投稿者: hangontan 投稿日時: 2011-2-4 7:03:03 (526 ヒット)



大雪の知らせをきいて、群馬から一時帰宅した。我が宿のある上州富岡は、青空続き。一か月以上も雨が降っていない。冬枯れの地面と乾いた空気、そこは茶色の世界だ。一方、富山は連日の雪、雪、そして雪、曇天と辺り一面白一色の世界。表日本と裏日本、陽と陰。洗濯物が半日で乾き布団も毎日干せる、方や、部屋のファンヒーターを全開にしても三日は乾かない。たった4、5時間しか離れていないのに、両極端の生活環境。富岡の人には富山の冬の大変さは絵空事にしか思えまい。富岡の冬は天国だ。上州とはよく言ったものだ。

ロウバイは真冬に咲く。春一番に咲いてくれるこの花は、花の無い時期にはとても貴重な存在だ。全てが茶色の世界の冬の上州にあっては、黄色のロウバイはあまり目立たないが、この花は切り花にしてこそ真価が発揮される。つーん、としたなんとも言えない、メントールにも似たほの甘い香り。玄関先にでも生けてあれば、戸を開けた瞬間にロウバイの匂いとわかる。なにか浄化作用でもあるかのような高貴な香りだ。そして目に映るのが、やや透明の薄黄色の花。まるで「ロウ」細工のような花。派手さはないが、品の良さを感じさせる。

この花を、正月に楽しもうと、昨年の春に松井田町で苗を購入して、我が家の庭に植えた。一夏で大きくなり、12月には少しだが花芽も着き出した。年の暮れに、小枝を取って、花瓶に挿して、正月を迎えた。しかし、花芽は一向に大きくならず、気温が低いのでダメなのかなと諦め半分で、放置したまま旅に出た。そして、今回、帰ってきて、縁側に開花したロウバイがあった。やっぱり生きていたのだ。花数こそ少ないが、つんとした上品な香りを漂わせている。よかった〜、大満足。これを机の上に置いて愛でながら、今この記事を打っている。本当にロウで作ったみたいな花だ。


投稿者: hangontan 投稿日時: 2011-1-16 6:29:51 (455 ヒット)

はっきり言って捉えどころのない作品だ。けど、誰かに「読んでみな」と薦めたくなる本でもある。文芸書としてはエロ小説っぽく、単なるエロ小説にしては挑戦的すぎる内容。村上春樹によれば「反現代であることの現代性」とのこと。訳者あとがきにも触れられているが、この作品をみるかぎり、ジョン アーヴィングは小説に新しい可能性を模索した芸術小説家であろう。

劇中劇というのはよくある設定だが、この作品には小説中小説が出てくる。しかも、一本ではなく数本。その組子となっている小説がまるっきりそのまま載せてあって、それがまた,本作品と同じくらい奇妙な理解しがたい内容。
そして、それらが物語の重要な構成要素となっている。その組子の小説自体それだけでも芸術的すぎる内容なのに、それらと本筋とが混ざり合ってまたまた奇妙な世界を形作っている。そのなんとも表現しがたいバランスがこの作品の特徴の一つでもある。

組子となっている小説について訊かれた掃除婦のおばさんはこう答えている。
「するときみは次がどうなるか知りたくて本を読むわけだね?」
「ほかに本を読む理由なんて、ないのとちがうっけ?」
これこそが作品中小説の著者である本作品の主人公ガープが目論むところであり、本作品の著者ジョン アーヴィングが意図したところではないだろうか。その意味ではこれを読んでいる自分はまさしくその動機付けに誘われて「ガープの世界 」にのめりこんでいっている。新しい可能性を模索した芸術的小説でありながらも、小説の不変的で単純な命題が根底に貫かれている。

エロな場面も多く男性には魅力的な作品だが、世の女性方はどう読むのだろか。


投稿者: hangontan 投稿日時: 2011-1-15 6:07:52 (526 ヒット)

富山の薬屋さん、この業界は「会合」がとても多い。特に正月は会合が目白押し。大きく分けると、各地に赴く薬屋さんのその出先ごとの集まり、薬屋さんの住所地による集まり、そしてそれらを縦横に束ねる集まり、などがある。さらにトップには、日本全国ブロックごとの集まりと全国会議がある。それだけ会合があるから、それだけの数の組織が存在する。この業界に入ってまず驚かされるのが、その組織の複雑さ。十年ぐらいは何がなんだかさっぱりわからない。最近の業者さんの中には、これを敬遠する向きも多い。しかし、これらは昔から継承されている「仲間組」の延長である。1690年に始まり、300年以上も続けられてきたのも、仲間同士の団結力があったればこそである。
今年に入って、4、5、7、8、11、12、13、14日と何らかの会合に出席してきた。皆で情報の交換と、今年一年のことについて話し合う。その会合も今日が最後の日。明日一日休んで、いよいよ、あさって旅に出る。


投稿者: hangontan 投稿日時: 2011-1-9 5:43:25 (670 ヒット)

薬業の神様「神農」は薬屋さんの間では「神農さん、薬師さん」として親しまれている。その「神農」への奉納「神農祭」が、水橋薬業振興会主催のものと、町内の日枝神社で厳かに執り行われた。冬晴れの下、冷たい空気も手伝ってか、神事の最中は身の引き締まる思いであった。










