投稿者: hangontan 投稿日時: 2021-3-10 6:09:24 (172 ヒット)

先だって、日本穀物検定協会主催「令和2年産米 食味ランキング」が報じられた。当県一押し「富富富」の評価はAランク。ちなみに「群馬産「コシヒカリ」が特A。特Aは53産地品種もあり、これからもれた「富富富」はいったいどんなお米なのだろう。県はこれをブランド米として東京先行高価格戦略で売り出したのだから、関係者も悩ましいところだろう。(この件については以前述べたのでここでは触れない)。ランクにも幅ありどの辺に位置するのか興味がある。たぶん点数化されていると思うのだが、どうなんだろう、もしそうなら、対象154産地品種の全点数が知りたい。 
一方、米・食味鑑定士協会主催の「米・食味分析鑑定コンクール : 国際大会」(今回で22回目)の結果も気なる。これは、完全に数値化されていて、まず、1次審査、2次審査でふるいにかけられる(栄養価、たんぱく質、でんぷんなど)。そこで基準点に達しないものは食味審査に進めない。個人でも組合でも法人でも参加でき、前回の検体個数が5100以上、優秀検体が137というから、かなり評価は厳しい、大方は予選落ちということになる。それでも、すべての評価点数が明示される。何年か前にその結果を冊子にしたものを見せてもらったことがある。厚さ1センチの本で全検体数網羅。出品者、品種、銘柄、点数が表組されている。はたして今回「富富富」は出馬したのか、何点だったのか、とても気になる


投稿者: hangontan 投稿日時: 2020-5-15 6:36:55 (279 ヒット)











白萩川の車止めに着いたら自分と同じ車種、同色の車が止まっていたので挨拶をしに行った。そしたら、その方は全国レベルの山岳写真家のTさんで、これから大猫まで剱の写真を撮りにいくのだという。ご同行を申し出たら、快く受けてくださった。

大猫の登りは2年前の事故以来。あのときは、大猫を登頂した後、また別の日にブナクラのコルへ向かう途中雪渓を踏み抜いて右膝蓋骨骨折とあいなった。

剱が真正面に見えるこの尾根は好きな山の一つである。Tさんと写真を撮っていて思ったのだが、何故この尾根に魅かれるのか、その理由が今更ながらわかった。それは、自分が通った剱の峰々、尾根と谷、それらのすべてがこの尾根から眺められるからだと。たしかに、ここに来るたびにかつて自分が辿った足取りを思い返していたが、Tさんと写真の構図について論議していると、ふと、そのことに思い当たったわけだ。頂を目指すのは確かに一つの目的だが、山から下りたあと、その山を振り返ってみるのもまた楽しみの一つである。この場所にくれば、この尾根からは、自分が歩んだ道、これまでの人生が垣間見れる、だから、この尾根が好きなのだ。

で、一登りして、樹林帯を抜け、剱が一望できる場所まで。そこで、カメラを出して、めいめい撮影にかかった。うまい具合に雲も演出してくれている。Tさんは丁寧に山の撮り方について教えてくれた。もっとも、こちらが事細かく質問責めにしたしせいもあるのかもしれないが、面倒くさがることなく、親切に教えて下さった。それは、手取り足取り、まるで教え子に諭すような話しぶり。これまで、写真は独自の無手勝流で、誰にも教えを乞うたことがなかった。なので、Tさんの一言一言はとても新鮮で、納得のいくものだった。これまでの我流の撮り方から、一枠抜け出すきっかけになった。

山は行ってみければわからない、今日もそんな一日だった。


投稿者: hangontan 投稿日時: 2019-5-29 6:41:39 (375 ヒット)

片貝川上流は片貝川南又線に入るとすぐにゲートと駐車場が設けてある。ここから先は周辺の自然環境保全の目的でマイカー乗り入れ自粛区域となっている。そのことを示す立派な案内板も設置してある。来訪者の多くはこの趣旨を理解して駐車場に車を置いてその先を散策する。登山目的で猫又山方面を目指して南又の雪渓に入るにはこの駐車場から2時間くらいのアルバイトを要する。しかし、毎年今頃になると、どこまで車が入ったとか、南又発電所まで車が入ったとか、などという情報がタイムラインに流れてくる。ゲートは施錠してないため、県外からの来訪者は自粛区域とは知らずにうっかり通り過ぎてしまうこともあろう。しかし、自然を楽しむために訪れた一般の人々が駐車場に車を止めていて、自粛要請を無視してその先に車を乗り入れているのが地元の山屋だったり、ガイドさんだったりすると、いかがなもんかなぁ、と思ってしまう。
https://www.city.uozu.toyama.jp/guide/svGuideDtl.aspx?servno=2418


投稿者: hangontan 投稿日時: 2019-3-27 18:35:04 (517 ヒット)





群馬のアズマイチゲと富山のキクザキイチゲ。
双方ともフクジュソウがほきてきた頃、サクラのちょっと前くらいから咲き始める。アズマイチゲのほうが少し早いかも。富山ではアズマイチゲ見たことない。去年のキクザキイチゲは色が濃かったけど、今年のは淡い色合い。冬の寒さがきついと濃い色になるのかも。


投稿者: hangontan 投稿日時: 2019-3-14 12:50:13 (496 ヒット)

山岡荘八の「徳川家康 全26巻」(昭和58年NHK大河ドラマの原作にもなった)にその台詞がある。小説の中とはいえ、はたしてその信ぴょう性はいかに?もしかしたら、売薬さん仲間ではよく知られた話かもしれないが、私としては初めて目にしたことなので、ちょっとした驚きであった。

