投稿者: hangontan 投稿日時: 2017-2-21 17:53:51 (470 ヒット)








確定申告のために帰富。データは正月に準備しておいたので、あとは印刷と必要書類を添付するだけ。ただ申告するだけなのに、これを出してしまうまでなんとなく落ち着かない。

前回歩いたときから随分時間がたっている。旅先では車に乗ってばかりで、ほとんど歩かない。運動らしきものは皆無。体はなまって、足腰は弱るばかり。富山に戻っても、いきなりの山登りは難しい。そうなると行けるところは限られてくる。

伊折での積雪は例年よりやや少なめか。いつものように県警の雪上車が止まっている。曇り空だが視界は悪くない。つぼ足でもいけるほどの雪の締まり具合だが、スノーシューで歩き出す。右手の山斜面からの雪崩で道がふさがれている個所が例年より多く感じる。

いつもの撮影ポイントで行動打ち切り。雲の流れを見計りながらシャッターを押す。写真の出来は光の加減次第だと思うのだが、今日のような曇天でも気持の乗った写真が撮れるようになりたいものだ。

往復6時間
伊折からの帰り、折戸へと向かう道路が雪崩でふさがれていた。一旦バックして思案していたら、ブルドーザーがやってきて、10分ほどでかたづけてくれた。デブリの反対側で待機していたトラックの運転手さんが無線で依頼したようだ。トレッキング街道を歩いていても感じたが、今年の雪は降っては間が開き、また降るということが重なって、雪の層に滑り面が形成されやすい状態にあると推察される。


投稿者: hangontan 投稿日時: 2017-2-21 17:00:00 (377 ヒット)

前作ほどの衝撃はない。それほど一作目の破壊力は凄かった。
キューバ危機とジョン・F・ケネディの暗殺を主題とした物語はヴェトナムのエスカレーション、マーティン・ルーサー・キングとロバート・ケネディの暗殺を舞台とした物語へと移っていく。

前作から一貫して描かれているのは、マフィアとFBI、CIAと麻薬を絡めた裏社会の暴力。今回はそこにヴェトナム戦争によってもたらされた軍の暗部が加わって、ドラマ、人間関係ともにより複雑になり複層さが増している。

場面が刻々と変化していくなかで、ただでさえ読みづらい文章なのに、細やかで緻密な場面の動きを必死に理解しようと読み進む。しかし、読み終えてから作品全体を俯瞰してみると、複層したプロットの全体像が見えてくる。暴力的で破壊的な場面場面に一喜一憂しながら、そこにこだわって読むだけではこの作品のスケール感が見えてこない。絵画から少し離れて観賞する感覚とよく似ている。
ただ、前作よりは理解しやすく、読みやすくなったのは間違いない。


投稿者: hangontan 投稿日時: 2017-2-1 18:40:07 (602 ヒット)



去年の暮れからの持ち越しで暖かくて穏やかな正月となり、今年も昨年に続いての暖冬かと思われた。だが、年初から週間天気予報は晴れマークがほとんどなく、今度こそ雪かという期待が何度も裏切られてきた。しかし、一月も中盤に入ってようやく強い寒気が南下し、冬型の気圧配置も整ってきて、今回こそはまとまった降雪が素人目にも予測された。そして、三日間降り続いて、山は雪に覆われ完全に眠りについたようだ。いきなりの大雪直後は雪が落ち着いていなく、雪崩の危険もあったので、一日おいてから山に向かうことにした。

久しぶりのまとまった雪に気分ははやる。折戸の峠も無事通過し、橋を渡っていくらも行かないうちに、作業中の除雪車に追い付いた。伊折までは程遠い。9時過ぎにならないと伊折までは届かないと告げられ、今回の伊折行きは断念した。
しかたないので、Uターンして、簡単に取り付ける笠尻山へと向かった。小雪が降る中支度を整え、スノーシューで歩きだす。1メーターも雪が積もればスノーシューの天下だ。尾根であろうと谷筋であろうと斜面であろうと、上部に向かって好き勝手に歩いていく。どこへでも行けるこの自由さと解放感がスノーシューの醍醐味だ。久しぶりに雪まみれになって冬の到来を五感で味わってきた。

アウターとして使ったファイントラックのカッパがよくなかった。2年ほど前に購入して、そのときも感じていたのだが、このカッパは蒸れがひどい。防水性はあるが、透湿性に難があるようだ。ラッセルなど休む暇なく汗をかきながらの登行には不向きだと感じた。同じくファイントラックのドライスキンの肌着と発汗性に優れた中間着を着ていても、アウターが汗を出してくれないので、アウターの内側は結露でびしょびしょ。それが、インナーに逆に吸い取られ、インナーは濡れ、乾きには程遠く、外気温と濡れのための冷えも加わって、ちょっと立ち止まると冷たさから寒さが急に増してくる。低山でさえこの状態だから、2000メートル以上の冬山での使用を想像するとぞっとする。梅雨時期にカッパとして使用したが、やはり内側の濡れが解消せず、冷たさだけが際立った。このカッパは湿度の高い場面では使い方に注意が必要だ。ちなみに、アウターパンツはモンベルの安価なゴアテックスラミネートだったが、夏、冬とも内側の濡れはファイントラックと比較してはるかに少ない。


投稿者: hangontan 投稿日時: 2017-1-9 14:03:48 (528 ヒット)







前回のハゲ山に続いて、きょうも種から辿る山「茗荷谷山」。
ハゲ山に登ったとき、種を囲む山並みの向こうに真っ平な山頂を持つ山が目についた。それが「茗荷平山」だった。多くの人はハゲ山と茗荷谷山を一まとめにして登ってしまうのだろうが、我々は次回にととっておいた。

高気圧に覆われすっきりと晴れ渡った今朝は、放射冷却も手伝って冷え込みがきつかった。家を出たのが10時近かったが、種の集落へと入る道路はまだ凍ったままだった。
ハゲ山に来た時よりもはるかに雪が少ない。田圃の畔は雪もまばらで枯れ草も出ている。
先日と同じ場所に車を止め、雪のないあぜ道を辿って登山道へと向かう。

ハゲ山との分岐から茗荷谷山へと向かう道は緩いアップダウンが数か所出てきて飽きさせない。途中峠山という小ピークを通るが、ここもなかなか眺めがよい。雪がないので下りのぬかるみに足を滑らせないよう様にと気を使う。二山、三山超えて、目差す茗荷谷山に到着。ここからの眺めも素晴らしかった。ハゲ山から見るよりよいかもしれない。遠目で見た通り頂上は平な地形でベンチも数カ所設置してある。剱の眺めはもちろん反対側の富山平野の眺めも言うことなし。大岩側から沢山の登山者が上がってくる。そして、ハゲ山へと向かっていった。