投稿者: hangontan 投稿日時: 2011-1-6 20:56:32 (525 ヒット)

「アフガンの男」を読んで、消化不良気味だったので、これならどうか、と、手に取ってみた。
1990年8月、イラクがクウエートに侵攻したことに端を発した湾岸戦争がモチーフとなっている。テレビに映し出されたハイテク兵器によるアメリカ軍による空爆は、まるで映画の1シーンのようだった。ピンポイントで目標物が破壊される様に目を見張った。今回、フォーサイス先生はその「砂漠の嵐作戦」をドキュメンタリータッチで追っていき、かつ、そこに架空の物語を挿入し、それらを絡み合わせた物語を作り上げた。本作品中の戦闘シーンが、まぶたに残る空爆の映像と重なり、臨場感が否応なしに高まる。事実は事実として利用し、それを毀損することなく小説に仕立て上げ、架空の主人公がまるで本当にそこに存在したかのように史実の中に溶け込んでいる。同じハイテク軍事ミステリーありながら、まるっきり虚構の世界で楽しませてくれるトム・クランシーとは毛色が異なる。
とかく「アフガンの男」と比較される本書だが、やはりこちらの方に軍配が上がる。というか、「アフガンの男」は本書の二番煎じと言われても仕方のない作品といえる。今回は単身イラクに潜入した兵士の描写と活躍が図抜けている。「アフガンの男」では、主人公の登場の仕方、その幼馴染が敵側にいる、など、話運びに本作品と類似点が見受けられ、「フォーサイスはどうしちまったんだ」と評されるのも無理のない話。それほど、この作品は完成度が高い作品と言える。

フォーサイスの本
「アフガンの男」
「マンハッタンの怪人」
「アヴェンジャー」
「戦士たちの挽歌」


投稿者: hangontan 投稿日時: 2011-1-3 20:26:56 (553 ヒット)

初春を知ってか知らずか、正月に合わせて開花した。これから2月いっぱい、うまくすれば3月まで楽しませてくれるだろう。地球外生命体の雰囲気たっぷり。




投稿者: hangontan 投稿日時: 2011-1-2 6:44:15 (541 ヒット)

年末に予定していた山に行かれなくなった。この日のために体力作りや、体調管理に励んできたのに、とても残念。仲間にも申し訳ない気持ちでいっぱい。だが不思議なことに、そういうときに限って、大事な仕事が舞い込んでくる。山に行ってたら、その用件はこなせなかっただろうに、自分が家にいることを見計らったかのように、それらはやって来る。
また、年末年始の山にかまかけて、年始の準備はもっぱらカミサンに任せっきりだったが、それも手伝うことになった。掃除、買い出し、年越しそば、おせちの準備と目の回る忙しさ。いつも罵倒されながらも、山に行ったものが勝ち、と開き直っていたのだが、こうやってカミサンの手もととなって働いてみると、あらためてその大変さに気付かされた。さんざん文句を言われ続けていたのも無理はない。それでも山に行かせてくれていた。そんなカミサンの気持ちがよーくわかった年の瀬。これまでのカミサンの労に感謝しつつ雑煮を食べた正月。だが、なんといっても健康が第一。カミサンには健康でいて欲しい、いつも笑っていてほしい、という思いを新たにした年の初めではある。


投稿者: hangontan 投稿日時: 2010-12-27 19:16:42 (513 ヒット)

ネット上での書評はかなり手厳しい。「フレデリック・フォーサイスは終わった」と。そこまで言うのはフォーサイス先生への期待が大きすぎることの証。一介の新人がこの作品を書いたなら、「フォーサイスの再来」と評されること間違いない。綿密な取材のもとでの虚実織り交ぜたストーリー展開が彼の真骨頂といえる。本作品でも虚実の整合性は実にうまくとれている。ただ、事実を折り曲げられないせいか、物語性を犠牲にしている感が否めない。すなわち、スケール感や意外性に乏しく、著者のもう一つの持ち味であるストーリーテリングに生彩を欠いている。しかし、アフガン紛争やタリバンそしてイスラム過激派によるテロについて学ぶ導入書としては、もってこいの本だと思う。
にしても、この本は紙質が悪い。


投稿者: hangontan 投稿日時: 2010-12-26 17:24:14 (604 ヒット)



一年ぶりとなるお泊り年末山行、縦走は一昨年の5月以来。だんだん歳いってくっし、「これが最後の縦走かな」と思いつつ出かけることにした。

12/29 快晴 8:00 新穂駐車場 15:30 2200m
入山日としては申し分のないほどのド快晴、風もない。穂高平小屋裏の斜面は急なので、牧場を山際に沿ってしばらく進み、やや傾斜が緩やかになる支尾根から取り付く。誰でも考えることは同じとみえ、そこからトレースが続いていた。3人でトップを交代しながら1943mのピークまで。明日の昼頃には寒冷前線が通過し天候悪化が予想される。今日は進めるところまで進もうと、重荷にあえぎながら足をのばす。他の二人に飲んでもらおうと、酒2リットル持ち込んだのがあだになったようだ。そうでなくとも、瀕死の状態ながに。目指す2343mのピークまでは長かった。結局2200mで行動を打ち切る。時刻は15時30分。

