを感じる。公募登山とはお客さんを登らせてなんぼの世界。そのためには自分はひたすら脇役に徹しなければならない。というより、そこは山であって山でない。山に向かうとか山懐に抱かれるとかそんなこととは無関係の「仕事場」でしかない。それまで自分のために登って来た山と「区別」せざるを得なかった。

ニュージーランドの公募隊と協力し合いながら、登攀はいよいよ最終段階に入る。ニュージーランド隊のアタック日、天候が急変し山頂付近は嵐に包まれる。大量遭難の思いがよぎる。そこで主人公は公募登山のスタッフとしてではなく、一人の山屋としての行動に出る。救助に向かう彼の心の内からは「仕事場の山」と「自分の山」との垣根が取り払われてしまっていた。

還るべき場所をみつけた主人公であった。


投稿者: hangontan 投稿日時: 2011-11-27 17:54:30 (441 ヒット)

読んでいて、心あたたまる作品。

作者自身も肩の力が抜け、リラックスして書けているような感じ。

アスペルガー症候群の少女を含め三人の元山小屋従業員が、山小屋の主人、パウロさんの遺言に促され、ネパール西北部のカンティ・ヒマール山域の未踏峰「ビンティ・チュリ」を目指す。

先に読んだ「天空の回廊」と同じ作者とは思えないくらいシンプルな筆運び。文体も時につれて変わっていくのだろうか。

これまで山小屋はあまり利用したことがなかったが、なんとなく山小屋に泊まってみるのもいいかな、と思わされた。小屋の主人との触合いもまんざらではなさそうだ。


投稿者: hangontan 投稿日時: 2011-11-22 20:52:56 (483 ヒット)

久々の山岳冒険サスペンス。エベレストを舞台に繰り広げられる山岳アクション。だいぶ古くなるが、ボブ・ラングレーの「北壁の死闘」を彷彿させる。

登攀シーンは細部にまで正確に描かれており、山屋が読んでも全く違和感がない。むしろ、臨場感漂う登攀シーンが見所。ただ、登山経験のないものにとって、この辺はどのように感じるのだろうか。

エベレストの山頂付近に墜落した人工衛星が実はアメリカの中性子爆弾の弾頭を積んだ軍事衛星だった。その軍事衛星の奪取をめぐり物語が進行する。

エベレスト登攀にかける山屋の物語に軍事衛星の秘密に関する彼我の物語が連動する。しかし、これがやや風呂敷を広げ過ぎて、その辻褄合わせに一苦労。結局、複雑で説明的にすぎる作品になってしまった。登場人物も多すぎて、誰が誰だかわかんなくなってしまう。もう少し話を単純にした方がよかったのではないかと思う。

登攀シーンなどの客観的な描写力は優れているが、セリフまわしや文章使いに紋切調的な表現が多々見受けられる。それもちょっと気になる点。笹本稜平は自然に筆がすすむというタイプではないようだ。熟考の末練られた表現と筋立てが仇になっている。書き手としては、小説よりも学術論文や報道記事に向いているように思う。


投稿者: hangontan 投稿日時: 2011-11-8 18:21:10 (476 ヒット)

今年の一月中旬ごろだったろうか、ラジオ番組のブックレビューのコーナーで児玉清さんがジェフリー・アーチャーのことを熱く語っていた。曰く、「ジェフリー・アーチャーの人生は波乱万丈に富んでいる」と。

それから、いくらもたたないうちに、児玉清さんは亡くなった。芸能人やタレントの訃報に接して、それほど深い悲しみは抱いたことはなかったが、児玉清さんのことを耳にしたときは、違った。本読みという繋がりを通して同志という意識が自分にはあったのかもしれない。あの肝の入った語り口を思い起こすたびに目がしらが熱くなる。

そのジェフリー・アーチャーの作品をようやく手に取った。

エベレストを目指して、帰らぬ人となったジョージ・マロリー。果たしてマロリーは頂上に達していたのか否か、そこで何が起きていたのか、謎に包まれたまま、時間だけが過ぎ去っていった。遺体が発見されたのは1999年の春、70年以上の空白を越えて、その話題はセンセーショナルな出来事として世界中を駆け巡った。

本書はマロリーのエベレスト登頂の物語りというよりも、マロリーの生涯を描く評伝小説的要素が強い。彼の家族構成から始まり、幼少の頃からの彼を追っていっている。かつ、登頂の謎と彼の遺体が数十年もたってから発見されたこと、その話題性をうまく絡み合わせている。

往年の登山家ヤング、オデール、アーヴィン、フィンチらが登場するたびに胸が躍る。しかし、マロリーがただ一人自分と同等かあるいはそれ以上と認めていたフィンチを除いて、他の登山家達の活躍は控えめに描かれている。
フィンチはかなり個性が強かったとみえる。イギリス人の典型であり理想ともいえるマロリーとは対照的。化学者であったフィンチは酸素を使っての登頂に可能性を見出し、最初の遠征では彼の方がマロリーより上部に達していた。