我々はベンチに腰掛け大パノラマを目にして紅茶とおにぎりを頬張りながら至福の一時を過ごす。それはその場の空気と一体となった一瞬にして永遠の時間。「山高きが故に尊からず」

辛くて悲しい出来事は決して消し去ることはできないが、今ここにいるその瞬間だけは生きている証と希望を与えてくれる。おそらくかみさんも同じ思いで剱を見ていたに違いない。



投稿者: hangontan 投稿日時: 2017-1-9 13:56:16 (486 ヒット)

昨年地元紙で紹介されていた「ハゲ山」。
いったいどんな山なのか、正月にしては穏やかな陽気に誘われて、かみさんと行ってみることにした。

初めての山はちょっと悩む。まず車をどこに止めてよいのやら、取り付きはどの辺にあるのやら。幸い道路の幅員を示す白線を越えて車の幅の分ほど舗装された場所があったのでそこに駐車することにした。そこからすぐ田圃に積もった雪の中にトレースが付いている。我々もそれを辿ることにした。

種の集落を囲むようにして山々が連なっている。どの山も標高は高くなく、小さなコブといってもいいくらいで、どのコブにも容易に取り付ける。目差す「ハゲ山」はそのコブの中でも稜線が比較的顕著だ。訪れる人も多いのか、しっかりとした登山道となっている。

取り付きからの標高差は200程、傾斜もなだらか、かみさんとしゃべくりながら歩いていると、あっという間に山頂に着いてしまった。そこで目を見張ったのは剱を中心とする大パノラマ。こんな近くに、これだけの眺望が楽しめる山があったことにかみさん共々驚いた。30年以上も山登りをやっていて、この場所を知らなかったこと。

伊折や馬場島と比べると、家からのアプローチは断然近い。かみさんはすっかりこの山並みが気にいったようだ。










投稿者: hangontan 投稿日時: 2016-12-29 17:30:24 (542 ヒット)

















前回歩いた12月12日は冬晴れのとてもよい天気だったが、きょうはそれにもましての上天気。あれから暖かい日が幾日かあって、山の雰囲気もすっかり変わってしまった。

ゲート付近はまったく雪が消えてしまっていて、周辺の山々の斜面も雪が融け、茶色くなっている。10日も経たないうちに雪は20センチも消えてしまっていた。今年も去年に続いての暖冬かなと思わせる気配。なもんだから、スノーシューも着けずにアスファルトの道路を歩きだした。

ゲートを過ぎたばかりのときはよかったのだが、車の轍が凍っていて、滑らないようにと気を使う。道路にはまだ雪が10センチほど残っており、これならスノーシューの方が歩きやすいのに、と思ったが、すでに遅かった。道路脇の杉に積もっていた雪は跡かたもなく消えてしまっている。

とにかく滑って転ばないことにだけ注意して歩く。新雪に足がとられないだけ歩きは楽だ。すぐに細蔵山の対岸に着くが、取り付き付近の斜面には雪が全く付いていない。また、雪が幾分融けたせいか、川の水量も多く感じられ、渡渉して濡れるのも嫌だったので、細蔵行きは見送った。

中山に取り付いて、しばらくは地肌が見える夏道を行く。が、すぐに足首から脛ぐらいまで潜る雪となる。こうなればスノーシューの出番だ。ときより、膝まで潜るし、ショートカットしようにも、つぼ足ではうまくない。1000を超えるとさすがに積雪は多くなる。せめてワカンでもザックに結わえておけばよかったと思うことしきり。

山頂に着くと、光る早月尾根が目に飛び込んできた。周辺の山々も標高の高いところではそれなりに雪は積もっているようだ。大日岳もすっかり雪のベールに包まれている。

カメラの設定を変えて、何度もシャッターを切る。前回持ち込んだレンズとは違うレンズでどう映るのか楽しみだ。またズブズブの雪では三脚が安定せず、ザックを重しにしてもたわんでしまう。かといって、堅牢で重たい三脚を山に持ち込む体力もなく、当面は今ある三脚を工夫して使うしかないだろう。山の装備を減らすわけにもいかず、歳をとってからの山の写真は結構大変と感じた。

伊折へと戻る道すがら、ゲートから歩いてくる人に何人か出会った。みんな撮影が目的のようで、カメラを抱えている。越中のトレッキング街道もだんだんとメジャーになって来つつある。



投稿者: hangontan 投稿日時: 2016-12-29 17:25:56 (458 ヒット)

歳の瀬になって、こんな爆弾を背負い込むとは思ってもみなかった。
北欧のミステリーにハマり込んだこの一年だったが、最後の最後になってとんでもない作品に出会ってしまった。いつもの例にもれず、たまたま手に取った一冊の本。それがそれまで自分が抱いていた小説という概念をひっくり返してしまった。というか、想像をはるかに超えた異次元の産物に出会った感がある。史実と虚構をないまぜにした作品はよくあるが、この作品は「虚構」の部分がとてつもなく破壊的。ガルシア・マルケス、桜庭一樹、ジョン・アーヴィング、とは全く趣を異にする想像力のビッグ・バンとも言える。

JFKのまわりに集まった優秀な人材を描いたノンフィクションにデビット・ハルバースタムの「ベスト&ブライテスト」がある。そこには権力深奥部の人間ドラマと繁栄の中のアメリカの苦悩と挫折を同調させたアメリカの現代史が描かれていて、とても興味深かい内容だった。

本作品ではそこではベスト&ブライテストであったはずの「賢人」が不正と悪と裏切りと堕落にまみれた、訳者の言葉を借りるなら、「異形のモンスター」として描かれている。加えて、ギャング、FBI、CIAなどが複雑に入り乱れ、物語は極めて重層な作りとなっている。作者自身の声で言えば「幻想を打ち砕き、排水溝から星までの新しい神話をつくりあげる時がきた。時代を裏で支えてきた悪党どもと、彼らがそのために支払った対価を語る時がきた。悪党どもに幸いあれ」、となる。この言葉もどこまでが本音なのか推し量ることはできない。
しばらくは、ジェイムズ・エルロイの世界に浸ってみよう。


投稿者: hangontan 投稿日時: 2016-12-27 18:04:10 (443 ヒット)