今晩の献立:シャウエッセン2袋、アルファ米3人分、ボンカレー3袋、キュウリのキューちゃん1袋、松茸のお吸い物3袋、ビール、缶チューハイ、酒

12/30 高曇り〜曇り〜雪
6:00 2200m 11:00 西穂山頂 14:30 2200m 15:30
今朝の献立:讃岐うどん4玉、スープの素4、蒲鉾赤巻き1本、とろろこぶ少々、乾燥ネギ少々、乾燥大根葉少々、ナメコ1パック、キュウリのキューちゃん残り、カフェオレ
「讃岐より直送」とのふれ込みで仕入れたうどんだったが、普通の玉うどんとたいして変らなかった。少し高いがカトキチの冷凍うどんにしとけばよかった。                                                                        
テントから出てみると星が出ていない。天候の崩れは早いのか。午前中が勝負と踏み、テン場を後にする。目標は11時、西穂着。トレースがしっかりついており、最初からアイゼンで行く。昨日のようにKに先頭をきってもらうとバテバテになるのが見えていたので、自分のペースで先に行かせてもらうことにした。ゆっくり、ゆっくり。このペースは結局最後まで変らなく続く。1時間ちょっと歩いて、2343m、昨日目標としていたピークに着いた。テン場適地である。テント跡が3つ、4つあった。一旦下り、第一岩峰目指す。左手の潅木帯をひと登り、いつの間にか第二岩峰も過ぎていた。ジャンクションピークを過ぎると、岩と雪のミックスした快適な稜線歩きとなる。ここも一歩、一歩、息を整えながら行く。11時丁度、山頂に立つ。「ッシャー!」お決まりの雄叫び。去年はベースから空身で鹿島槍へのアタックだったが、あのときは体内に酸素が入っていかずとても苦しかった。まさしく死に物狂いで登頂を果たしたのだが、その苦しさから比べれば、今日の体調は悪くはない。八ヶ岳で傷めた捻挫の足首を気遣いながら登ってくるTと、それをフォローするKをしばし待つ。今のところ天候の崩れは思ったほどでもなく、視界は良好。明神からのぐるりと一周した景色は何度見ても素晴らしい。3人揃って、記念撮影。あとは下るだけ。この調子だと今日中にロープウエーに乗れるのではと算段する。だが、そうはいかなかった。

下りはトレースがバッチリでなんの心配もない。独標まで半分ほど来たあたりだろうか、後ろのKが叫んだ「やったじゃー!」。振り向くとKは下を向いている。Tの姿はない。続けさま「落ちたちゃー」とK。12時20分であった。Kの所まで戻り、下を覗くと、Tは30mほど下の深雪の斜面ですでに体制を整えていた。幸い、どこにも怪我はないようだ。元気な声も返ってくる。もう10m滑っていたら、樋状のルンゼから一気に沢筋に落ちてしまっていただろう。フカフカの深雪に助けられたのと、どこも強打したり、捻ったりしなかったことも運がよかった。Tは自力で這い上がり、途中からロープで空身のTを引き上げ、最後にザックを揚げた。足首の痛みを堪えながらの下りは、相当きつかったと見える。踏跡をはずし、安易に雪の中に怪我をした方の足を下ろしたのだが、そこがただの雪のたまり場だった。トレースのすぐわきを踏み抜いて、真っ逆さまに落ちていった。

稜線に上がってきたTは気分も落ち着いているようだ。どこも異常が無さそうなので、そのまま下山を続けることにした。独標の登りに差し掛かかる。岩場で勢いよく体を持ち上げた瞬間、被り気味の岩におでこを激しくぶつけた。火花が飛び散る。そのときは痛打したところの痛みだけだったが、これが後に災いを招くことになろうとは夢にも思わなかった。独標を下ったところから、天候が崩れ始め、風も強くなる。

14:00 小屋に着いた頃はすっかり荒天となっていた。我々は運が良かった。この悪天の中、西尾根を抜けきれずにいたらと思うと、ゾッとする。強風のためロープウエーが運行しているかどうか定かでなかったが、とりあえず行ける所までと、下山することにした。このまま雪が降り積もり、明日朝トレースが消えてしまう心配もあった。雪の樹林帯の下りは楽しい。無事縦走を果たした後のごほうびみたなものだ。が、Tの足が芳しくないようだ。痛みをこらえて下るのも限界にちかい。平らなところを見つけテン場とする。15:00 2200m地点。
さて、今晩は酒を消費しなければ。目標を達せられたことに乾杯。Tの無事帰還に乾杯。

今晩の献立:アルファ米3人分、キャベツ炒めの素1パック、キャベツ3人分、チキンナゲット大2個、松茸のお吸い物3、納豆3、缶チューハイ、酒

12/31 雪 7:00 2200m 8:30 ロープウエー駅
昨夜は雪が降り続いた。夜中に、Kはテント周りの除雪を2度行った。自分は、シュラフに潜った頃から、後頭部から首筋にかけて痛みが出始めた。寝返りを打つのもしんどいのだが、どの体勢でも同じこと。体を起こしていたほうがまだましだった。結局いつものように眠れぬまま朝を迎えることになる。