しかし、次の遠征隊に彼ははずされてしまう。王立地理学会がオーストラリア人のフィンチをエベレスト征服の最初の一人として認めることを潔としなかったのだ。当時イギリスが威信をかけて臨んだ南極到達もノルウェー人のアムンゼンによって成し遂げられていた。
エベレスト初登頂はなんとしてもイギリス人でなくてはならなかった。しかし、その後、歴史上初めてエベレストの頂を踏んだのがニュージーランド人のヒラリーだったことを鑑みれば皮肉な話ではある。

マロリーは果たして登頂に成功したのか、女神は彼に微笑んだのか。


投稿者: hangontan 投稿日時: 2011-11-3 18:45:01 (414 ヒット)

B級アクション。

これでもか、これでもかと雪のシーンが出てくる。ストーリー的にはいまいちだが、主人公の頑張りはえらい。雪山の経験がある人なら楽しめるはず。

第17回吉川英治新人文学賞


投稿者: hangontan 投稿日時: 2011-11-2 18:51:23 (399 ヒット)

ケイビングサスペンス

これはケイビング一本。山の本としてはどうかと言われれば、話が黒姫山からヒスイ峡の洞窟を舞台となっており、山とサスペンスが同時に楽しめる。人物描写、話の筋ともにB級。


投稿者: hangontan 投稿日時: 2011-8-12 18:14:10 (665 ヒット)

1986年の夏、K2に起こったに悲劇。そこで何あったのか、この本にはそれが記されている。また著者クルト自身と彼のパートナーのジュリー・チュリスとの荘厳な山の物語でもある。

読み始めてまず驚いたのが、1986年にK2に挑んだときのクルトの年齢。なんと54歳。その歳でK2に臨めるものだろうか。同じ歳ですでに隠居を決込んでいる自分にはそれだけでも驚異的かつショックな話。K2を剱に置き換えて、こんなことをしている場合ではないと思うことしきり。

当時と言えば、メスナーやククチカの動向が常に登山界の話題となり、トモ・チェセンが新進気鋭のクライマーとして頭角を現し始めてきた頃。そんな中にあって、彼らから見ればクルトのようなおじさんクライマーも懸命に山に挑戦していた。そこに引き付けられた。

登頂まで若干の紆余曲折はあったにせよ、二人で念願のK2に立ったときは至福の瞬間だった。クルトはその『若干の紆余曲折』を遭難の兆候とらえて記述している。登山の目標はただ山頂に達することだけではなく、無事下山することも含んでいる。登山全体を捉えたとき、『若干の紆余曲折』が致命的な結果をもたらす要因となることもあり得る。今回の場合、クルトはそれを示唆し、その予兆を感じていた。特にK2のような8000メートルを超えるビッグクライムとなれば一つの綻びが全体の成果を左右する危険性を秘めている。「あのとき何故あんなことをしたのか?」だが、いくら用意周到に臨んだとしても、何もかも予定していた通り完璧にいく山などあるわけもない。その時々に応じて最善の策と思えたことをやっていたつもりでも、それが結果から見れば、そうでなかった場合もあり得る。

8000メートルを超える高所での過酷なビバークを経て、次々と倒れていく仲間たち、その中には一緒に登頂を果たしたジュリーも。それぞれの悲惨な状況をクルトは冷静に観察し、淡々と綴っていく。飾らない文章がよけい臨場感を際立たせている。まるで目の前でそれが起こっているかのように、自分が彼らと一緒に狭いビバークテントの中にいるように。疲労困憊し立つ力もなく体を横たえ、涙目でクルトを見つめている自分がそこにいる。今まさに死に行く彼らをどうしてやることもできない。自分らが進むだけ。彼らを後にしてクルトは下り続ける。そしてついに希望のテントが見えてくる。一緒に登り、同じ時、同じ空間にいて、極限の世界を究めながらも生還した者と残された者、その違いはなんだったんだろうと思う。双方とも彼らは彼らの山をやってきて、結果、そうなった。それしか言えないような気がする。


投稿者: hangontan 投稿日時: 2010-12-10 6:22:02 (682 ヒット)

