本棚 : 「自由生活」哈金(ハ・ジン)著 ★★★ NHK出版
投稿者: hangontan 投稿日時: 2011-5-8 21:01:07 (420 ヒット)

この本はいわゆる良書である。質のよいテレビドラマを見ているようだ。出版元は・・・なるほどNHK出版か。

天安門事件を前後に中国を飛び出し、アメリカでの成功を夢見る家族の物語。冒頭から天安門事件についての記述があり、なにやら波乱万丈の筋立てを思わせる。しかし、そこは抑えて、というか物語の底流としてあるにはあるが、ことさら事件が主体となっているわけではない。どちらかというと地味なストーリー展開といえる。淡々と描かれる家族の物語から実に多くのことを考えさせられた。

まず、天安門事件が起こったのが1989年6月4日。当時私は齢30を超え、所帯を持ち、いっぱしの大人になっていたはずなのに、この事件についてはほとんど何も知らなかった、何も思わなかった。マスメディアを通して盛んに報道されていた記憶はあるが、「また中国で騒動が起こっている」というくらいにしか感じていなかった。「捉えどころがない国、中国」では「何が起こっても不思議ではない」そのくらいにしか思っていなかった。今にして思えばなんと子供子供していたのだろう。自分のことだけしか考えていなかった。

中国は意外に自由な国だ。「捉えどころがない国、中国」では何もかもが抑制された生活なのでは、という思いが強かった。しかし、この物語を読む限りそうではない部分も多くあるようだ。アメリカや他の自由主義国にも自由に渡航できる。それが驚きの一つ。現在、当地のような片田舎の富山県にも中国から多くの観光客が訪れていることを踏まえれば、格別驚くべきことには当たらないかもしれない。天安門事件で抑えられていた市民が、割と容易に海外に飛び出せることに、肩すかしをくらったような気分。

中国から出奔した主人公のアメリカでの知人はみな高学歴な人ばかり。主人公自体中国の大学で学位を取得しているエリートなのだが、アメリカの大学でさらなる学歴を積もうとしている。登場人物は画家、詩人、小説家などが出てくるが、皆そんな人ばかり。今の中国を動かしているのは、欧米帰りの学位取得者達、といつかNHKの番組でやっていたが、それは一つの見方として正しいようだ。本書では、主人公は本当の自由を得るためにアメリカへ渡るが、それは母国中国との決別を意味する。アメリカで学位を取って中国に錦を飾る思いは微塵のかけらもない。

アメリカでは中国の学歴など通用しない。自由を求めてアメリカに渡ってきた移民にとっては、アメリカでの「仕事」のみが評価される。自由を手に入れることと生活していくことは同じこと。主人公は詩人になりたくて、それを夢見てアメリカで暮らす。しかし、自らだけではなく、妻と子供を養っていかなければならない。生活とはまず食べること。そのためには、中国の学歴、学位などなんの役にもたちゃしない。自らの手で食い扶持を確保しなければならない。これは全てのアメリカ国民にいえること。すなわち、自由生活の対価として、自分を確立しなければならない。主人公はレストランの見習いから始め、やがて自分の店を持つようになり、結果、それなりの収入を得、住む場所も手に入れ、成功者の一人となった。その間、食べていくための労働に全力を注ぎながらも、詩作への情熱は消えなかった。しかし、自分の思い描いていた「詩人」とはどこかが何かが違うことに、主人公は自問する。それは母国中国語で詩を書くか、英語で詩を書くか、そういうことにも繋がってくる。ネイティヴでない主人公が英語で書いた詩をどれだけの人が理解してくれるか、主人公自身どれだけ英語に堪能であっても、限りなくネイティヴに近付くことはできても、所詮中国人の英語にすぎないのではないか。

この作品は作者の自伝小説ともいわれている。作者自身、作品の主人公と似たような体験をし、現在アメリカで活躍している。ばかりではなく、アメリカで最高の小説家の一人と目されている。移民としてアメリカに渡った中国人が英語で出す小説に多大な評価が置かれ、全米図書賞など栄誉ある賞をいくつも叙されている。その中国人が英語で書いた小説を日本語に訳した作品を読む、というのもまたおつなものではないだろうか。

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