今朝の献立:アルファ米2、ちょっと雑炊3、乾燥大根葉、乾燥ネギ、切れてるチーズ(ブラックペッパー入り)、カフェオレ

一晩中降り続いた雪のため、昨日のトレースは9割がた埋まっていた。うっすらと残る痕跡を頼りにロープウェー目指す。8:30 駅に着く。9時始発のロープウェーに乗り込む。強風のためカーゴが揺れる。ケーブルの中間支柱にぶつかりそう。そのつどスピードを落として通過する。あまり味わいたくないスリリングな体験をして中間駅に到着。だが、ドックに入る寸前で強風が吹きまくり、ついにストップしてしまった。ここに来て、ユラユラ揺れるブランコのアトラクションに、KとTは大はしゃぎ。自分は、目が廻り、車酔い、船酔い状態。顔面蒼白、もう吐きそう、エチケット袋に顔を突っ込んでいた。うーん、最後にこれか。と、次の瞬間、カーゴが前進。無事駅に滑り込んだ。自分もセーフ。

ケーブルを乗り継いで、無事登山口に到着。車に積もった雪をはらって、いざ温泉に。行き先はいつもの「チロリ庵」。湯かげんも丁度よく、最高の湯。冷え切った体を湯に浸すと。体の細胞の一つ一つが息を吹き返すのを感じる。感激の湯。満足感と気持ちのいい余韻にひたりながら帰路につく。下山祝いは、大沢野の8番ラーメン。餃子とラーメンで腹ごなし。ここで、ずーっと頭から離れてなかった新年会についての決断を下す。山から下りて、皆と一杯やりながら新年の始まりとすることが楽しみだったのだ。随分前より、あちこちからリクエストも頂いていたのだが、その返事を今日の大晦日まで延ばしに、延ばしてきた。小生の都合により新年会は一年延期。ごめんちゃい。来年は今年の分まで楽しくやればいいではないか。乞う、ご期待。

で、首の痛みだが、正月2日になると、痛みは極値となり、もうどうすることもできなくなった。新年会は中止してよかったのかも。4日、たまらず近くの整形外科に駆け込んだ。診断は頚椎捻挫。交通事故のように首が前後に激しくしなるのとは違って、頭をぶつけたときに頚椎がひしゃげた格好になったのでは、との説明だった。痛み止めと筋弛緩剤を2週間分もらって帰宅。結局痛みが引いてきたのは8日あたりから。天気がよければ、山に入ろうと思っていたのだが、これを書いている12日までほぼ死に体の正月となってしまった。たまにしか行けない山、そのたんびに何かしらアクシデントが起きてしまう。それがまた怖くて一歩が踏み出せない。人生は砂時計、あと残された砂はほんのわずか。Kさん、T君、また、よろしく。


投稿者: hangontan 投稿日時: 2010-12-24 5:05:34 (549 ヒット)

この花、こんな状態になってから早一か月。なかなか開花してくれない。ちょっと、あったかい場所に移してやろうか。


投稿者: hangontan 投稿日時: 2010-12-20 18:40:37 (569 ヒット)

ツイッター上のつぶやきからこの作品に辿りついた。時代は変わった、ネット社会恐るべし。手にとって初めて、著者が自分と同郷なのを知った。へ〜、そうなんだ、こんな人も富山にいるんだ。

「アラスカ物語」を手に取った少女が、その主人公フランク安田に憧れ、彼が眠っているビーバー村を訪れる、という著者自身の体験を綴った冒険物語。ビーバー村はアラスカにあるが、彼女はカナダからユーコン川を独りカヌーで下ってそこに行き着くことにこだわった。なぜ、カヌーなのか。しかも、彼女は全くカヌーの経験がないのに。フランク安田に会いに行くには、それしかなかったのだと彼女は言っている。自分とは関係のないもの、あるいは未知のものに身をゆだねて、自分を試してみたい。おそらくそういう思いもあったのではないだろうか。作品中ではさらりと描かれているが、女性独りで1500舛發猟垢さ離をカヌーで下るには、大変な苦労があったろうと想像される。それを笑い話のように書き綴っているのは、彼女の何事にも前向きな姿勢があるからだ。それと、道中に知りあった多くの人々との交流が、彼女の旅の支えとなったのではないだろうか。旅は楽しい。まず憧れがあって、試練が大きいほど、得られる喜びもひとしお。山とおんなじ、人生もまたしかり


投稿者: hangontan 投稿日時: 2010-12-17 5:54:00 (2049 ヒット)

久しぶりの山は、十年ぶりの八ヶ岳。山ガール一人含め、5人で一つのテントというのもまた久しぶり。年末山行のトレーニングと体調の確認のためという目的もある。集合場所の大沢野役場から登山口の美濃戸口車止めまで三時間とちょっと、昔から比べれば随分近くなったものだ。ここから歩いて約四時間、キャンプサイトの行者小屋に着く。我々は、テン場の喧騒を避けるため、近くの樹林帯の中にテントを設営した。一服したのち、ジョウゴ沢に向かう、翌日登攀する石尊稜への取り付きの確認も兼ねて。ジョウゴ沢の氷は完璧ではないが、ほどほどに発達しており、アイスクライミングの真似ごとをする程度ならば、十分に楽しめる。途中、通り過ぎた赤岳鉱泉のにぎわいに、少しの驚きと戸惑があった。大人数を収容できるホテル並みの設備を備えた立派な山小屋に違和感を覚えたのだ。すぐ脇には、雑誌やテレビで見たことがあるアイスクライミングのための人工氷の施設がこれもまた威容を放っている。

