「デス・ゾーン 8848M エヴェレスト大量遭難の真実」アナトリー・ブクレーエフ、ウエストン。デウォルト著 ★★★ 角川書店

投稿日時 2015-12-28 19:13:12 | トピック: 山の本

1996年5月10日、アナトリー・ブクレーエフはスコット・フィッシャー率いる営業公募登山隊のガイドとして参加し、ロブ・ホールが率いる営業登山隊とあい前後してエヴェレストの最終アタックキャンプC4を出発し頂上を目指した。そのときに起こった大量遭難の模様は同じ日にロブ・ホール隊の随行記者としてC4を発ったジョン・クラカワーが記した「空へ INTO THIN AIR」で詳しく述べられている。

「空へ」の中で、クラカワーは顧客を危険地帯に残して先に下山してしまったブクレーエフのことを「ガイドにあるまじき行為で惨禍を大きくする要因にもなった」と批判した。これに対しブクレーエフは出版元の「アウトサイド」に弁明の機会を与えて欲しいと彼のとった行為の真実を書き留めた文書を送ったが、アウトサイド側はその全文を載せることを拒否。そのため、ブクレーエフの言い分は宙に浮いた形になった。そういういきさつもあって、本書は「空へ」で名誉を汚されたブクレーエフの反対文書との見方も出来る。

クラカワーはジャーナリストの目から見た営業公募登山隊の表裏と大量遭難の過程を記しているのに対して、ブクレーエフは彼自身の登山に対する考え方を中心に本件を振り返っている。ブクレーエフは『ガイドの援助を大幅に受けなければエヴェレストに登れないような顧客はエヴェレストに登るべきではない。そこのところをはっきりさせておかないと、頂上近くで大きな問題が起こりかねない』とクラカワーに話している。一方、クラカワーは『わたしは、クライマーとして34年間やってきて、登山の一番の価値は、このスポーツが自助努力を旨としているところにあると理解してきた。個人の責任において事に当たり、重要な決定をなすことにある』と、述べている。

ここまでは登山の本質においての考え方に両者にはさほど違いがないように思える。しかし、クラカワーはさらに『だが、ガイドの顧客として契約書にサインした時点で、そういったものはすべて、いや、それ以上のものまであきらめざるをえないのだ、ということをわたしは発見した。堅実なガイドは、安全のために、つねに厳しく監督する、絶対に、重要な決定を顧客の一人一人にまかせるわけにはいかないのだ』と著書の中でのべている。従って、無酸素で頂上に向かったブクレーエフは、8000メートル以上の高所では低酸素からくる予知できない異変(「論理的な思考ができない状態」を含め)が起こり得ることを熟知しているにもかかわらず、ガイドとしての務めを果たしているとはいえない、と言うのである。『自力で登っている限り、無酸素登山は許せる。というより、美的により好ましいものであるけれど、酸素を使わずにこの山をガイドするというのは、きわめて無責任行為』と言えるわけだ。そのうえ、顧客と一体になって行動せず、先に下りてきてしまったのは言語道断というわけだ。

これに対してブクレーエフは『私が無酸素で登頂するのは通常のことであり、私は例外的に無酸素で登頂することができる。私は無酸素で登頂することを了承さていた』と反論する。しかし、『登頂後、下りはじめてから数分後、数人(ロブ・ホールとスコット・フィッシャーの双方の顧客)が一団となって頂きに向かって登って行くのが見えた・・・彼らを見てほっとしたとはいえ、不安は拭いきれなかった。彼らがここまで登ってくるのに14時間もたっていたが、彼らの酸素は18時間分しかない。これまで普通に酸素を消費してきたとして、残りは4時間だ。著上に到達するまでにはまだ30分ほどかかる。彼らが第4キャンプまでおりてくるのに、充分な「酸素時間」はないかもしれなかった』と述懐している。となれば、なおさら彼ら(顧客)と行動を共にし、先に降りるべきではなかったともいえる。