場面は、家康仕置きの最終章ともいえる大坂夏の陣での一コマ。5月6日の戦闘は幕府方の優勢で、豊臣方は大坂城近郊に追い詰められた。しかし、家康は孫の越前公松平忠直を呼び出して、その日功を上げなかった忠直に「お前は昼寝をしていたのか」と叱りつけた。忠直は汚名をはらさんと翌日の先陣を申し出でるが、家康は「先陣に昼寝をされては勝てる戦が負けになる」と一喝した。という一節。(しかし、忠直はこれに発奮して先陣と決まっていた前田利常を出し抜いて、翌日夏の陣一番の大活躍をする)
そのとき出てきたのがこの言葉。

以下引用(安藤直次を前にして)
「よい。では葛根湯を一杯持てと言え」
「は・・・?」
「孫ばかり叱れぬ。わしも生命を捨てる気で戦う。力をつけておかねばならぬ」
「ハハ・・・・」
と、直次は笑った。
「大御所さまが、そのお齢で」
「だまらっしゃい」
引用終わり

家康のこの戦にかける決意と心のうちがこのあと語られる。そして、その最中にも「葛根湯をすすりだした」との台詞がある。

さて、この日は旧暦の5月6日、新暦では6月2日にあたる。このとき家康74歳(満72)、気力体力の衰えはさすがに隠せない。しかし、引用文から読みとれるように、家康の気力は家臣も感服するほど充実している。夏風邪を引いているふうでもなし、なぜ家康は葛根湯を飲んだのか。薬を生業としていなければ、読み飛ばしてしまうところなのだろうが、小説を読み終えてからもこの点が引っ掛ってしょうがなかった。
家康の健康オタクは有名な話で、体調には気を使い、いつも医学書と薬を携帯していたとされ、この小説ばかりでなく他の小説の中でもしばしば家康が常備していた薬のことがでてくる。しかし、その名前が、万病円、龍虎丹、銀液丹など、あまり聴いたことのないものばかり。ところが、この場面で出てきたのは我々がごく普通に使っている葛根湯だったので、驚きとともにとても新鮮に感じた。だが、風邪でもないのに、夏に、しかもなぜ葛根湯なのか、疑問は深まる。

1. 単純に考えると、家康は葛根湯に含まれる麻黄の覚醒効果をねらって飲んだのではないか
冬の陣で外堀をすべて埋め立てられた大坂城は裸同然で、戦いの帰趨はすでに見えていた。しかし、家康の気持ちはただ勝てばいいという単純なものではなかったようだ。信長、秀吉に代表される戦国武将の闘いの目的はいかに天下の覇者となるかに重きをおいていたが、家康は彼らとはいくぶん異なる人生観をもっていた。ただ敵対するものを倒していくだけならば、戦乱の世に終わりはない。人々が安心して過ごせる日々はいつになってもやって来ない。等しく万民のための泰平こそが彼が求めるもの。三河の宿なしと言われてから数十年を経てやっとここまできた。家康の夢見た戦乱の世の終結がいますぐそこまで来ている。そんな彼の集大成ともいえる一戦だから、歳がどうのこうのとは言っておられない。上手の手から水がこぼれるようなことが万が一にもあってはならず、集中力を研ぎ澄まさせ、体力も十分に保っておかなければならなかった。

そこで、葛根湯を飲んだのではなかったのか。我々配置薬業者は経験上、やはり夏に風邪でもないのに葛根湯を飲んでいる方を知っている。訊くと、肩のこわばりや体力仕事をした後の骨病みに葛根湯を飲むと体が軽くなるのだそうだ。薬オタクの家康はそんなことはもちろん承知のはずで、この正念場で葛根湯を飲んだとしてもなんら不思議ではない。

2. 山岡荘八が葛根湯を持ち出す根拠となる文献、古文書等があったのだろうか
歴史小説の難しいところは、史実を抑えながら独自の観点でそれを物語化していかなければならないということ。史実は曲げられないが、逆に言うと史実に載ってない部分は自由な発想で物語を紡ぎだすことができる。

「家康」「漢方薬」という言葉でネット検索すると、興味深い記事がヒットする。
それは「甲子夜話」という随筆集。この中に大坂夏の陣で家康が使った薬が出てくる。もしかしたら、これは大ヒットかも・・・。「甲子(かっし)夜話」は江戸時代後期、肥前国平戸藩第9代藩主の松浦静山の手になる随筆集。なんと20年間分、278巻にも及び、江戸後期の世相が日記形式で書き綴られている。その「甲子夜話」続編十六にその記載がある。

以下引用
東照宮の引起(ヒキオコシ)と云う伝御薬あり。此御方、大坂夏御陣のとき諸陣に下されしと云。水或いは白湯(サユ)にてこれを飲むに、元気をひきおこす、甚功験ありと云ふ。
葛粉二十四銭 胡椒三銭 黄柏一銭
黄連一銭 肉桂一銭 甘艸七文五輪
右六味細末
引用終わり

家康が「引起」(ヒキオコシ)という薬を戦のときに準備して、家来に分け与えていたという伝承があったらしいことはわかる。
処方として葛根湯と重複するのは「葛粉」「肉桂」「甘艸」の三味。
これからすると、発汗作用・鎮痛作用、解熱、神経痛、健胃、整腸の食欲不振などの効能が期待できるが、「胡椒」「黄柏」「黄連」を足してあるところをみると、どちらかといえば健胃薬としての効能の方が高いようだ。まず胃腸を丈夫にして病気にならない体づくりに励もうということだろうか。また、暑い夏の時期であれば、食あたりや水あたりに陥りやすい季節でもあり、それに対応する「引起」は兵士たちに強い味方であったと考えられる。
そんな「甲子夜話」のこの部分を作者の山岡荘八が知っていたかどうかは定かではないが、健胃薬に近い「引起」を葛根湯として紹介するにはやや難があるように思える。