馬場島方面に行くか称名川沿いを歩いてみるか、迷っていたが、晴れた日の大辻からの剱はどんな眺めだったろうか、それを確かめに大辻山に向かうことにした。

このところの気温が高めだったので、もしかしたら立山青少年自然の家から先も車が入れるかもしれないとたかをくくっていたが、立少に着いてみると思っていたより積雪があり、立少で車止めとなっていた。

立少からは昨日のものと思われるスノーシューのトレースが電車道のごとく付いていた。その上に今朝のものと思われる単独行者のつぼ足の跡。車で行っても結構長く感じる大辻林道だが、歩いてみるとただただ長く感じる。常時剱が拝める伊折からのトレッキング街道と違って、眺めもあまりよいとは言えない。また、小さなカーブが連続し道幅も狭いので解放感がないのも、つまらない要因の一つだ。なので、大辻に至るまでの長い長いアプローチとしか感じられない。車が通れれば、当然歩きで取り付きまで行く者はいないだろう。その点が伊折〜馬場島までのトレッキング街道との大きな違いだ。越中のトレッキング街道は歩きだけでも十分に楽しめる道だ。

うんざりするほど歩いて、ようやく大辻山の取り付き地点に到着。あまりの遠さに辟易するくらい。そこからトレースを辿って山に入る。ほぼ夏道沿いに付けられたトレースは、山頂直下になってから夏道からはずれ、右へとショートカットしている。

トレースのおかげでなんなく山頂に立つことができた。そこにはやはり単独行者が一人佇んでいた。そして、目の前に広がるのは剱から大日、そして弥陀ヶ原から薬師までの大パノラ。立少からの長い道のりの果てに得られた素晴らしい贈り物だ。すっかり記憶から抜け落ちていた眺望をしっかり瞼に焼き付けて、山頂を後にした。

登り:立山青少年自然の家から取付きまで 2時間 山頂まで1時間 山頂40分
下り:取付きまで1時間 立少まで2時間
















投稿者: hangontan 投稿日時: 2016-12-22 16:48:08 (372 ヒット)

原題は「SOLITUDE CREEK」、事件の最初の舞台となったナイトクラブの名前。本書の内容からすれば、邦題は極めてまとも、というより的確に過ぎる。作者が何故そのまともすぎる題名にしなかったのか、そこまで出版社は考えなかったのだろうか。

終盤にきてのどんでん返しは作者の得意とするところ。この作品では、それが全く読めなかった。しかも、そのどんでん返しが複数仕掛けられているのだから、うかつに彼の作品は読んではいけない。しかし、一見なんでもなさそうな会話や、描写、一つ一つその裏を考えていたら読むリズムが狂ってしまって、とてもミステリーを楽しむところではないだろう。ここは作者に騙される、いっぱい食わされた、ことを素直に認めよう。

気になった点が一つ。今回の主人公のキャサリン・ダンスといつもの主人公アメリア・サックスがだぶってしまうということ。二人とも強くて聡明で優秀な刑事という役どころとして描かれている。しぐさや得意とするところは違っていても、話の展開が定型的なので、主人公の印象も同じように感じてしまう。キャサリンとアメリアを入れ替えても、物語的な破綻はないだろう。明らかに色合いが違う作品になってないところが残念であった。


投稿者: hangontan 投稿日時: 2016-12-15 17:26:07 (380 ヒット)

クリフトン年代記第五部。
前四部作を覚えていなくとも、この作品はこれ自体で十分楽しめる。
最近お気に入りで読みこんでいる北欧の推理小説とはガラッと趣が異なる。繊細で緻密な物語展開が際立つ北欧の推理小説は読むのにも力が入り、その分読後は深い充実感に満たされる。一方、クリフトン年代記はそうした細部にはあまりこだわらず、深読みもいらず、くつろぎながら物語の展開を追っていくという楽しさにあふれている。
ハリーはスターリンの実像を描いた作家ババコフの投獄事件に巻き込まれ、同じころエマはレディ・バージニア・フェンウィックと名誉棄損裁判で争う。ジャイルズは選挙で宿敵フィッシャー少佐に敗れる。若きセバスチャンが文字通り勢いを加速しながら物語を盛り上げている。
セバスチャンの物語があまりにも旨く行きすぎ、無茶振りにすぎるというのが、引っ掛った。


投稿者: hangontan 投稿日時: 2016-12-15 17:21:31 (539 ヒット)

伊折のゲートが閉ざされると、いつものように馬場島までのトレッキングの季節がやってくる。
外気温はマイナス3度、今季最高の冷え込みだ。折戸トンネルからの凍った坂を慎重に下る。伊折集落の車止めはまだ設置してなく、旧剱センターのゲートまで車は入る。

積雪はくるぶしからすねくらい、ストックを突くと底突きする。雪もサラサラしていてつぼ足でも問題なく歩けるが、スノーシューを装備して馬場島に向かって歩きだす。まだ誰も通っていない雪面に自分の跡を刻むのはいつ来ても楽しい。カーブを曲がるたびに剱が顔を見せるこの街道歩きはとてもワクワクする。道路の両脇にそびえたつ杉に雪が積もり、その植林帯に射す陽の光に目が奪われる。

早月川に沿ってつけられたこの道は、剱だけではなく周辺の山々の表情も楽しめる。また、川原に積もった雪がごつごつした石を覆い隠して、柔らかな凹凸面を形つくっていて、川は穏やかな表情となり、川は冬の眠りについているかのような静けさだ。中山登山口の少し手前のいつもの場所で写真を撮っていると、県警の車両が通っていった。

中山登山口の階段付近はまだ雪が少なく、スノーシューでは歩きにくいが、そのまま行く。少し行くと積雪も程良いくらいになる。つぼ脚でも問題ないだろう。快晴の朝だったが、次第に薄雲が広がってきた。剱の撮影ポイントで何枚か写真をとって下山にかかる。3時には家に着いていなければならず、ここで引き返すことにした。今回は30年前のオールドレンズがどこまで使えるかを試す目的もあって、あちこちで止まって撮影してきたので、時間をくってしまった。でなければ、山頂に着いていた時間であろう。

剱センターのゲートから中山中腹まで往復 6時間
F70−200f4-.5.6のレンズは11まで絞れば三脚で固定して使う分には問題ないと感じた。これまで、解像度が望遠側で甘いと感じていたのは絞り不足が原因だったのかもしれない。50-135f2.8通しのレンズとどこが違うのか画像データを比較検証してみよう。
