富山県朝日町蛭谷の和紙のことを調べたくて図書館に行ったが、思いのほか資料が少ない。それでも、なんとか探し当てたのがこの一冊。お目当ての蛭谷の和紙につては、記述は少ないが、知りたいことのおおよそはカバーされていた。「北陸産」ということだから、もちろん、他の和紙の産地についても触れられている。その中でも、特に興味をひかれたのが、八尾と利賀の和紙。富山の薬にも使われていた膏薬用の和紙のこと。利賀の和紙の成り立ち、と、福光の商人との深い関係。など。なにしろ、「産地に行っても、文書として残されているものは皆無に近い」という。古文書などを丁寧に読み拾い、そこから和紙に関する記述を抽出し、考察を加え、一つの本にまとめ上げたのだという。それは並大抵の作業ではない。大変な苦労があったのだろうと想像される。そのようにして出来上がった本書は貴重な資料であるとともに、読みながら和紙の産地を旅して歩いているような気分に浸らせてくれた。たまには、デジタルでない旅をしてみるのもいいものだ。


投稿者: hangontan 投稿日時: 2010-10-5 20:30:15 (641 ヒット)

『前略 蔵王のダリア園から、ドッコ沼へ登るゴンドラ・リフトの中で、まさかあなたと再会するなんて』
この出だしは名文だろう。この一行で物語に引き込まれてしまう。紅葉に染まる蔵王で、偶然別れた夫を見かけた妻が元夫に手紙を送る。その手紙をもらった方は、最初戸惑いながらも返事を返す。その後数回の手紙が行き来する。離婚の直接の原因は夫が起こした惨劇にあるのだが、手紙のやり取りから、別れた後もお互いに愛を抱いているは明らか。手紙を書くことによって、自分の気持ちを整理し、その時々の思いを正直に語っている。
錦繍とは赤、黄、橙に染まった、全山紅葉の錦絵を思い浮かべる。一本、一本の木が全体としてモザイクのように融合し絡み合って、一つの景色を作り上げている。人生もまたしかり、自分のまわりのもの全てが複雑に絡み合ったモザイク模様。本書では手紙という形をとって、それを十二分に描いて見せている。


投稿者: hangontan 投稿日時: 2010-8-19 6:04:26 (581 ヒット)

吉村昭 著 ★★★ 新潮文庫

息子から手渡された本の二冊目。これも高校の推薦図書だという。
高熱隧道とは何なのか、なんとなく知ってはいたが、こんなに凄まじい話だったとは。昭和11年、黒部第三発電所建設に際し、欅平から仙人谷まで穿たれた隧道工事。黒部奥山は急峻なところで、自然条件の厳しさは折り紙つき。相当な難工事が想像される。欅平と仙人谷双方から掘り始め、それが寸分の狂いもなく貫通し合うのは至難の業。実際、両穴がかち合った時点での中心線は水平に1.7センチの誤差しかなかったとか。題名となった隧道の高熱問題、頑強に作られた宿舎が文字通りふっ飛んでしまう泡雪崩、それらによる事故が相次いで、ついには犠牲者の数は三百を超えてしまう。度重なる事故のたび、現場の工夫達は幾十もの死体を目の当たりにする。しかし、恐怖に怯えながらも工事を進める。それを支えたのは、下界では到底考えられないほどの高賃金もさることながら、工夫達の意地とプライドである。高温のためいつダイナマイトが爆発するかもしれない恐怖、一方でなんとかして自分のこの手で貫通させたいという気持ちの高まり、両者が心の中でせめぎ合う。そしてついに片方側から一本の鑿が貫通する瞬間がやってくる。昭和の日本を築いた先人たちの熱い思いの詰まったドラマだ。


投稿者: hangontan 投稿日時: 2010-6-8 6:15:08 (468 ヒット)

ダライ・ラマ 著 ★★★ 文藝春秋

ダライ・ラマ幼少のときから1959年の亡命政府設立、その後30年にわたる亡命生活について、その時々のエピソードを交えながら語っている。中でも、ラサからインドへの国境越えは相当の苦難であったことがうかがえる。
中国はチベットを帝国主義者からの開放の名の下に侵略し、多くの寺院の破壊をはじめとして民族文化の破壊、民族の独自性、独立性を奪い取った。ダライ・ラマをはじめ多くのチベット人が世界各国に避難し、チベット国内の同胞と共にいつの日か祖国が自らの手に戻ることを願っている。


投稿者: hangontan 投稿日時: 2010-5-12 6:15:23 (363 ヒット)

谷甲州 著 ★★ ハヤカワ文庫

全編が山の話。いわくありげな一人の男によって寄せ集められた即席の隊が山に挑む。何か事件が起こりそうな出だしであったが、物語的にはそうでもない。山登りのタクティクスに関しては忠実に描かれているので、その辺は楽しめる。核心は主人公にときよりおそいかかるデジャブ現象がはたして彼らの山登りとどうリンクしてくるのか、というところだろう。だが、それは細い支尾根に留まって、太い尾根とはならなかったようだ。山をやっているものなら誰もが抱くであろう、「夢想」=「こんな場面が来たらどうしよう」、という想いを断片的に書きとどめた、そんな本となっている。ごく浅い夢物語である。


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