3. 御陣薬として家康が「枇杷葉湯」という薬を準備していたというのも有名な話(出典は未確認)
その処方は、枇杷葉 一銭 肉桂、藿香、木香 各半銭、呉茱ゆ 五分 益知 五分、甘草 二分。こちらも前述の「引起」同様健胃薬という要素が強い。
江戸時代に入ってから暑気払いの妙薬として有名となった薬で、江戸では真夏になると、薬屋が店先で夏バテ防止に道行く人たちにふるまったという。釜で煮立てた溶液」を庶民たちは汗をかきつつフーフー冷ましながら飲んだ。一方、関西では行商人が薬缶に煎じ薬入れて売り歩いた。「枇杷葉湯」は江戸時代の風物詩だったらしいことがうかがえる。初夏に飲むというよりは、盛夏の暑気払いとして飲用し、弱った胃腸を整え丈夫にして夏を乗り切るために使用されたと考えられ、今で言うならば健康飲料、健康茶に近いものであったと推察される。やはり、これもここ大一番という場面で家康が所望した薬といえるかどうかとなると疑問は残る。仮に、健康飲料として飲んだのだとしたら、すなおに「枇杷湯を持ってこい」と言った方が自然であろう。

4. では当時、家康が葛根湯を使ったという史実はあったのか
これを見極めるはとても難しい。家康に関わる文献や古文書、一つ一つひも解いてみなければ真相は究明できない。一般市民にとっては至難の業。
名古屋にある徳川美術館に家康が没した際の遺品形見分けを記録したものが収蔵されている。「駿府御分物帳目録」というのがその中にあり、「尾張家本目録」「御藥種之帳」と続く。家康が尾張家に残した薬を調べれば、家康が使った薬がわかるというもの。だが、この「御藥種之帳」は一般公開されておらず、データベース化もされていない。刀剣や他の道具に関してはいくらか研究もされ、その成果をネットで閲覧することが可能だが、「御藥種之帳」は残念ながらヒットしない。そこで徳川美術館に問い合わせてみたところ、かつて「東京大学歴史編纂所」というところで研究対象になったことがあるとのことで、そこにあたってみてくれないか、ということだった。そこで「東京大学史料編纂所」のデータベースサイトに入り、「御藥種之帳」を検索してみたが、ヒットしない。もしかしたら、データベース化されなくも、文字と写真で起こしてあれば閲覧も可能かと思い、その旨を問い合わせてみたら、「駿府御分物御道具帳」という謄写本があるとの返事が返って来た。だが、この冊子は取り寄せ不可能で、現地にて閲覧するしかない。しかも、そこに収載されているのは単なる薬の原料の羅列なのか、それらを応用して処方された薬も紹介されているのかはわからない。残念ながら、ここからの線も行き詰る。

5. もう一度葛根湯に戻って
「平安時代末期、陳師文等が撰述した「太平惠民和剤局方」が輸入された。本書は治療の多数の処方と応用を詳説したもの。江戸時代の末に至るまで我が国医方に繁用された。後年「薬局方」なる名はこの書に淵源する」(「明治前日本薬物学史」)
薬オタクの家康はこの「和剤局方」を手本として自ら薬を調合していたという。この「和剤局方」に葛根湯はありや。「和剤局方」はデジタル化されネットで閲覧することが出来る。それをめくってみると、前述の万病円、龍虎丹、銀液丹も収載されている。しかし、小青龍湯、小柴胡湯、麻黄湯といった現在でもおなじみの漢方薬は出てくるが、肝心の葛根湯がみあたらない(もしかしたら私の見落としかもしれないが)。かわりに、似た名前の「升麻葛根湯」「葛根解肌湯」というのを見出すことができる。
「升麻葛根湯」は「大人小児、時気瘟疫、頭痛発熱、肢体煩疼するを治す。及び瘡疹已に発し、及び未だ発生せず、疑似の間宜しく之を服すべし」とある。成分としては、「葛根」「芍薬」「升麻」「甘草」「生姜」(「増廣太平惠民和劑局方」享保17年巻のものには「生姜」が含まれていない)。葛根湯と重複するのは「葛根」「芍薬」「甘草」「生姜」の四味。「麻黄」のかわりに使用されている「升麻」は解熱、解毒剤の効果があり、前述の「引起」よりは現存の葛根湯に近い。「麻黄」が使われていないのはやや弱いとの印象を受けるが、これを逆手にとって麻疹にはこの「升麻葛根湯」がまず第一に処方されていたらしい。麻疹の初期では熱など風邪に似た症状が出るため、安易に麻黄剤を処方するとかえって症状を悪化させる場合がある。傷寒と瘡疹と区別がつかない間はまず「升麻葛根湯」を与えて様子をみるということだ。これは、今でも通じることで、我々もきもに銘じておかなければならない。急な熱やだるさが出たとき、つい葛根湯と思いがちだが、服用後症状が重くなってきたらすぐに医師に診てもらうべきであろう。逆に言えば初期の段階で傷寒と瘡疹との区別がつくのが名医の証しの一つとなろう。また、江戸時代には流行性の風邪、今で言うところのインフルエンザには小青龍湯、麻黄湯、とこの「升麻葛根湯」の三つが主な治療薬であったらしい(現在なら、葛根湯、麻黄湯、桂枝湯が相当か)。「升麻葛根湯」は現在の局方にも収載されており、体力中等度で、頭痛、発熱、悪寒などがあるものの次の諸症「感冒の初期、湿疹・皮膚炎」に用いるとあり、麻疹や風疹の初期には有効なようだ。
「葛根解肌湯」の成分は「葛根」「麻黄」「桂枝」「芍薬」「甘草」「黄芩」の六味。葛根湯にある「大棗」「生姜」の代わりに「黄芩」が使われている。先の「升麻葛根湯」よりも、より葛根湯に近い処方と言える。桂枝、麻黄が使われていることから、関節痛や頭痛、悪寒などに有用だったと思われる。
さらに、葛根湯には「桂枝加葛根湯」他、派生したものもいくつか存在し、紛らわしい呼び名ではある。はたして、夏の陣で家康が飲んだのはどの葛根湯だったのだろうか。「升麻葛根湯」や「葛根解肌湯」を作者が知っていて、現在の葛根湯に置き換えて使ったのかもしれない。たしかに「升麻葛根湯を持て」と言うよりは「葛根湯を持て」のほうがリズム感もあり、わかり易いだろう。