投稿者: hangontan 投稿日時: 2016-12-11 12:17:47 (457 ヒット)



考えてみれば秋になってからまだこの山へは行っていなかった。
今年もナメコの様子見を兼ねて行くことにした。

数年前まで林立していたナメコの木は見る影もない。この山も荒らされている。もっとも、入りやすい山だからしょうがない。かといって登山道から離れて藪こぎをしてまでナメコに固執するほどでもない。道すがらあれば採ってくるし、無ければ無いでそれでよし。

やっぱり駄目かとあきらめ半分で歩いていたが、下から上までびっしりと生えている一本の木を見つけた。寒気が入ったせいか、ちょうどよい状態でフリーズドライとなっている。凍ったジクはナイフで切り離すこともできない。手でもぎ取ろうにも凍って固まった株を木からはがすのは容易ではない。やはり冬のナメコ狩りにはピッケルが必携のようだ。それでも、端から順に剥がしていくと、なんとか採ることができた。凍っているのが幸いして、木の皮ごと剥がれることがない。これはこれで原木にはやさしい採り方だ。
大勢人が入っていても、取りこぼしがあるものだ。それを期待して、また来年も来てみよう。


投稿者: hangontan 投稿日時: 2016-12-10 14:13:21 (420 ヒット)

「ロマ」という言葉を知ったのはいつか読んだ北欧の推理小説の中だった。
ロマという異端の人種が街の片隅に寄りそって暮らしている。一般市民からはあまりよくは思われていない下層の人々と印象付けるように書かれていた。それが事件と繋がるわけではなく、物語の情景描写の一つ、その街を形作る一つの構成要素として描かれていたに過ぎない。あらかじめロマのことを知っていたらならば、その街のことをもう少し突っ込んで想像出来ていたかもしれない。

ジプシー、ジタンもその意味をよく知らないでいたが、本書からすると、両方とも差別用語の部類に入るらしい。サラサーテのツィゴイネル・ワイゼンという有名な曲も、ツィゴイネル=ジプシー=ロマという意味で使われたようだ。ツィゴイナーと呼ばれていたロマの少年は『ツィゴイナーという言葉はぼくの青春を台なしにした』と、本書の中で嘆いている。今風で言うならポリティカル・コレクトネスとしては通らない言葉のようだ。ロマは彼らと同等にみられることに反感を覚え、自らのアイデンティティーを主張する。

流浪の民ロマの出自ははっきりとわかっているわけではないが、故郷はインド北西部にあり、11世紀初頭、イスラム教徒の侵略がありロマ民族の先祖は逃亡を開始した、というのが通説となっているようだ。その後ヨーロッパで「子供をさらうジプシー」「犯罪者集団ジプシー」との烙印を押され、差別と迫害を受け、ナチスによって相当の数が虐殺さている。そのような歴史から、現在もロマに対する偏見と差別がヨーロッパに根付いており、ロマは厳しい生活環境におかれている。

そんなロマのことを理解してもらうために出されたのが本書だ。
最近イギリスのEU離脱が決まった要因の一つに、移民や難民に対する拒絶感が上げられる。イギリスに限らず、北欧諸国も洗練された国々という印象がある半面。下層民や移民、難民に対する偏見と差別は確実に存在するようだ。

ロマという少数民族を通してヨーロッパの一面を知らしめてくれた一冊だった。


投稿者: hangontan 投稿日時: 2016-12-1 15:58:43 (493 ヒット)

写真とナメコ狩りを兼ねて出かけた。
冷え込んだ朝は、中山からの剱も気持ち厳格さが増したように見える。
期待していたナメコはほとんど採られてしまった後だった。この山はかなり荒らされている。幾人もの人が何度も何度も採りに来ていると思えるくらい、何にもない。その代わりといっては何だが、彼らのとりこぼした残りを拾ってきた。クリタケとヒラタケが一株ずつ。来年からますますナメコ採りが難しくなりそうだ。














投稿者: hangontan 投稿日時: 2016-12-1 15:06:15 (445 ヒット)

ジョン・クラカワーの本としては二冊目。一冊目はあの1996年のエベレストの悲劇を描いた「空へ」。今回は2010年から2012年にかけてモンタナ州第二の都市ミズーラで大学のアメフト選手が引き起こしたレイプ事件(キャンパスレイプ)の真相について深く斬り込んでいる。
前作「空へ」のときも感じたが、彼の仕事は綿密な取材から始まる。具体的には直接当事者にあって、事件を忠実に再現する。その際個人的なコメントは極力控え、ひたすら事件の全体像を描くことに専念する。その上で、それに対してどんな見方があるか、出来るかを双方の立場から検証する。それゆえ読み手は彼の記述に沿って容易に事件の真相と司法制度の矛盾点についての考察をめぐらすことができる。

「レイプとは同意を有しない性交」であると本書では定義されている。同意を得たか得なかったかの確証が得難いため、レイプは起訴まで持ち込まれないケースが多い。仮に訴訟に入っても、そこに待ち受けているものは「セカンドレイプ」、わなわち、事件の詳細な再現がその場でなされ、被害者にはレイプ同様の苦痛が待っている。それゆえさらにレイプが訴訟にまで至るケースが少なくなる。

レイプは顔見知りによる犯行がそのほとんどである、約8割という事実。見ず知らずの人間に突然襲われるというケースもあるが、大半は顔見知りによる犯行なのである。幼馴染であったり、大学での顔見知りであったり、それまでは被害者と普通に付きあっていた者がレイプを起こすのである。しかも、レイプは再犯率が高い。被害にあった女性は、自分のような苦痛を他の人に経験してほしくない、あるいは自分のような苦痛を味わった女性が他にもいるに違いない、との思いから意を決して届け出るのである。

まず、有罪か無罪かの決定がなされる。それまで、被害者はセカンドレイプを訴訟の場だけではなく、彼女の周辺の様々な場所からも受けることになる。加えて、外野からの中傷にも耐えなければならない。本書で扱われている事件では、モンタナ大学アメフトチームの街ミズーラという特性、アメフト選手の特権意識、そういう背景からくる世間の偏見「訴えられたレイプの半数は嘘」、とも闘わなければならない。よほどの強い信念と心がなければ、とても裁判に耐えられるものではないだろう。

有罪を勝ち取ったにしても、次は量刑の判断である。これも悩ましい問題だ。過去の判例からある程度の目安があるのだろうが、それがかならずしも被害者の納得のいく結果とはならない場合がある。ということを本書では述べている。