冬のテントの中は忙しい。まず水作り。夕食と明日朝の分を確保しなければならない。5人分となれば結構時間がかかる。ビール缶を開けると、本日のメインイベントの始まりだ。肴は事欠かない、特に今回はうら若き山ガールがいるため、和やかな雰囲気になる。ツマミにと各自ザックから出してきたのが「イカ」ばかり。これには笑ったが、すぐに無くなる。そうこうしているうちに、水作りも終盤。最後に、コッヘルに水を少し残し、シャウエッセンをボイルする。自分的には、山の初日はこれが定番となっている。ここまで来ると、ツマミで腹一いっぱいで、もう食べられないという者もでてくる。しかし、そうはいかない。明日のためにはしっかり食べておかねば。ということで、次は、アルファ米とレトルトカレー。これもまた初日の定番。しめはキュウリのキューちゃんと松茸のお吸い物。もうさすがに、腹いっぱい。酔いも手伝って眠気を誘う。七時半ごろシュラフに潜り込んだ。

二日目の朝。
三時起床。すぐに飯を作りにかかる。昨晩準備しておいたアルファ米と水を鍋に入れ、温める。雑炊とはいえ、五人分は大鍋で目いっぱい。雑炊の素は六人分、「梅かま」の赤巻きを二本刻んで入れる。一煮立ちするとたちまち出来上がり。昨晩に続き、キュウリのキューちゃんをお伴とする。こんなに食べられるかと思われるほどの量だったが、なんとかみんなの腹に収まった。次はコーヒーだ。簡易ドリップ式の紙の包みは破らずにそのまま鍋に放りこんで、コーヒーを抽出。ドリップするより手っ取り早く、味も香りもそん色はない。最後に、今日の行動中の水を作り、テルモスにお湯を入れて、朝のお勤めを終える。さて、予定通り五時に出発だ。

テントを出ると天上に星々がきらめいている。今日の天気はよさそう。朝の冷え込みもさほどきつくはない。目指すは、八ヶ岳のバリエーション入門コース「石尊稜」。前に来たときは、主稜と中山尾根だったが、すでに中年を過ぎたおじさんにはこのくらいのレベルがちょうどいい。昨日確認しておいた取り付きへ向かう沢にはすでにトレースが付いている。これを拾って、先行者を追う。空が白み始めてきたころ、取り付きに到着。

そこは右手に中山尾根、日岳稜が見渡せる窪地、石尊稜の末端尾根を廻り込んだところ。ロープを結びあって、いざ登攀開始。上部に見える大きなダケカンバを目指して雪壁を直上する。最初は緊張も手伝って、体が硬く、ムーヴがぎこちない。一本登るとリズムもよろしく、アイゼンとアックスが氷に雪に食い込み心地よい。トップを交互に代わりながら快適な尾根を行く。上空は雲ひとつないド快晴、風も弱く絶好のコンディション、周囲は岩と氷と雪の絶景が迫り来くる、八ヶ岳はこうでなくては。其処に取り付いているパーティーの声がこだまする。最後の岩稜を慎重に乗っ越すと、登攀はほぼ終了。ゆるやかな雪の斜面を一歩きして主稜線に出る。久々に望むでっかい富士山、感無量。皆が登ってきて、満面の笑顔、がっちりと握手を交わして、勝利と達成の喜びを分かち合う。


投稿者: hangontan 投稿日時: 2010-12-10 6:22:02 (682 ヒット)

富山県朝日町蛭谷の和紙のことを調べたくて図書館に行ったが、思いのほか資料が少ない。それでも、なんとか探し当てたのがこの一冊。お目当ての蛭谷の和紙につては、記述は少ないが、知りたいことのおおよそはカバーされていた。「北陸産」ということだから、もちろん、他の和紙の産地についても触れられている。その中でも、特に興味をひかれたのが、八尾と利賀の和紙。富山の薬にも使われていた膏薬用の和紙のこと。利賀の和紙の成り立ち、と、福光の商人との深い関係。など。なにしろ、「産地に行っても、文書として残されているものは皆無に近い」という。古文書などを丁寧に読み拾い、そこから和紙に関する記述を抽出し、考察を加え、一つの本にまとめ上げたのだという。それは並大抵の作業ではない。大変な苦労があったのだろうと想像される。そのようにして出来上がった本書は貴重な資料であるとともに、読みながら和紙の産地を旅して歩いているような気分に浸らせてくれた。たまには、デジタルでない旅をしてみるのもいいものだ。


投稿者: hangontan 投稿日時: 2010-12-6 18:38:46 (557 ヒット)

庭にある柚子の木のトゲに刺してある。地上から50センチくらい。はたして、今年の積雪はいかに。


投稿者: hangontan 投稿日時: 2010-12-3 20:31:12 (599 ヒット)