6. やはり、家康は葛根湯の原典となる「傷寒論」に精通していたのだろうか
日本に現伝本と等しい「傷寒論」が伝入したのは鎌倉時代に入ってからとされる。健康、薬オタクの家康は当然「和剤局方」同様「傷寒論」を参考にしていたとしてもおかしくはない。だが、この件に関する伝承や文献はなかなかみつからない。やはり、ここは歴史のロマンというところで収めておくのがよいのかもしれない。
「徳川家康」が新聞小説として始まったのは昭和25年。それから18年の長きに渡り連載された。その間、体調の悪いこともあったろうが、そんなときでも原稿を切らすわけにはいかない。そこで作者が体調維持のために頼りにしていたのが葛根湯だったとしたらどうだろう。家康の万民泰平の夢はこの一戦にあり、作者の連載もいよいよ大詰めといったところ。もしかしたら作者は葛根湯を飲みながら家康になりきって夏の陣に想いを馳せていたのかもしれない。

蛇足ながら・・・
今回の考察をへて、富山市が構想中の「くすり関連施設」に思うこと
歴史小説に出てきた「葛根湯」、それも徳川家康が使ったという話に興味をひかれ調べてみた。いまや、ネットという便利なツールがあり、何を調べるにも「検索」一発で事が足りる。だが、そこには「ようである」「ようです」「といわれている」など、二次、三次情報が万延し、その真偽を見極めるのはとても難しい。トランプ大統領がよく使うようにまさにそれは「フェイク」かもしれず、その定かでない情報に一喜一憂させられる場合が少なくない。
家康が葛根湯を使用したか否かについては、まず、ネットを駆使して手掛かりとなる情報を集め、それを端緒として図書館の伝手を使ってより精度の高い情報にアクセスしたり、家康関連の博物館や美術館に問い合わせたり、大学の研究機関への問い合わせも試みた。しかし、実際のところそれを証明する確かな文献にまで到達することができなかった。問題は、何かを調べるには何が重要な鍵かを知り、その鍵を誰が持っているか、また何処にあるか、そしてどこを押せば鍵となるボタンに近づけるか、その点にかかっているのに、その工程をうまく構築できなかった点にあると思う。

大学の研究機関では、鍵となる文献にいきついたとしても、それが研究室貸出となっていれば、それを閲覧することは一般人には叶わない。また、研究室への問い合わせも、一般人からは原則として受け付けない、という大学もある。博物館、美術館の所蔵品はとても貴重な史料であり、ガラス越しで表紙ぐらいは見ることができるかもしれないが、中身を精査するのはとても無理。すでに大学の研究室等で分析され冊子化されているものもあるが、それを取り寄せることあたわず、コピーを有料で分けてもらうにしてもとても高価なものについてしまう。国立国会図書館ではデジタル化された文献があったが、その原本を閲覧しようにも、現地まで出向かなければならず、仮にその文献に求める史料が残されているかどうか手にとってみないとわからないとなると、わざわざ国会図書館まで出向くというのも二の足を踏んでしまう。

今般、富山市に新しく「くすり関連施設」が新設されるという。
その基本理念は「富山の薬の歴史と文化、精神を継承し、薬都の未来を市民とともに創造する」とある。もちろん売薬史料館としての機能は充実したものになると思うが、それに加えて、日本の薬文化や歴史について学術的に網羅する研究施設も併設することを希望する。先に述べたように、大学の研究機関は敷居が高く、全国に散らばる薬関係の史料を収蔵した博物館や、美術館へは今それと訪問できるものではなく、大学や他の研究機関へのアクセスも一般人ではなかなか難しい。そんなとき、この施設利用すれば探し出したい史料がみつかる、ちょっとした疑問にも答えてくれる、ここになければ、他所との連携から鍵となる案件へと導いてくれる、そういう機能とサービスがあればとても助かるというもの。「富山のくすりの殿堂」であるばかりではなく、「日本の薬文化や歴史のことも」という看板が備われば、真に薬都富山にふさわしい施設になるのではないだろうか。

主要参考文献
山崎光夫「薬で読み解く江戸の事件史」東洋経済新聞社
山崎光夫「我に秘薬あり」講談社
新村拓「日本医療史」吉川弘文館
篠田建明「徳川将軍家十五代のカルテ」新潮社
松浦静山「甲子夜話 続編2」平凡社
(財)日本古医学学資料センター「明治前日本薬物学史」臨川書店
「増廣太平惠民和劑局方」国立国会図書館デジタルオンライン
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)