仮に近づきになりたい男性といちゃついていて、結果性交に及んだとしても、途中で女性がそれを拒否した後も性交が続けられればそれはレイプ「同意を有しない交渉」と見なされる。このとき、女性が拒否を明確に言葉にしたか、態度で表したか、を判断するのは非常に難しい。男性側からすれば、後からそんなことを言われても、夢中になっている最中でその言動と態度が曖昧であれば「同意を有しない」と受け取ることはほとんど困難だ。それを訴訟にもっていかれたものではたまったものではない、という見方もできる。

こうして見ると、裁判で争われるのは有罪か無罪かであって、そのどちらであっても、真実はまたそれとは別にある場合があることも想像できる。真実は被害者と加害者の心の内にあるというのもレイプ訴訟の特異な点だということを実感した。


投稿者: hangontan 投稿日時: 2016-11-25 6:31:11 (369 ヒット)

1997年に出された作者の処女作。第二次大戦の末期から物語は始まる。
物語は前半と後半に分かれている。ドイツの偵察に向かった主人公二人の乗る偵察機が撃ち落とされる。深手を負いながらも適地からの脱出を試みる二人は列車に飛び乗るが、それは精神を病んだナチスの将校らを運ぶ車両だった。そのまま、精神を病んだ者たちが収容されている病院に収容される。その施設の名前が本書題名のアルファベット・ハウス。

二人が撃墜されてから施設に収容されるまでの物語はかなり緻密に描かれている。というよりは、登場するものすべてにおいて、人物であったり、風景であったり、こと細かく再現されている。まるで、其処に居た者が見えるものをすべからく描きだそうとしているかのようだ。であるから、読み手も忠実にその場面を目で追うことが可能だ。

ナチスの上級将校に成りすました主人公らのアルファベット・ハウスでの生活ぶりの描写にも手抜きがない。電気や薬物を使った治療法は生々しい。それほどの拷問ともいえる治療を受ければ、まともな人間でも精神を病んでしまうだろう。それでも生き残るためには仮病を装い続けなければならない。そんな二人の精神状態の描写は真に迫る。そして、一人は脱出し、一人は施設に残されたまま終戦となる。ここまでが前半。

後半は精神病棟から脱出したブライアンが、長年の月日を経て後、残してきたジェイムズを探す旅と双方の心の葛藤を描く。
ブライアンはジェイムズの消息を追うが、あらゆる方面から手を尽くして調べても、杳としてジェイムズの消息はつかめない。しかし、ほんのちょっとしたきっかけからブラウン自身の過去へのつながりを見出し、それがジェイムズとの再会へと導いていく。この辺の追跡場面の組み立てもそつがない。「特捜部Q」シリーズでみられた緻密な捜査手法を中心に据える物語展開は、このとき、彼の処女作にしてすでに出来上がっていた。

収容所仲間との死闘の末、ようやくブライアンはジェイムズとの再会を果たす。だが、ジェイムズは生き残るため精神病を演じ続けるうちに、本当の自分を心の奥深く閉じ込めてしまっていた。ジェイムズはブライアンとの再会で覚醒するが、ブライアンを受け入れることができない。脱出に成功した一方は普通の家庭を持って幸せに暮らしていて、方や残された一方は精神病患者として、ただただ生ける屍同然の時間を過ごしてきた。そんな長年の月日のうちに生じたブライアンとの大きな溝と格差を呪い、ブライアンを許すことができなかったのだ。

失われた時間と、異なる環境下かにおかれた二人の心の内の隔たりはあまりにも大きく、哀しくて辛い現実を突きつける。二人の関係はどうなるのか、終盤に来て手に汗握る展開となり、最後のページまで目が離せなかった。


投稿者: hangontan 投稿日時: 2016-11-24 16:13:16 (384 ヒット)

面白い本がないかと図書館で借りてきた二冊が両方とも近年の既読だった。パラパラとめくって選んだはずなのに・・・。

せっかくだからと思って、読むことにしたのがこの一冊。前回読んだときには、ちょっと戸惑う場面もあったけれど、今回はすんなり読めた。ゼノンのパラドックスから始まり、収束する無限級数と拡散する無限級数、ユークリッド幾何学と非ユークリッド幾何学、そして第五の公準など。どうしてそれらが宗教論と結びつくのか。好奇心を揺り動かしてくれた良本だった。もう一冊については、また別の話

「数学小説 確固たる曖昧さ」


投稿者: hangontan 投稿日時: 2016-11-24 16:10:27 (477 ヒット)



山と関わって久しい。40代までは自分に試練を課した山が多かった。50代に入ると、体力の衰えやら、体調の変化やら、家庭内の事情やらで、難易度の高い山から遠ざかり、低山の山歩き中心へと志向が変わっていった。垂直から水平へ、そんな言葉がぴったりかもしれない。

そうなると、それまで見えていなかったものが見えてくるようになってきた。ゆっくり歩くことによって、季節による山の変化に敏感になってきた。足元のちょっとした花にも目が行き、新緑の眩しさに目を見張り、ダケカンバの雄々しさに感動を覚えるようになってきた。そうなると山の幸へと興味が湧いてくるのは自然の流れというもの。陽がきらめいてくる残雪期はもっとも好きな山歩きの時期だが、山菜というおまけが付いてからは、春山と山菜は切って切れない縁になってしまった。

そこに近年加わったのがナメコに始まるキノコ狩り。これでさらに山の楽しみが増えた。
話は十年くらい前に遡る。山に限らず県内の、シイ、ナラ類がカミキリムシによって総枯れになった。山という山はすべて赤茶けてしまった。まだ夏の終わり、早くも紅葉が始まったのかと思ったら、立ち枯れしたミズナラの葉っぱが遠目では紅葉しているように見えただけだった。ひどいところでは全山枯れてしまったケースもある。いわゆるナラ枯れで、見るも哀れな状態が3年くらい続いた。犯人はカシノナガキクイムシというカミキリムシの仲間。しかし、カミキリムシが木に入っただけでは山が総枯れには至らない。真の犯人は、そのカミキリムシに共生する菌だった。

このナラ枯れは県内では西の方から移ってきて、県全体に広がり、新潟県の糸魚川まで被害が及んだ。小生の商売先の群馬県まで広がれば大騒動になるところだった。なにせ、群馬はシイタケ栽培が盛んなところ、シイタケ菌を埋め込む原木となるのはナラ類だからだ。幸い、ナラ枯れは糸魚川周辺で止まり、長野を通って群馬に広がることはなかったようだ。

