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徒然書き : 大坂夏の陣で、家康が「葛根湯」を持って来いと言った・・・とか
投稿者: hangontan 投稿日時: 2019-3-14 12:50:13 (7 ヒット)

山岡荘八の「徳川家康 全26巻」(昭和58年NHK大河ドラマの原作にもなった)にその台詞がある。小説の中とはいえ、はたしてその信ぴょう性はいかに?もしかしたら、売薬さん仲間ではよく知られた話かもしれないが、私としては初めて目にしたことなので、ちょっとした驚きであった。

場面は、家康仕置きの最終章ともいえる大坂夏の陣での一コマ。5月6日の戦闘は幕府方の優勢で、豊臣方は大坂城近郊に追い詰められた。しかし、家康は孫の越前公松平忠直を呼び出して、その日功を上げなかった忠直に「お前は昼寝をしていたのか」と叱りつけた。忠直は汚名をはらさんと翌日の先陣を申し出でるが、家康は「先陣に昼寝をされては勝てる戦が負けになる」と一喝した。という一節。(しかし、忠直はこれに発奮して先陣と決まっていた前田利常を出し抜いて、翌日夏の陣一番の大活躍をする)
そのとき出てきたのがこの言葉。

以下引用(安藤直次を前にして)
「よい。では葛根湯を一杯持てと言え」
「は・・・?」
「孫ばかり叱れぬ。わしも生命を捨てる気で戦う。力をつけておかねばならぬ」
「ハハ・・・・」
と、直次は笑った。
「大御所さまが、そのお齢で」
「だまらっしゃい」
引用終わり

家康のこの戦にかける決意と心のうちがこのあと語られる。そして、その最中にも「葛根湯をすすりだした」との台詞がある。

さて、この日は旧暦の5月6日、新暦では6月2日にあたる。このとき家康74歳(満72)、気力体力の衰えはさすがに隠せない。しかし、引用文から読みとれるように、家康の気力は家臣も感服するほど充実している。夏風邪を引いているふうでもなし、なぜ家康は葛根湯を飲んだのか。薬を生業としていなければ、読み飛ばしてしまうところなのだろうが、小説を読み終えてからもこの点が引っ掛ってしょうがなかった。
家康の健康オタクは有名な話で、体調には気を使い、いつも医学書と薬を携帯していたとされ、この小説ばかりでなく他の小説の中でもしばしば家康が常備していた薬のことがでてくる。しかし、その名前が、万病円、龍虎丹、銀液丹など、あまり聴いたことのないものばかり。ところが、この場面で出てきたのは我々がごく普通に使っている葛根湯だったので、驚きとともにとても新鮮に感じた。だが、風邪でもないのに、夏に、しかもなぜ葛根湯なのか、疑問は深まる。

1. 単純に考えると、家康は葛根湯に含まれる麻黄の覚醒効果をねらって飲んだのではないか
冬の陣で外堀をすべて埋め立てられた大坂城は裸同然で、戦いの帰趨はすでに見えていた。しかし、家康の気持ちはただ勝てばいいという単純なものではなかったようだ。信長、秀吉に代表される戦国武将の闘いの目的はいかに天下の覇者となるかに重きをおいていたが、家康は彼らとはいくぶん異なる人生観をもっていた。ただ敵対するものを倒していくだけならば、戦乱の世に終わりはない。人々が安心して過ごせる日々はいつになってもやって来ない。等しく万民のための泰平こそが彼が求めるもの。三河の宿なしと言われてから数十年を経てやっとここまできた。家康の夢見た戦乱の世の終結がいますぐそこまで来ている。そんな彼の集大成ともいえる一戦だから、歳がどうのこうのとは言っておられない。上手の手から水がこぼれるようなことが万が一にもあってはならず、集中力を研ぎ澄まさせ、体力も十分に保っておかなければならなかった。

そこで、葛根湯を飲んだのではなかったのか。我々配置薬業者は経験上、やはり夏に風邪でもないのに葛根湯を飲んでいる方を知っている。訊くと、肩のこわばりや体力仕事をした後の骨病みに葛根湯を飲むと体が軽くなるのだそうだ。薬オタクの家康はそんなことはもちろん承知のはずで、この正念場で葛根湯を飲んだとしてもなんら不思議ではない。

2. 山岡荘八が葛根湯を持ち出す根拠となる文献、古文書等があったのだろうか
歴史小説の難しいところは、史実を抑えながら独自の観点でそれを物語化していかなければならないということ。史実は曲げられないが、逆に言うと史実に載ってない部分は自由な発想で物語を紡ぎだすことができる。