御助言を頂いた方々
徳川美術館
国立国会図書館
東京大学史料編纂所
富山市立図書館
富山県立図書館
富山大学中央図書館
富山大学医薬学書図書館
富山市売薬史料館
突然の、また唐突な問い合せにもかかわらず親切に対応していただきありがとうございました。


投稿者: hangontan 投稿日時: 2018-12-20 20:55:10 (339 ヒット)

ある夏の日の公園。リハビリがてらカメラを持って散策しにいった。園内は季節の花を楽しむ人で賑わっている。そこへ記者の方がやってきて写真を撮り始めた。そのうち、来園者の方にいろいろとポーズを依頼して、人物が入った園内の様子を撮りだした。私は、よせばいいのに、記者に「それはやらせではないのか」と質問したら、記者は「これはやらせではなくて演出です。こうしなければ撮れない場合もあるんです」とのたまった。なるほど「演出」か、うまいことを言うもんだ、と感心した。確かに花の公園の賑わいを伝えるには、それを目当てに来る人々の様子が写っていた方がよいだろう。次の日、地元紙にその記事は載っていたが、人物を配した写真ではなく、公園の花を主体とした写真のみ。なぜ、せっかく依頼してまで撮った写真を載せなかったのだろうか。依頼された方は、もしかしたら載るかもしれない(載るかどうかはわからない、と言われながらも)と聞かされていたから、朝刊を開いてみてさぞがっかりしたことだろう。それなら、最初から演出などしなければいいのに。私の一言が記事に影響を与えたとは思えないのだが。
もしかしたら、その記者はそういうふうにしてこれまでの記事を書いていたのかもしれない。もしかしたら、いじった写真を載せていたのかもしれない。うそではないが演出された記事もあったのかもしれない。この件の背景にあるものはけっして小さなものではないと思う。


投稿者: hangontan 投稿日時: 2018-1-6 13:27:09 (428 ヒット)





正月二日間も、年末同様だらだらと過ごす。
気晴らしに海岸線を歩いてみようと思って家を出た。

常願寺川河口はけっこうな波が立っている。サーファーにとってはもってこいの波だと思うのだが、誰も波乗りを楽しんでいるものはいない。この辺が都会と田舎の違いなんだろうとつくづくおもう。正月休みの波の立つ海岸、湘南のサーファー達ならほうっては置かないだろう。

海岸線を歩いて、波消しブロックに砕け散る波や、砂浜に押し寄せる白波や引き波をターゲットにシャッターを切る。冷たい潮風に当たりながらの散歩であったが、それがよかったのかもしれない。心の中のモヤモヤが少し引いていった気分。

カメラを収めてから、さて帰ろうと、何気に水平線を見ていると、湾曲した富山湾の東端の地形が水平線から浮いているが目が止まった。まさしく冬の蜃気楼。夏に陽炎のような蜃気楼かどうか疑わしい光景は目にしたことはあるが、このような顕著な蜃気楼を見たのは初めてだ。今この瞬間にその場に居合わせたことの奇遇を感じるとともに、今年の運を早使いはたしてしまったかもしれない、なんか複雑な気分にもなった。


投稿者: hangontan 投稿日時: 2016-11-24 16:13:16 (381 ヒット)

面白い本がないかと図書館で借りてきた二冊が両方とも近年の既読だった。パラパラとめくって選んだはずなのに・・・。

せっかくだからと思って、読むことにしたのがこの一冊。前回読んだときには、ちょっと戸惑う場面もあったけれど、今回はすんなり読めた。ゼノンのパラドックスから始まり、収束する無限級数と拡散する無限級数、ユークリッド幾何学と非ユークリッド幾何学、そして第五の公準など。どうしてそれらが宗教論と結びつくのか。好奇心を揺り動かしてくれた良本だった。もう一冊については、また別の話

「数学小説 確固たる曖昧さ」


投稿者: hangontan 投稿日時: 2016-5-24 13:49:24 (477 ヒット)



今年はありとあらゆる山菜を昆布〆にしてみた。
結果は想像以上。昆布の旨みがのって、酒の肴、ご飯のおともにもずいぶん重宝した。
昆布の裏表を使って、3〜4回ずつ利用したものが2セット、捨てずに冷蔵庫にとってあった。それを適当な大きさに切って、酢、醤油、砂糖、酒で炊く。ガスの弱火で1時間強、ひと煮立ちしたところで、実山椒を混ぜ込む。実山椒は数年前に佃煮にしてあって、小瓶に入れて冷蔵保存してあった。たまにはおにぎりに入れたりして食べていたが、今回の薬味に最適と考え、使うことにした。
水分が抜けきるまで根気強く煮込んで、焦げる寸前で火を止め、冷ます。
極上の昆布の佃煮に仕上がった。山椒が効いて、ご飯にはもってこいだ。

山菜と昆布、海の幸と山の幸の組み合わせは最高のマッチングだし、使用済みの昆布も味噌汁に入れたり、煮しめに使ったりと使い手に困らない。
昆布を余すところなく使って、おいしいものを食べて、有意義な春となった。


投稿者: hangontan 投稿日時: 2016-4-6 6:28:16 (516 ヒット)