そのナラ枯れが一段落すると、枯れた木々の葉っぱが落ちてしまって、目立たなくなる。そして次第に木も朽ちてきて、そこにナメコが取り付きだしたのが数年前。それまでは、山のキノコは奥深くか沢登りの最中でなければ見られなかった。ブナなどの倒木などに生えていたナメコに出会ったときは狂喜乱舞したものだ。それが、登山道ばかりでなく、山へと向かう車道の脇の立ち木にまでびっしりと生えてきた。まさにナメコの木の林が出来上がった。4、5年前までは11月ともなれば、山の帰りにスーパー袋いっぱいは軽く採れた。なにせ、一本の朽木に下から上までナメコだらけ、鈴なりなのだ。他に生えている木を見つけても放置してきた。それくらい、山中ナメコだらけだった。

そんな状況に変化が生じたのは3年くらい前から。「ナメコの木」を見つけるのが容易ではなくなってきた。道端にある木は跡かたもなく採られてしまって、ちょっと山に入り込んだ場所でもなかなか見つからない。すでに採られた後だった、という場面に出くわすようになった。ナメコ情報が山屋ではない一般の人にまで広がるのに時間はかからなかったようだ。その特徴からナメコは他の毒キノコと異なり見間違えようがなく、採取も容易なこともある。木の高い場所にあり手の届かないところは、庭用の高枝切り鋏の先に小型の鋸を付けて切り落として、地面には網を敷いて採っている者も見受けられた。そういう輩はスーパーのカゴまで用意して、根こそぎ採っていってしまう。春の山菜シーズンになると、山道のカーブごとに車が止まっているのをよく見かけるが、秋にもその光景が見られ、山に入っている者の8割はナメコ目当てだろう。

そんな風だから、たちまちナメコはなくなっていった。今年も、ナメコハンターに荒らされた跡をよくみかける。そんな中で、ナメコを探すのは容易ではない。もっとも、ナラ枯れになった木の寿命は数年といわれ、その後は養分もなくなりナメコも生えて来なくなる。それでも一度味を覚えたナメコハンター達はしばらく山に来るだろう。そういう人たちが去った後、山は静けさを取り戻し、再び我ら山屋のものになる。その時を待つとしよう。


投稿者: hangontan 投稿日時: 2016-11-22 13:04:28 (407 ヒット)

メキシコ麻薬戦争を迫力満点で描く。
これでもか、これでもかというくらいの殺人と暴力の連続。それも虫けらを扱うごとく平然と行われていく。そして巨大な金が動く闇の世界。

麻薬カルテル間の抗争はモグラ叩きに似ている。誰かがやられれば、誰かがそのシマを獲る。他のカルテルのシマを通るときには通行税を払わなくてはならない、それを怠ったときにはそれ相当のしっぺ返しがくる。やられればやり返す。そんないつ終わるともしれない構図と恐怖の連鎖が40年以上も続いている。

地元警察も麻薬取締官も州警察もみんなカルテルに一枚かんでいる。監獄に入れられても親分はホテルのスウィートルーム並みの優雅な暮らしができる。制裁を加えるときはみんな一緒だ。トカゲのしっぽを切ってもトカゲは生き残る。濁ったバケツの上澄みをすくっただけではバケツの中はきれいにならない。メディアもうかつに手を出せない。命を賭して闇の世界を暴いてみせても、一つの細胞が死ぬだけで、次の細胞がすぐに芽生えてくる。引き換え、そのたびに、メディア側に多くの犠牲が出るのではたまったものではない。そういうドロドロ状態のメキシコから本当に麻薬カルテルを排除できるのだろうか。そんな印象を強く抱かせた本書だった。

奇しくも今、フィリピンでは大統領が麻薬組織壊滅に向けての荒療治の展開中で、アメリカでは大統領選でトランプ氏が勝利し、メキシコ国境沿いに万里の頂上を築くと豪語している。はたして現実の世界はどう動くのだろうか。


投稿者: hangontan 投稿日時: 2016-11-17 6:43:19 (465 ヒット)

予報では午前中は晴れ間がのぞき夕方から再び天気が崩れるという。その晴れ間を利用して山に向かった。

さすがにこの時期、平日ともなれば馬場島の駐車場は閑散としている。埼玉ナンバーの車が一台、はたしてどこに向かったのであろうか。登山口からすでに雪は付いている。前回来た時から一週間もたたないうちに山は冬への装いを増した。積もった雪の上には落ちたばかりのモミジの葉っぱがモザイクのように散らばっている。その上を行く足跡が一つ。駐車場に止めてあった車の持ち主であろうと見当をつける。これといった理由はないのだが、健脚者を思わせる足取り。そのトレースに導かれて高度を稼ぐ。

道すがら目に入ってくるナメコはまだ幼菌だ。ナメコハンター達が総なめにしていった後に生えてきたものと思われる。それらが食べごろになるには一週間はかかるだろう。その間、土日が挟めば、再びやつらがやってきて、採りつくしてしまうに違いない。さすがに、こんなかわいいやつを採ってしまうわけにはいかないだろう。

1600直下で、先行者と出会った。聞くと、1900まで行ったが雪がひざ下まであり、それ以上は無理と判断して下ってきたところだと言う。朝4時に出て、剱日帰りを目論んだのだと。この時期に独りで挑戦するという発想は自分にはない。しかも、日帰りでというから驚いた。雪が付いたばかりの岩とのミックス帯は滑りやすく、また雪も抜けやすく、やっかいなことこの上ない。そんな条件下で独り臨むというのだから、なおさらの驚きだ。

その青年としばし雑談をして、自分もそこから引き返すことにした。帰りに見つけたナメコはぬめりが陽にあたって輝いていた。採ろうとして木に這い上がったが、柔らかかそうにみえたそれは、凍っていてなかなかもぎとれなかった。薄手の手袋をしてなんとか木からはがし取ったが、木の皮まで取れてしまい、残念な結果となった。この時期、ナメコは標高が高い場所では凍っており、標高が低い山では見つけても腐っている場合が多い。良い条件のナメコに会える機会はだんだん少なくなって来る。

これからいよいよヒラタケの季節に入る。どこかの山で出会えるかとても楽しみだ。

1600直下往復 行動時間 6時間
























投稿者: hangontan 投稿日時: 2016-11-13 17:40:51 (460 ヒット)