昨日、所用があって、東京まで行ってきた。場所は水面を挟んで浜離宮を臨む、竹芝桟橋近くのビルディング。浜離宮は初めて見るが、高層ビルを背景に緑を湛えた杜はオアシスのように思えた。富山から列車を乗り継いで東京に降り立ち、コンクリートとガラスの森を少し歩くと、東京湾の一画に出る。近代的なビル群と開け放たれた空間、少しだけ漂って来る海の匂いが、自分の中の東京のイメージを新しくした。さらに驚いたのはホテルの前庭に植えてあるブーゲンビリア。地植えで、しかもこんなにも大きく育つとは、今の時期、うちでは、冬の寒さから守るため、家に取り込んであるというのに。旅はしてみるものだ。






投稿者: hangontan 投稿日時: 2010-12-1 17:49:35 (495 ヒット)

昨日、今日と二日続いた小春日和。暖かい日差しに誘われて、縁側に取り込んで置いたハイビスカスが全開した。二冬越して今年の春に植え替えを行った。大胆に切り戻しを行ったせいか、今年の夏は本来の勢いがなかったみたい。しかし、夏の暑さが10月まで続いた今年の秋、再び花芽を付け始めた。例年だと、初冬の今頃の花芽は開花しないうちに終わっていくのだが、今年は無事花を見せてれた。これから三年目の冬を迎える。


投稿者: hangontan 投稿日時: 2010-11-28 18:12:59 (542 ヒット)

この飴は只者ではない。小粒ながら本当によくで来ている。西瓜の味がするのはもちろん、種まで似せて作ってある。日本人の遊び心が詰まった傑作だ。


投稿者: hangontan 投稿日時: 2010-11-26 19:49:13 (506 ヒット)

2003年ピューリツアー賞受賞作。「ミドルセックス」直訳すれば「中間の性」ということになるのか。文章中には「インターセックス」という言葉も出てくる。中間の性という言い回しはとても曖昧。早い話が、女性として生まれ、女性として育てられ、成長期のある時期に男性的性徴が現れ、自分が純然たる女性ではないことに気付かされた男性の物語。医学的には5α還元酵素欠損症性。性がテーマであるから、それなりの場面が出てくるが、全体を通してユーモアとペーソスの効いたタッチが漂っているため、官能的なイメージはあまり感じさせない。
テーマとしてはとても重いはずなのに、それをさらりと描きだしている。まるでエーゲ海の風が吹いているかのようだ。アメリカに渡ったギリシャ系トルコ人の三世代に渡るそれぞれの青春物語と数奇な運命も十分に読みごたえがある。それだけで一つの作品にしてもほどほどの賞は獲れるであろう。この二つテーマの絡み具合が絶妙で、うどんとだし、あるいは、おでんとそのだし汁のような関係。それぞれが一級品でありながら互いを引き立てる役目を担っている。これが両性具有者の苦難と悲哀を謳っただけの物語であったなら、これほど芳醇で面白みのある作品に仕上がらなかったはず。さすがピューリツアー賞受賞を獲っただけのことはある。


投稿者: hangontan 投稿日時: 2010-11-25 18:13:19 (617 ヒット)

雪の重みから、庭の木の枝を守っていやるのが雪吊り。縄で枝を吊るすのだが「雪吊り」という。雪が積もると、その雪を吊っているように見えるからだろうか。毎年この時期になると、晴れ間をぬってやっている。親父の手伝いから始めて、かれこれ40年近くなる。今では一人でやらなければならなくなった。猫の額ほどの庭なのだが、父の残してくれたものだから、と思って続けている。




投稿者: hangontan 投稿日時: 2010-11-24 18:12:32 (647 ヒット)

思い立って大辻山へ行ってきた。先日降ったと思われる雪は跡かたもない。ぬれ落ち葉が登山道を埋め尽くしている。一汗かいたころ、小雨交じりの中山頂に立つ。往復2時間40分、獲物なし。


投稿者: hangontan 投稿日時: 2010-11-20 18:42:31 (536 ヒット)

富山県中央植物園で、この時期恒例の「秋のラン展」をやっていたので見に行って来た。春に東京ドームで開かれる世界ラン展とは比べようもないが、こじんまりとした雰囲気で、丹精込めて作り上げた様々なランの展示がしてあった。中でも魅かれるのがカンラン。派手さはないが、清楚として凛と咲く様は芯からの力強さも感じさせる。自分も育ててみたいのだが、会場で即売されているものはとてもお高く、手に届かなかった。






投稿者: hangontan 投稿日時: 2010-11-19 20:41:05 (509 ヒット)