「家康」「漢方薬」という言葉でネット検索すると、興味深い記事がヒットする。
それは「甲子夜話」という随筆集。この中に大坂夏の陣で家康が使った薬が出てくる。もしかしたら、これは大ヒットかも・・・。「甲子(かっし)夜話」は江戸時代後期、肥前国平戸藩第9代藩主の松浦静山の手になる随筆集。なんと20年間分、278巻にも及び、江戸後期の世相が日記形式で書き綴られている。その「甲子夜話」続編十六にその記載がある。

以下引用
東照宮の引起(ヒキオコシ)と云う伝御薬あり。此御方、大坂夏御陣のとき諸陣に下されしと云。水或いは白湯(サユ)にてこれを飲むに、元気をひきおこす、甚功験ありと云ふ。
葛粉二十四銭 胡椒三銭 黄柏一銭
黄連一銭 肉桂一銭 甘艸七文五輪
右六味細末
引用終わり

家康が「引起」(ヒキオコシ)という薬を戦のときに準備して、家来に分け与えていたという伝承があったらしいことはわかる。
処方として葛根湯と重複するのは「葛粉」「肉桂」「甘艸」の三味。
これからすると、発汗作用・鎮痛作用、解熱、神経痛、健胃、整腸の食欲不振などの効能が期待できるが、「胡椒」「黄柏」「黄連」を足してあるところをみると、どちらかといえば健胃薬としての効能の方が高いようだ。まず胃腸を丈夫にして病気にならない体づくりに励もうということだろうか。また、暑い夏の時期であれば、食あたりや水あたりに陥りやすい季節でもあり、それに対応する「引起」は兵士たちに強い味方であったと考えられる。
そんな「甲子夜話」のこの部分を作者の山岡荘八が知っていたかどうかは定かではないが、健胃薬に近い「引起」を葛根湯として紹介するにはやや難があるように思える。

3. 御陣薬として家康が「枇杷葉湯」という薬を準備していたというのも有名な話(出典は未確認)
その処方は、枇杷葉 一銭 肉桂、藿香、木香 各半銭、呉茱ゆ 五分 益知 五分、甘草 二分。こちらも前述の「引起」同様健胃薬という要素が強い。
江戸時代に入ってから暑気払いの妙薬として有名となった薬で、江戸では真夏になると、薬屋が店先で夏バテ防止に道行く人たちにふるまったという。釜で煮立てた溶液」を庶民たちは汗をかきつつフーフー冷ましながら飲んだ。一方、関西では行商人が薬缶に煎じ薬入れて売り歩いた。「枇杷葉湯」は江戸時代の風物詩だったらしいことがうかがえる。初夏に飲むというよりは、盛夏の暑気払いとして飲用し、弱った胃腸を整え丈夫にして夏を乗り切るために使用されたと考えられ、今で言うならば健康飲料、健康茶に近いものであったと推察される。やはり、これもここ大一番という場面で家康が所望した薬といえるかどうかとなると疑問は残る。仮に、健康飲料として飲んだのだとしたら、すなおに「枇杷湯を持ってこい」と言った方が自然であろう。

4. では当時、家康が葛根湯を使ったという史実はあったのか
これを見極めるはとても難しい。家康に関わる文献や古文書、一つ一つひも解いてみなければ真相は究明できない。一般市民にとっては至難の業。
名古屋にある徳川美術館に家康が没した際の遺品形見分けを記録したものが収蔵されている。「駿府御分物帳目録」というのがその中にあり、「尾張家本目録」「御藥種之帳」と続く。家康が尾張家に残した薬を調べれば、家康が使った薬がわかるというもの。だが、この「御藥種之帳」は一般公開されておらず、データベース化もされていない。刀剣や他の道具に関してはいくらか研究もされ、その成果をネットで閲覧することが可能だが、「御藥種之帳」は残念ながらヒットしない。そこで徳川美術館に問い合わせてみたところ、かつて「東京大学歴史編纂所」というところで研究対象になったことがあるとのことで、そこにあたってみてくれないか、ということだった。そこで「東京大学史料編纂所」のデータベースサイトに入り、「御藥種之帳」を検索してみたが、ヒットしない。もしかしたら、データベース化されなくも、文字と写真で起こしてあれば閲覧も可能かと思い、その旨を問い合わせてみたら、「駿府御分物御道具帳」という謄写本があるとの返事が返って来た。だが、この冊子は取り寄せ不可能で、現地にて閲覧するしかない。しかも、そこに収載されているのは単なる薬の原料の羅列なのか、それらを応用して処方された薬も紹介されているのかはわからない。残念ながら、ここからの線も行き詰る。