ようやく山に雪が降った。
その様子を確かめるために先週に続いてここに来た。

カメラと新調した、といっても中古、のレンズ、一脚をザックに入れて馬場島を出発。比較的明るいレンズの表現力はいかほどのものか、それも確かめたかった。

1200の標識を過ぎるころから道に雪が混じりはじめ、1600からは完全に雪の上をいく。犬を同行したと思われる先行者のトレースに助けられ、徐々に雪かさが増してくる道を順調に進む。体調は悪くない、息の乱れも、脈のばらつきもなく、体も軽い。
目標を1700の間違い尾根、1900、2100のテン場と上げていく。この上天気、ここまで来たら小屋まで行くしかないだろう。

雪は足首までくらい。先行者は1900からアイゼンを履いている。さらさらのまだ固まっていない雪は地面の状態を直接ひろいやすく、場所によっては滑りやすい。それをアイゼンでカバーしているのかもしれない。自分はといえば、夏の縦走靴にスパッツ。出発時、軽登山靴を選択しなくて正解だった。馬場島の状況からはこれだけの雪は想像できなかった。11月ともなれば、2000を超える山にはそれなりの装備が必要だということをすっかり忘れていた。

2000の標識を過ぎてからが長い。出だしの100も最後の100も同じ100メートルに違いないのに、この最後に来てのあと100の苦しさはいったいどういう訳なんだろう。ゆっくりペースで先を急いでいるわけでもないのに、とても辛く長く感じるから不思議だ。

そして、ついに小屋手前のピークに立った。
いつものごとく本当に辛い登りだったが、来てみて本当によかったと思った。

いつ来てもここからの眺めはすばらしい。小屋前には吹きだまりが出来ていて、そこを整地したテント跡があった。小屋の前では今日登頂を終えたと思われる学生風の10人くらいのグループが雪と戯れていた。

はたして、自分がこの地に来て、テントを張るのはいつになるのだろうか。
伊折から歩いて、一日目松尾平、二日目1900、三日目小屋付近、四日目アタック下山開始、五日目伊折。はたしてそれだけの荷物を背負えるだろうか、なにより心臓の暴走が起きたらそこでお終いだ。そんなことを考えながら下っていった。

登り4時間 下り3時間40分



























投稿者: hangontan 投稿日時: 2016-11-12 6:13:44 (429 ヒット)

夜明け前、剱岳の黒いシルエットに向かって車を走らせる。
澄みきった空にわずかに浮かぶ雲が山の向こう側からの光に照らされて赤く染まっていた。車を止め、三脚を立て、カメラをセッティングして、いざ撮ろうとしたら、その雲は引いていくところだった。とてもいい条件だっただけに、撮り損ねたショックは大きかった。瞬時にして変化していく自然はそれだからこそ尊いとも言えるのだが、いつでもすぐに対応しておく準備というか心構えが足りなかった。

さて、この時期に早月尾根を行くのは久しく記憶にない。再び早月尾根から剱に登ってみたい、という願望に取りつかれてから幾年経っただろうか。毎年残雪期には早月小屋まで行くのが恒例となっているが、そこから先は行かずじまい。そんなこんなでここ数年過ぎてしまった。

キノコ狩りがてら、ゆっくりと松尾平付近までの散策を決め込んだ。ただひたすら周囲を眺めることもなくもくもくと登下降に使ってきた早月尾根。そこを散策に行くということは10年前までは考えもしなかった。この間、体調の変化や老いやもろもろの変化が重なって、剱は登る山から眺める山になってしまっていた。

ひとたび山に入ってみると、驚きの連続だった。期待薄の紅葉は予想していたよりも数段よかったし、落ち葉の絨毯を敷きつめた道はとても気持ちがよかった。かつて通っていた道はこんなにも豊かな森だったのだ。たとえ頂を極めなくとも、この道を行くだけでも十分だ。運がよければ山の幸にもありつける。来年はかみさんと歩いてみたい、そんなことを考えながら馬場島を後にした。

























投稿者: hangontan 投稿日時: 2016-11-3 18:10:57 (394 ヒット)

題名通り、ひょんなことから事件に巻き込まれてしまった窃盗グループの下っ端少年マルコ。事件の鍵を握るマルコの逃走劇が本作品のキモだ。

ユッシ・エーズラ・オールスン、5作目だが、これまでの作品で一貫しているものは「格差と弱者」へのこだわり。その思いは作品を通してひしひしと伝わってくる。本作品でもそれが大きな背骨となって貫かれている。ミステリーそのものはODAの不正が下地となっているが、興味をそそられるのはやはり幸福度世界一と言われる一方で「格差と弱者」のはびこるデンマークという国の不可思議さだ。彼の作品を読めば読むほどデンマークという国の知られざる側面に目がいってしまう。銀行の頭取と政府高官を巻き込んだ殺人事件はそれだけでもミステリーの主題に十分なりえるのだが、「格差と弱者」への怒りが根底に流れている彼の作品にあってはそれが副題となってしまう。

特捜部Qの刑事カールと彼をとりまく脇役達のコミカルかけ合いもなかなかの見もの。何よりまして、全編を通しての少年マルコの賢明でしたたかな活劇に心温まったのは私だけではないだろう。なんとも不思議な警察小説とあいなった。


投稿者: hangontan 投稿日時: 2016-10-28 18:29:55 (514 ヒット)

先日の僧ヶ岳では体調不良のため世も末のごとくに落ち込んだが、山は登ってなんぼ、ということに変わりがあるずもなく、ただただそのときの自分を受け入れるしかない。なにせ、山は登ってみないとわからない、のだから。

剱から陽が上がりきる前にと、早めに家を出たのに、道中のいつもの撮影ポイントでもたもたしていたら、中山山頂に着いたときには陽がちょうど剱の右肩から出た後だった。眩しい逆光を真正面から受けるかたちになってしまった。せめて5分早ければ良い撮影条件だったのに、と思っても後の祭り。山頂をさんざんに切り上げ、クズバへと向かうことにした。クズバの山頂に着くころには陽も斜めからさすようになり、いくらか絵になるだろうとの心積もりだった。

中山のコルからクズバへと向かう登山道はかなり整備されていた。鋸やチェーンソーが入ったとみえ、道を塞ぐようにして生えていた灌木はきれいに刈り払われていた。おかげで、道幅も広くなりとても歩きやすくなった。大変な重労働だとは思うが、この整備に携われた方々に感謝の意を表したい。