「ブラッド・メリディアン」直訳すると「血の子午線」あるいは「血の絶頂」となるのだろうか。それほどこの作品は血にまみれている。血と暴力と虐殺が全編通して描かれている。テーマは重たいのだが、その描写はあくまでも淡々としている。あっと、思う間もなく拳銃が抜かれ顔がふっ飛び、ナイフで体をえぐられ死人の顔の皮がはがされていく。残酷なシーンなのだが、それを残酷と受け止める気が麻痺しているかのような乾いた空気が全編を包む。
「すべての美しい馬」「ザ・ロード」と、全くの予断なくして、マッカーシーの作品を手に取ったが、いずれも読みごたえのあるものだった。三作品ともに共通するテーマは「旅」と「自由」。どの作品も彼独特の文章使いで描かれている(超絶技巧的な筆致)。すなわち、「」、読点がない文体。それゆえ、一文一文がとても長い。特に本作品ではそれが著しく、全く読点がないまま四行五行という文章もざら。一見、まどろっこしく感じられ、斜め読みしたくなるのだが、よく読むとその長い一文はとても意味が深いものばかり。一つ一つが詩を成していて、その連続体で作品が仕上がっている。また、マッカーシーの作品は知的好奇心を刺激するものではない。目新しいものがあるわけでもない。書かれたものをそのまま素直に丁寧に拾っていって、そこに広がる宇宙を堪能する。それでいて、どの作品も映像が目に浮かんできて、映画化への期待を抱かせる。独特な世界である。


投稿者: hangontan 投稿日時: 2010-11-17 18:24:00 (622 ヒット)

クジャクサボテンが開花した。それも初冬のこの時期に。挿し穂から丸々二年。葉っぱが茂ってこないので来年かなと思っていたのだが。咲いたのは月下美人と同じく、夜中。家中に漂う甘ったるい芳醇な香りは月下美人に引けをとらない。花は小ぶりだが、そのぶんすっきりしている。咲いてから二日たったが、まだ持ちこたえている。しかし、それにしても、本当にこれはクジャクサボテンなのだろうか。同じ時期に挿し穂した十鉢ほどのものとは葉っぱの形状が異なる。こちらはトゲもないし、もしかしたら月下美人ではないのか。どちらなのか確信が持てない。ネットで調べてみても今一つ確証足るものが得られずピンとこない。さて、どっち?やっぱり、クジャクサボテンだろうな。







月下美人



投稿者: hangontan 投稿日時: 2010-11-14 17:32:00 (523 ヒット)

赤いキクを足してみた。ずいぶん華やかになった。




投稿者: hangontan 投稿日時: 2010-11-12 18:09:05 (449 ヒット)

奇妙な小説だ。父と子がカートを押しながら旅をしている。野宿をしながら、焚火にあたりながら、寄り添って毛布にくるまり寒さをしのぎ、防水シートの下で眠る。食べ物もろくにとらずに、というか食べるものが手に入らない、ひたすら歩き続ける。毎日、毎日。ただそれだけの話。最初は、居場所を追われた親子の逃避行かと思ったが、読み進むにつれてそうではないことがわかってくる。

おそらく核戦争によりなにもかも破壊された世界であろう。行けども行けども、廃墟と化した街と灰に覆われた大地。食べ物や水を見つけられなければそれはすなわち死を意味する。生き残ったもの同士の悲惨な戦いもある。父と少年は生き延びるために過酷な闇の世界を彷徨い続ける。「火を運んでいる」と物語では言い表されている。父は少年に語りかける。「寒くはないか」「食べてごらん」「そこで待っていろ」少年はそれに答える。そんな会話が幾度となく交わされる。父は少年にしてやれることの全てを試みる。時間経過が一直線で伏線というものは全くない。ミステリーと違って、誰が犯人かとか、どんなトリックがあるのだろうか、などと考えなくてもいい。ただそこに書かれている情景を見さえすれば話が進んでいく。はたしてこの物語は行き着く先があるのか、ハッピーエンドがあるのか。ただそれだけが気がかり。天使のように純真な少年はスティーヴン・キングのファンタジーを思い起こさせ、父が子を守りながら連れ立っていくさまは「子連れ狼」を連想させる。

いつの間にか、少年を我が子に重ね合わせて読んでいる。「お父さん、お父さん」と呼びかけてくれた幼い頃を思い起こす。常にかたわらに寄り添う幼子と二人っきりで旅をしたならどんなにか楽しいだろう。似たような体験があるとすれば、息子とテントを担いで歩きまわった山登り。あのときはここに出てくる父親のように振舞っていた自分があったような。同じような会話をしていたような。息子は素直にこの私に従ってくれた。私も息子の話を聞いてやった。

読み終えてから知ったのだが、マッカーシーはこの著書でピューリツアー賞の栄に輝いた。心の琴線に響く作品であることは間違いない。


投稿者: hangontan 投稿日時: 2010-11-8 17:51:46 (540 ヒット)

来春のスギ花粉の飛散量は今年の5〜7倍との予想が出されている。スギ花粉症の人たちにとっては恐怖以外のなにものでもない。小生もその一人。今年はもしかしたらならないかも、との期待を裏切り、その日は突然にやってくる。そして、ゴールデンウィークまで続く悲惨な戦いと辛い日々。本当イヤになる。あーあ、昔は今頃になると、スギ玉鉄砲作って遊んでいたのになー。

「花粉症の始まり」

「花粉症の秘伝!?」

「花粉症の辛いところ」


投稿者: hangontan 投稿日時: 2010-11-7 18:32:06 (662 ヒット)