富山県人はあらゆる食材を昆布〆にしてしまう。それくらい昆布が好きだ。
昆布を使った料理はいろいろあるが、魚との組み合わせでいうと「サスの昆布〆」が一番であろう。通年食べられる「サスの昆布〆」は庶民の味だ。
その昆布〆を応用して、昨年の春、山菜を昆布でしめてみた。ワラビ、ウド、ススタケ、いずれも昆布の旨みが山菜に浸み渡って、極上の酒の肴、ご飯のおかずになった。そこで今年は上州カキナの昆布〆に挑戦してみた。
すると、どうだろう。大成功、昆布の味がうまくカキナにのって絶妙な味になった。カキナのえぐみが昆布のとろみと旨みとうまく調和しているではないか。また一つ酒の肴の選択肢が広がった。


投稿者: hangontan 投稿日時: 2016-4-4 5:34:09 (555 ヒット)



群馬から持ち帰ったカキナと朝獲れのホタルイカを合わせてみた。
どちらも春のお彼岸ごろが旬で、これを食べると春になったと実感する。どちらも単品で食べてもすごく旨いが、こうやって合わせてみると、その旨みが格段にアップしているのが分かる。
カキナの「えぐみ」がホタルイカのはらわたの「甘み」とうまく絡み合って、また別の味わいを醸し出している。また、カキナの歯ごたえとホタルイカの柔らかな弾力性が口の中で合わさって、食感もまた格別。
それぞれが時期を同じくして出てくる海のものと山のものとの組み合わせの妙にも感慨深いものがある。


投稿者: hangontan 投稿日時: 2015-9-8 18:43:56 (580 ヒット)













「薩摩組幕末秘録」のテレビドラマ化を目指して。今日は物語とは切っても切れない縁にある北前船に関する情報を求めて、富山市岩瀬にある国指定重要文化財北前船回船問屋森家を訪問してきた。

一度訪問したことがあったが、今回のように目的があったわけでなく、ただ漠然と見物してきただけなので、あまり覚えがない。今日は北前船について、根掘り葉掘り聞いてきた。目的があると、見るもの聴くものすべてが体の中に取り込まれていく感じがする。まだまだ聴き足りない点があったが、それはまた別の機会にしよう。

それにしても、森家は回船問屋の隆盛ぶりをうかがわせる凄い建物だった。構造材、建築材から畳、床、硝子戸に至るすべてのものに超一級の材が使用されており、贅を凝らした作りとなっている。北前船の文化を今に伝える国の宝、県の宝と言える。こういうものは本当に後世に残して置きたいという気持ちになる。ちなみに家紋は「つるかたばみ」であった。

富山に来たら一見の価値あり、というか必見であろう。


投稿者: hangontan 投稿日時: 2015-8-22 5:56:06 (920 ヒット)

小説「薩摩組幕末秘録」鳴海章 著 集英社刊
テレビドラマ化のお願い

題記小説を読んで大変な感銘を受けたので、ぜひテレビドラマ化して欲しいと思い、この提案書に至りました。

1.小説の中心をなす点
   ̄枌翡簗瑤主人公で全編に渡り登場すること
  越中売薬の描写が優れていること
  2嘆貳諭富山藩を起点とすること
  ぜ膺邑が北前船を利用して蝦夷から薩摩へと昆布を運ぶ旅をすること
  ニ盟袷イ旅匈い陵融劼臨場感豊かに描かれていること
  λ詼の薩摩藩の財政改革とお家騒動が絡ませて描かれていること
  ЛΔ諒語に越中売薬が一枚かんでいるということ
  ┣燭茲蠅眈説として完成度が高く、多くの人々に感銘を与えることのできる作品であり、300年以上も続く伝統ある越中富山の売薬業、その神髄を垣間見ることができる作品でもある

2.期待される効果
  ”抻蓋のよい宣伝材料となること
  越中売薬と北前船への関心が高まること
  ´△ら富山への関心が高まることにより、北陸新幹線開業後富山への立ち寄り増が見込めること
  た蠡爐垢覯板輒配置業のV字回復のための起爆剤となり得ること
  チ換颪離疋薀奪哀好肇△肪屬れている富山県産医薬品、健康食品等の販売促進に役立つこと
  グ緻品以外にも富山県産品に注目が集まり販売促進が期待できること


3.小説のあらまし
  題名にある「薩摩組」とは、江戸時代、越中富山から出向く売薬商は旅先ごとに「仲間組」を結成していった、その中で薩摩の国で商売をするものの仲間組をいう。その売薬が主人公となった幕末時代小説。冒頭、いきなり「水橋浦」が登場する。当時、財政難の窮地にあった薩摩藩は掛け売りを禁ずる藩令を出した。当然、先用後利がうたい文句の売薬商の出入りも禁じられることになる。薩摩組はその打開策として、蝦夷の昆布を薩摩藩に運ぶことを考えた。その交渉役に主人公の売薬さんが登場する。一方、加賀藩は「抜け荷」の裏にある謀略の匂いを察知し、富山藩がそれに関わったとなれば宗主藩である加賀藩にまで類が及ぶことを恐れ、売薬の動きを止めようと加賀藩剣術指南役を派遣する。物語は主にこの二人の主人公を追って推移する。
荒波にもまれる北前船の航海の場面は真に迫り、蝦夷ではアイヌ人を巻き込んで昆布を巡る騒動に引き込まれ、長崎では謀略が見え隠れし、物語は薩摩で終焉を迎える。もちろん、チャンバラ場面も息をのむ面白さ。二人の主人公を取り巻く人間模様も秀逸で、ストーリー展開とうまく絡み合っている。


投稿者: hangontan 投稿日時: 2014-10-1 6:52:16 (516 ヒット)