そして、ヒラリーステップの上端で「今日の登りはきつい」と話したスコット・フィッシャーとすれ違った時、「いちばん賢明なのは、私ができるだけ早く第4キャンプに戻ることだ。下って来るメンバーにそなえ酸素補給が必要になった場合にそなえて待機しておくほうがいい・・・このことをスコットに説明し、彼も私の考えを聞いてくれた。スコットも今の状況を同じように見ており、私が下ったほうがいいよということで意見が一致した」と記している。そうであれば、クラカワーが指摘するような『顧客を放り投げて先に下ってしまった』というのは事実誤認もはなはだしい、とブクレーエフは主張する。

はたして、ブクレーエフが危惧していたことが現実のものとなった。嵐の中、ロブ・ホール隊とスコット・フィッシャー隊の混成メンバーが命からがら下って来たが、第4キャンプのテント場を見つけられず、サウスコル近くで生と死の間を彷徨っていたのだ。そのとき、ブクレーエフは午前1時に時速60キロから120キロ以上で吹き荒れる嵐の中、彼らを救出に向かった。しかも、一回目の捜索では発見できず、一旦テントに戻り、再び探しに出かけている。すでに下山していたクラカワーや他のメンバーは疲れきっていて自分の命さえ危うい状態で、とても救出どころではなく、シュラフにくるまって寝ているのがやっとだった。

先に、行き先を見失って彷徨っているうちの二人がブクレーエフのランプに導かれ、テントまで辿りつく。二人に酸素を与え、寝袋に入れたりした後、三たび彼は救助に出発し、瀕死の5名のうちの3名の命を救うことになる。残された二人、ベック・ウエザーズと難波康子はもう助けようがない状態だった。3名を救ったブクレーエフは疲れ果て、テントに潜り込む。朝になって、その場で救助隊が組織され、捜索にでてからまもなく二人を発見した。『二人とも体の一部が雪埋もれていた。顔を覆っている厚さ数センチの氷の殻を叩き割ったとき、二人はまだ息をしていた』しかし、『ベースキャンプへ降ろしていくあいだに、きっと死んでしまうであろうし、他のクライマーたちの命を必要以上の危険にさらすことになる』との判断から、二人ともその場に置き去りにすることになった。(しかし、その数時間後ベック・ウエザーズは凍りついた体から目覚めて彷徨しているところを救助される)

8000メートルの高所でのブクレーエフのこの驚異的な救出活動からすれば、彼は称賛されこそすれ、ガイドの任を放棄したなどとの誹りを受ける筋合いはない。逆に、自分は何もせずに批判めかしたことを書き連ねているクラカワーこそ恥を知れとの言い分もある。しかし、クラカワーが言うように、ブクレーエフがずっと彼らと行動を共にしていたならば、こんな惨劇にまで至らなかったかもしれない。という見方もできる。

結果的には、スコット・フィッシャー隊は当のスコット意外は登頂した顧客に犠牲者は出ていない。ブクレーエフは職責を果たしたとも言える。一方のロブ・ホール隊では難波康子、アンディ・ハリス、ダグ・ハンセンと隊長のロブ・ホールが命を落とした。アタック当日は、両グループが相前後して数珠つなぎになって山頂を目指しており、別々の隊というよりはむしろ運命共同体のようなものであったといえる。そこでは、ガイドも顧客も無秩序に行動することは災難の火種になりかねず、商業登山であればなおさら統率のとれた行動が求められる。クラカワーが言うように、そこには登山の本質などありえず、ガイドするもとそれに従うものがあるのみである。

両隊ともしっかり組織されており、綿密な計画のもとでの公募登山であったと思う。しかし、最後の最後になって、上手の手から水がこぼれてしまった。前もって登頂のタイムリミットを1時ないし2時に設定しておきながら、しかもそのことは隊員みんなの頭に叩き込まれていたはずなのに、アタックの最中にうやむやになり、守りえなかったことが悲劇を生んだ最大の要因だと思う。



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