自家製のニンニクが手に入った。一粒が直径4〜5センチ、全体でソフトボール以上もある大玉。こんなの初めて見た。スーパーに売ってるのとは桁外れ。一粒丸ごとアルミ箔に包んでオーブンレンジで蒸し焼き。待つこと15分。薄皮をはいで食べごろの大きさに刻み(写真に写っているのは一粒分)、カツオブシ(本物、こちらもカンナで削りだしたみたいな歯ごたえ。いつもの削り節とは全然違う)を上にのせて、醤油をたらす。ほくほくの食感と甘み、かすかに残るニンニクの香りと芳ばしいカツオの風味。もう贅沢の極みです。そのニンニクを植えてみたのが、芽を出してきた。何年かかればあんな大玉に育つのやら。気長に待ってみよう。




投稿者: hangontan 投稿日時: 2010-11-6 6:42:09 (471 ヒット)

まず、題名になんとなく違和感を覚える。単に「美しい馬」ならわかる馬でなくバラ人々車そのほか何でも当てはめてみてもしっくりこない「すべての馬」がどうしたというのだそんな気分で本書を手に取った。
舞台はアメリカ南西部とその国境を挟んだメキシコ出だしはやや戸惑い気味会話と他の文章との途切れがなく淡々と語られていく主人公ジョン・グレイディの置かれている位置がよく理解できないまま物語が進んでいく。かまわず読み進む。まだ十代のグレイディとその連れのロリンズが街を出て馬を駆って旅に出るシーンから物語は一つの山場へと向かっていく。そこでもう一度最初から読み返すと実にしっくりとくる独特の文章運びに慣れてきて物語の脈絡が見えてくるこの山が大きなうねりとなって物語を引っ張っていく。終盤に差し掛かるころはたと気付かされるなんのことはない小説の基本「起承転結」がうまいようにハマっている。長旅のすえ二人はメキシコの大きな牧場に落ち着く牧場での生活に慣れてきた頃二人は身に覚えのない罪を押し付けられ警察に拉致されてしまうそこでさんざん暴力を受け文字通り瀕死の状態に陥る。そこから物語は「転」に移っていく。
淡々とした状況描写と会話の妙が読む者を惹きつける馬なくして語れないアメリカの一面を強烈に印象付けられた以前読んだアメリカ西部開拓の物語「センテニアル」(ジェームズ・ミッチナー 著)の中の一文を思い起こした。「馬に乗れるようになれば一人前とみなされる。あとは自分のケツは自分でふかなければならない」自分の人生は自分で選ばなければならない自分探しという甘っちょろいものではなくて自分で決める自由がありそれは自らの手で掴み取らなければならない。ジョン・グレイディにそんなアメリカを見た。

「センテニアル」


投稿者: hangontan 投稿日時: 2010-11-4 17:47:38 (502 ヒット)



今年はキノコが大当たり。あちこちからうらやましい便りが届く。なかには15kg背負って帰ったつわものもいるとか。自分もそれにあやかろうといつもの場所に出かけた。だがすでに先行者が入っていたようだ。うっすらと雪が積もった林の中は、乱舞したような足跡が残っていた。おそらく昨日のものと思われる。いくつもの倒木を見て廻ったが、幼菌の一つも残っていない。さてどうしたものかと、あきらめ半分で去年見つけたあたりを探してみる。目当ての倒木には雪が5センチほど積もっていた。見たところキノコの気配は全くない。その凍りかけた雪を除いてみると、ヌメリと光るナメコが顔を見せた。ざざっと、倒木全体の雪を除けてみたが、生えていたのはわずか一杯の味噌汁分。たったそれだけでも、うれしいものだ。来年はどこか他の場所を探さねばならないかな。


投稿者: hangontan 投稿日時: 2010-10-29 6:53:33 (460 ヒット)

このところ、リンカーン・ライムシリーズはやや低調だった。しかし、今回は久しぶりのヒットという感がある。よい作品は出だしから引き込まれるものがあるが、本書もから冒頭からぐいぐい引っ張ってくれる。モチーフとなっているデータマイニングというテーマも時流に乗っていて、グッドタイミング。
それが必要であろうとなかろうと、我々はデジタル情報とは無関係ではいられない。携帯電話の履歴、インターネットを通じたやり取り、テレビショッピングのやり取り、ATMや銀行での取り扱い情報、プリペイドカードやスーパーの会員カードからの買い物情報、ETC利用による位置情報、病院からは病歴、年金や税金の支払い履歴などなど。それらの情報はすべてデジタル化されている。物流も同じこと。あらゆる製品にICタグが埋め込まれ、何が何時どのような状況に置かれ、どのような経路を経て、今誰の手元にあるかがわかるようになってきている。それは人間が生まれてから死ぬまでのデータ管理の可能性を示唆している。ゆえに、データは金になり、データマイニングという分野が生まれてきた。
そこに何かあるかはわからないが、それらのデータをかき集めたものをメタデータという(らしい)。そこにはありとあらゆる個人情報が残されている。仮に個人Aのメタデータを手に入れれば、分析によって、その個人の行動をパターン化して予測することも可能。いつ、どのようなタイミングでDMを送れば買ってくれそうか、などということにも利用できる。また、テロリストの動向をチェックして、事件を未然に防ぐことにも役に立つ。実際、最近の事例で、ある種のデータからテロ計画を察知し直前でそれをくいとめたという報告もある。要するにデータを制するものはとてつもない力を得るということである。
今回の悪役はその「全てを知る男」。データを自由に操ってライムの前にたちはだかる。なかなか手ごわい。


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