このシュメイギク、ちょっと目八重咲きのように見えるが、実はそうではない。
花芽が6個合体してボンボンのようになっている。他はみんな可憐な一重咲きなので、これだけ一際目立って咲いている。


投稿者: hangontan 投稿日時: 2014-8-18 18:24:39 (137303 ヒット)



いつもなら秋に咲くこのクジャクサボテン。お盆前から花芽には気づいていたが、お盆の間不順な天候続きで気温が上がらず、涼しくなって秋が来たのかと感違いしたのか、花芽が充実しないまま開花してしまった。雨続きで家中がカビ臭いが、この花の周りだけは別世界。あの激しい雨に打たれてもけなげに咲いてくれたんだなぁと思うと、しぼんでしまってからもよけいに愛しさがつのる。


投稿者: hangontan 投稿日時: 2014-7-19 18:39:26 (742 ヒット)

かみさんとの旅行というか宿泊りは新婚旅行以来覚えがない。

かみさんにはこれまで辛い思いばかりをさせてきた、その罪滅ぼしに一泊の宿を求めて出かけることにした。

目指すは友達のブログに紹介されていた白山市の「ふらり」というお宿。旅行の宿泊先としてそこに行くのではなく、ただ泊るのが目的で出かけたのだった。

小民家風の小さな宿を切り盛りするのは小学五年生を筆頭に三人のお子さんを持つご夫婦。夜7時から夕食となったが、最後のデザートを終えたのが10時を過ぎていた。次々に出される料理は素材を活かして、ひと手間、二手間もかけたものばかり。一品一品口にするたびに驚きの連続。うまい、うまい。当然酒もうまい。かみさんの喜ぶ様子がまた料理を美味くする。

一日に三組しかとらないこのお宿。訪れるお客さんとは真剣勝負だ。けれど、料理にはその気負いが全く感じられない。其処にあるのはごく自然体の心づくし。泊らせてもらうこちら側もその心に共鳴し料理を感じ取る。

自分もかみさんも心いっぱいになった「ふらり」の宿だった。






投稿者: hangontan 投稿日時: 2014-6-26 6:05:12 (671 ヒット)

セッコクを育てて7、8年になるか。
今年もいくつか咲いてくれた。ものによって咲きだす時期が異なるので、4月から6月、7月まで楽しめる。

最後になって咲いてきた「黄緑晃」が圧巻。軸丈が30センチにも満たないのに80以上の花を付けてくれた。その咲きっぷりはお見事としか言いようがない。


















投稿者: hangontan 投稿日時: 2014-6-13 18:16:32 (489 ヒット)

六月に入るなり咲き始めたバラ。
一日ごとに変わりいく表情に驚かされた。








投稿者: hangontan 投稿日時: 2014-6-12 18:47:02 (538 ヒット)

今年も魚津の「花の森・天神山ガーデン」を訪れた。
このときはまだ梅雨入り前で好天続きのよい日だった。

昨年訪れたときにボランティアの方が世話をしておられたクリンソウが大きく育って、見事な咲きっぷり。

エゴノキは花数も少なく、去年ほどの豪華さはなかった。裏年だったのかもしれない。

来年もまた楽しみに出かけよう。










投稿者: hangontan 投稿日時: 2014-5-21 18:39:11 (569 ヒット)





先日明星山へ岩登りに行ったおり、帰りの道すがら山の幸を少しだけ頂いてきた。イラクサはさっと茹でてマヨネーズと醤油和え。ミツバは冷奴の薬味と味噌汁の香りづけに。そして最後に残ったのがサンショの葉っぱ。

サンショの葉の賞味期間は短く、薄黄緑色した柔らかい葉だけを使う。緑が濃くなった葉は硬くて佃煮には向かない。今回明星で摘んできたのは、新芽と青葉の中間くらいのもので、佃煮の材料とするには十分なものであった。6月に入ると今度は実が佃煮として使えるが、その実も中が熟してしまう前の柔らかいものを使用する。

本来なら、茎から葉っぱを切り離して、葉っぱだけを炊く。しかし、サンショの小さな葉っぱを茎から一枚一枚とっていくのは並大抵のことではない。ちょっと太めの茎の部分だけをつまんでとって、細い茎についた葉っぱごと煮ることにした。

焦げるといけないので、水をほんの少し鍋に入れて、サンショの葉っぱをどさっと入れ、醤油を適当にぶっかけて煮る。火加減は限界に近い弱火。そのうちサンショの嵩が減っていき、鍋の底でぐつぐつと煮立ってくる。そして水分が飛んで、焦げ付かない寸前で火を止めて出来上がり。焦げてしまうとこれまでの苦労が水の泡となるので、それだけを気を付ければよい。

小ビンに入れて冷蔵庫に入れておけばいつまでも保存がきく。サンショの香りと醤油のうまみとが混ざり合った佃煮は何にでも合う。これだけもご飯何杯でも食べられるくらい。ワサビのあとの香り系山菜を口にして大満足。


投稿者: hangontan 投稿日時: 2014-5-15 19:27:10 (470 ヒット)



過去、何回もサンショの苗を買ってきたり、人から譲ってもらったりして、うちの庭に植えてみたが、すべて失敗に終わっている。春から夏にかけて、アゲハの幼虫がたかって、葉っぱを食い荒らし、丸坊主になってしまった。ちょっとだけ葉っぱが残っても、次の年の春には枯れてしまっていた。アゲハの幼虫は成長してアゲハとなってうちの庭にやってきてくれたこともあったが、サンショの木がなくなってからは、アゲハの飛来も少なくなった。