5. もう一度葛根湯に戻って
「平安時代末期、陳師文等が撰述した「太平惠民和剤局方」が輸入された。本書は治療の多数の処方と応用を詳説したもの。江戸時代の末に至るまで我が国医方に繁用された。後年「薬局方」なる名はこの書に淵源する」(「明治前日本薬物学史」)
薬オタクの家康はこの「和剤局方」を手本として自ら薬を調合していたという。この「和剤局方」に葛根湯はありや。「和剤局方」はデジタル化されネットで閲覧することが出来る。それをめくってみると、前述の万病円、龍虎丹、銀液丹も収載されている。しかし、小青龍湯、小柴胡湯、麻黄湯といった現在でもおなじみの漢方薬は出てくるが、肝心の葛根湯がみあたらない(もしかしたら私の見落としかもしれないが)。かわりに、似た名前の「升麻葛根湯」「葛根解肌湯」というのを見出すことができる。
「升麻葛根湯」は「大人小児、時気瘟疫、頭痛発熱、肢体煩疼するを治す。及び瘡疹已に発し、及び未だ発生せず、疑似の間宜しく之を服すべし」とある。成分としては、「葛根」「芍薬」「升麻」「甘草」「生姜」(「増廣太平惠民和劑局方」享保17年巻のものには「生姜」が含まれていない)。葛根湯と重複するのは「葛根」「芍薬」「甘草」「生姜」の四味。「麻黄」のかわりに使用されている「升麻」は解熱、解毒剤の効果があり、前述の「引起」よりは現存の葛根湯に近い。「麻黄」が使われていないのはやや弱いとの印象を受けるが、これを逆手にとって麻疹にはこの「升麻葛根湯」がまず第一に処方されていたらしい。麻疹の初期では熱など風邪に似た症状が出るため、安易に麻黄剤を処方するとかえって症状を悪化させる場合がある。傷寒と瘡疹と区別がつかない間はまず「升麻葛根湯」を与えて様子をみるということだ。これは、今でも通じることで、我々もきもに銘じておかなければならない。急な熱やだるさが出たとき、つい葛根湯と思いがちだが、服用後症状が重くなってきたらすぐに医師に診てもらうべきであろう。逆に言えば初期の段階で傷寒と瘡疹との区別がつくのが名医の証しの一つとなろう。また、江戸時代には流行性の風邪、今で言うところのインフルエンザには小青龍湯、麻黄湯、とこの「升麻葛根湯」の三つが主な治療薬であったらしい(現在なら、葛根湯、麻黄湯、桂枝湯が相当か)。「升麻葛根湯」は現在の局方にも収載されており、体力中等度で、頭痛、発熱、悪寒などがあるものの次の諸症「感冒の初期、湿疹・皮膚炎」に用いるとあり、麻疹や風疹の初期には有効なようだ。
「葛根解肌湯」の成分は「葛根」「麻黄」「桂枝」「芍薬」「甘草」「黄芩」の六味。葛根湯にある「大棗」「生姜」の代わりに「黄芩」が使われている。先の「升麻葛根湯」よりも、より葛根湯に近い処方と言える。桂枝、麻黄が使われていることから、関節痛や頭痛、悪寒などに有用だったと思われる。
さらに、葛根湯には「桂枝加葛根湯」他、派生したものもいくつか存在し、紛らわしい呼び名ではある。はたして、夏の陣で家康が飲んだのはどの葛根湯だったのだろうか。「升麻葛根湯」や「葛根解肌湯」を作者が知っていて、現在の葛根湯に置き換えて使ったのかもしれない。たしかに「升麻葛根湯を持て」と言うよりは「葛根湯を持て」のほうがリズム感もあり、わかり易いだろう。

6. やはり、家康は葛根湯の原典となる「傷寒論」に精通していたのだろうか
日本に現伝本と等しい「傷寒論」が伝入したのは鎌倉時代に入ってからとされる。健康、薬オタクの家康は当然「和剤局方」同様「傷寒論」を参考にしていたとしてもおかしくはない。だが、この件に関する伝承や文献はなかなかみつからない。やはり、ここは歴史のロマンというところで収めておくのがよいのかもしれない。
「徳川家康」が新聞小説として始まったのは昭和25年。それから18年の長きに渡り連載された。その間、体調の悪いこともあったろうが、そんなときでも原稿を切らすわけにはいかない。そこで作者が体調維持のために頼りにしていたのが葛根湯だったとしたらどうだろう。家康の万民泰平の夢はこの一戦にあり、作者の連載もいよいよ大詰めといったところ。もしかしたら作者は葛根湯を飲みながら家康になりきって夏の陣に想いを馳せていたのかもしれない。

蛇足ながら・・・
今回の考察をへて、富山市が構想中の「くすり関連施設」に思うこと
歴史小説に出てきた「葛根湯」、それも徳川家康が使ったという話に興味をひかれ調べてみた。いまや、ネットという便利なツールがあり、何を調べるにも「検索」一発で事が足りる。だが、そこには「ようである」「ようです」「といわれている」など、二次、三次情報が万延し、その真偽を見極めるのはとても難しい。トランプ大統領がよく使うようにまさにそれは「フェイク」かもしれず、その定かでない情報に一喜一憂させられる場合が少なくない。
家康が葛根湯を使用したか否かについては、まず、ネットを駆使して手掛かりとなる情報を集め、それを端緒として図書館の伝手を使ってより精度の高い情報にアクセスしたり、家康関連の博物館や美術館に問い合わせたり、大学の研究機関への問い合わせも試みた。しかし、実際のところそれを証明する確かな文献にまで到達することができなかった。問題は、何かを調べるには何が重要な鍵かを知り、その鍵を誰が持っているか、また何処にあるか、そしてどこを押せば鍵となるボタンに近づけるか、その点にかかっているのに、その工程をうまく構築できなかった点にあると思う。

大学の研究機関では、鍵となる文献にいきついたとしても、それが研究室貸出となっていれば、それを閲覧することは一般人には叶わない。また、研究室への問い合わせも、一般人からは原則として受け付けない、という大学もある。博物館、美術館の所蔵品はとても貴重な史料であり、ガラス越しで表紙ぐらいは見ることができるかもしれないが、中身を精査するのはとても無理。すでに大学の研究室等で分析され冊子化されているものもあるが、それを取り寄せることあたわず、コピーを有料で分けてもらうにしてもとても高価なものについてしまう。国立国会図書館ではデジタル化された文献があったが、その原本を閲覧しようにも、現地まで出向かなければならず、仮にその文献に求める史料が残されているかどうか手にとってみないとわからないとなると、わざわざ国会図書館まで出向くというのも二の足を踏んでしまう。

今般、富山市に新しく「くすり関連施設」が新設されるという。
その基本理念は「富山の薬の歴史と文化、精神を継承し、薬都の未来を市民とともに創造する」とある。もちろん売薬史料館としての機能は充実したものになると思うが、それに加えて、日本の薬文化や歴史について学術的に網羅する研究施設も併設することを希望する。先に述べたように、大学の研究機関は敷居が高く、全国に散らばる薬関係の史料を収蔵した博物館や、美術館へは今それと訪問できるものではなく、大学や他の研究機関へのアクセスも一般人ではなかなか難しい。そんなとき、この施設利用すれば探し出したい史料がみつかる、ちょっとした疑問にも答えてくれる、ここになければ、他所との連携から鍵となる案件へと導いてくれる、そういう機能とサービスがあればとても助かるというもの。「富山のくすりの殿堂」であるばかりではなく、「日本の薬文化や歴史のことも」という看板が備われば、真に薬都富山にふさわしい施設になるのではないだろうか。

主要参考文献
山崎光夫「薬で読み解く江戸の事件史」東洋経済新聞社
山崎光夫「我に秘薬あり」講談社
新村拓「日本医療史」吉川弘文館
篠田建明「徳川将軍家十五代のカルテ」新潮社
松浦静山「甲子夜話 続編2」平凡社
(財)日本古医学学資料センター「明治前日本薬物学史」臨川書店
「増廣太平惠民和劑局方」国立国会図書館デジタルオンライン
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)

御助言を頂いた方々
徳川美術館
国立国会図書館
東京大学史料編纂所
富山市立図書館
富山県立図書館
富山大学中央図書館
富山大学医薬学書図書館
富山市売薬史料館
突然の、また唐突な問い合せにもかかわらず親切に対応していただきありがとうございました。

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