ところが、先日庭の草むしりをしていたら、小さなサンショの芽が出ているのに気がついた。鳥の餌台のすぐ近くからその芽が出ていたので、たぶん鳥が運んで来てくれたのだろうと思うのだが、あんなピリリとした辛い実を鳥はついばむのだろうかとも思ってしまう。まだ背丈が5センチほどの小さな芽吹き。そこが気に入ってくれたのなら、そのまま大きく育ってほしい。もしかしたら、今度はアゲハたちも遠慮してくれるかな、と淡い期待を抱いてみたりする。


投稿者: hangontan 投稿日時: 2014-5-6 18:47:37 (497 ヒット)





去年の春にやってきた“リキュウバイ”。
うまく根付いてくれて、今年の寒い冬もなんとか乗り切ったようだ。春になって葉っぱもぼちぼち出始めていたが、ふと目をやると花芽も付いていた。そして恋い焦がれた真っ白な花。咲いてくれて本当にありがとう。

このまま順調に育って、毎年その可憐な姿を見せておくれ。


投稿者: hangontan 投稿日時: 2014-5-1 20:59:15 (549 ヒット)



このヤマシャク、日本一美しい村「小川村」の道の駅で買い求めた。

一昨年の春、うちにやってきたときは小さな花芽が付いていて、開花が楽しみだった。ところが、花芽はみるみるうちにしぼんでいき、しまいには枯れてしまった。茎や葉自体もヨワヨワになって、夏を過ぎるころには消えて無くなってしまった。

一年たって、昨年の春に捨てようかとショベルでほじくったら、根っこが生きているみたいだったので放置しておくことにした。

今年の春になって、新芽が出てきて、花芽も付いて、そしてついについに可憐な花を咲かせてくれた。

よく咲いてくれた、ありがとう。



投稿者: hangontan 投稿日時: 2014-4-20 21:36:42 (461 ヒット)



二年前の春には咲いていたニホンサクラソウ。その年の夏に絶えてしまった。家を留守にしている間に、水切れとなってしまったようだ。

今年の春、再び我が屋にやって来て、今、咲いてくれている。

今回は大事にするので、来年も、再来年もまた、その姿を見せておくれ。


投稿者: hangontan 投稿日時: 2014-4-16 6:37:13 (485 ヒット)



今から二十年以上も前になる、とあるところで見かけた、小さな器に生けられたツバキ。

殺風景な店先の棚の上に置いてあるツバキに目が吸い寄せられた。たった一輪のツバキの花で店の様子ががらりと変わる。なんとまぁ、粋な・・・。以来、この時期になるとそのツバキを見るのが楽しみで店を訪れていた。だが、ここ数年ツバキを見かけなくなった。花を構う人がいなくなったのかもしれない。

数年前、自分でもやってみようと思って、ツバキを鉢植えで育ててみたのだが、一冬で終わってしまって、叶わなかった。二年前に再度購入し、今度は地植えでトライ。昨年は咲かなかったけれど、今年はいくつか蕾を持ってくれた。

この花に見合う器はないかと探してみたが、なかなか適当なものがみつからない。あの店でみかけた品の良い磁器でもあれば最高なのだが。いくつか試してみたが、一番しっくりときたのが、このパン皿。

今、我が家の玄関先に置いてある。






投稿者: hangontan 投稿日時: 2014-4-3 18:12:39 (572 ヒット)



一昨年までは我が屋の庭にもあったニホンサクラソウ。去年の春先には少し芽が出ていたのだが、育たずにいつのまにか消えてしまっていた。夏の暑さに水不足になり、枯れてしまったようだ。サクラソウは管理が意外と難しい。出商売の私にはちと難しい部類に入る。

ところが、先日旅先から帰って来てみると、アネモネの鉢の中から、アネモネに挟まれてサクラソウの花芽が一本立っていた。土を混ぜこぜにして使っているので、そこに運よく紛れこでいたのだろう。

かろうじて生き残ってくれた一株。今度は枯らさないようにしてやろうと思う。


投稿者: hangontan 投稿日時: 2014-2-23 16:20:25 (551 ヒット)



このフクジュソウ、数年前に群馬県の東吾妻町坂上というところからやってきた。
その東吾妻町、歴史的な大雪にみまわれ、今は完全に雪に閉ざされている。
この輝きでその雪が少しでも融けてくれたら、と思うことしきり。


投稿者: hangontan 投稿日時: 2013-12-31 17:58:44 (542 ヒット)



ふり返ってみるに、よいこともそうでないことも、いろいろあったけれど、あっという間の一年だった。よいことだけを挙げるなら

1.宿願であった山ノ神尾根を踏破したこと
2.かみさんと山を歩いたこと
3.白山に今年も行けたこと
4.岩登りを復活できたこと
5.ナメコの当たり年だったこと

さて、来年はどんな年になるのか。
それも自分次第、今年以上によき一年となりますように。


投稿者: hangontan 投稿日時: 2013-11-27 17:34:13 (504 ヒット)

本格的な冬が来る前の一瞬、木々たちは最後の輝きを見せる。














投稿者: hangontan 投稿日時: 2013-11-25 8:20:40 (611 ヒット)

夜明け前、やや西の高い空に月が残っていたのでカメラを向けてみた。
これまで月の撮影はうまくいったためしがない。カメラのオート任せでは無理のない事かも知れないが、撮ってみると月が光ってしまって、月の表情が出ていない。光源である月と、夜の闇の暗さとの明るさの差をオート設定のカメラはうまく処理できないみたい。
今回は明け方近で、月の光が弱かったため、オートでもなんとか撮れたようだ。


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