1650までは急登だが、先日の僧ヶ岳のような体のだるさ、重さは感じなかった。どちらかというと体調はよい方。ここから山頂までがこの山のハイライト、剱を左手に見ながらの緩やかな登りが続く。この山でも紅葉は今一つだった。ただ、唯一の救いはダケカンバの存在。白い幹が紅葉に映えて絶妙なアクセントとなっている。少し距離がある木では葉っぱの枯れ模様までは目に入ってこないので、それなりの色付きと目に映る。

脈の乱れもなく体力的にも余裕で山頂に到着。ところが、ザックを下ろそうとかがんだ瞬間、突然頻脈に襲われた。このタイミングでなぜ?と思ったが、幸いもう登りはなく、気持ち的にはあせりはなかった。この発作が出ると立っていられない。体が揺れているように感じる、地面が動いていると言ってもいい。たまらずワソランを飲んで体を休め様子をみる。きょうは登行中全くその気配が感じられなかっただけに、この発作性頻脈には意表を突かれた感がある。しかし、今回の発作は10分程で、割合早く収まった。いつもなら感じる発作後の脈の乱れもない。剱をはじめ周辺の山々の写真を撮って晩秋の山頂を後にした。

登り 中山登山口から 3時間40分
下り 東小糸谷登山口へ 3時間





























投稿者: hangontan 投稿日時: 2016-10-20 13:09:52 (535 ヒット)























もしかしたら標高が低いこの山の紅葉は今が見ごろかなと思って出かけた。
出だしからの急登、伊折山までは息も絶え絶え、汗びっしょり、心拍数はマックス状態。幸いといえば、脈に乱れがないこと。山頂までノンストップの腹積もりであったがそうはいかなかった。ちょっと休んで水分補給。成谷山までも太ももから下が重たく、苦渋に顔をゆがめながらの登行となった。

ここも山全体が枯れている。紅葉がなんとか見られるのは伊折山周辺くらい。枯れている木々に混じってカエデの鮮やかな黄色が印象的だった。半分期待していたハセンバの木はなんとか見出すことができたが、実は全く付いていなかった。
1700まで来ると木立ちもまばらになり駒から毛勝へ続く稜線と東又谷の源頭部が見渡せる。去年もここに来て感動したことを思い出した。その山々に囲まれた谷あいはうっすらと霞んでいて桃源郷のように映る。山頂より少し手前のこの地点こそが、この尾根の魅力だろう。

山頂には宇奈月方面から上がってきた登山者が集っていた。林道は1200まで車が入ったようだ。一人の男性はそこから1時間半で来たという。余裕の足取りで駒へと向かっていった。私と言えば、ここまで3時間50分もかかってしまっており、駒まで行く気はもうとうない。

家に戻ってから過去の記録を調べていたら、昨年も同じ日に登っていた。別に意識してこの日を選んだ訳ではないのに、全くの偶然に驚いたのであった。ただ、昨年は2時間50分で山頂に達している。今年は、それより1時間も余計にかかった。9月末に群馬から帰ってきて、いくつか山を登っていて、体の準備は整っていたつもりだっただけに、今日の苦行にも似た登行は想定外。夏に大日へ行った折はここ数年で最高の体調だった。それゆえ、今日の結果に愕然しショックも大きかった。ただ単に一時的な体調不良であって欲しいという願望と、これから先の山で似たようなことが起こったらやりきれないな、という思いが交錯する。心不全はひたひたと進行しているのだろうか。

登り3時間50分 下り3時間30分
2015年10月15日 登り2時間50分 下り3時間30分
2010年 6月17日 登り2時間40分 下り2時間5分


投稿者: hangontan 投稿日時: 2016-10-20 12:42:46 (466 ヒット)











利賀出身の友達から「ハセンバ」のことを聞いたのは4年前の秋。ハセンバとは何ぞや?ウエブで探してみても当時はヒットしなかった。そこで県立図書館で利賀・五箇山の方言集をひも解いてみたら、「ツノハシバミ」の方言であることがわかった。そこからは早かった、ツノハシバミはヘーゼルナッツの仲間だった。日本にヘーゼルナッツがあることそれ自体、大きな感動と驚きだった。以来、秋に山に入るときには気を付けて見ていたのだが、なかなか出会うことができなかった。今年も2回山に入り見つけられなかった、これはやはり、山友達と一緒に行って教えてもらうしかないと思い始めた矢先のことだった。

ナメコの発育状況の観察を兼ねて、ハセンバ探しに出かけた。材木坂はツキヨタケが全盛期で、それとは知らなければとても旨そうで採ってしまいそうになる。これがあるうちはまだナメコの生える環境は整っていない。常願寺川を挟んだ対岸の大辻山とはずいぶん差がある。大きな違いは気温と湿度だろう。大辻山が日本海側からの冷たい湿度を含んだ風を遮っているようだ。
美女平を3時間かけてハセンバを求めて這いずり回った。ここもツキヨタケの天国。なかなかそれらしき木にはお目にかかれない。こんな木であろうと想像しながら行くのだが、やっぱり見つけることはできなかった。

だが、帰り際にふと思いついて立ち寄った場所を覗いてみたら、はたして、そこに写真で見たことのある実が成っている低木があった。コシアブラやタラノキのような一本立ちの木を想像していたが、それは雪の重みでややひしゃげたような株立ちの低木だった。葉っぱはどこの山でもみかける、ごく普通の葉っぱ。実が付いていなければ、ハセンバの木とはまずわからない。これまで本当によく見かけてきた木だった。これまではやみくもに探していたが、これからはその木だけに着目すればよいので、探すのも楽だ。胸のつかえが取れ、秋の山旅の楽しみがまた一つ増えた一日だった。


投稿者: hangontan 投稿日時: 2016-10-15 19:46:55 (441 ヒット)

物語の最後に付記されている以下の著者の記述は衝撃的だ。

『この小説に描かれている女子収容所について
本書に描かれている女子収容所は、1923年から1961年まで、大ベルト海峡に浮かぶスプロー島に実際に存在し、法律または当時の倫理観に反したか、あるいは“軽度知的障害”があることを理由に行為能力の制限を宣告された女性を収容していた。また、無数の女性が不妊手術の同意書にサインしなければ、施設すなわちこの島を出られなかったことも裏付けがとれている事実である。
不妊手術の実施に適用されていた民族衛生法や優生法といった法律は、1920年代から30年代には、欧米の三十カ国以上・・・主に社会民主主義政権国家や新教徒的傾向の強い国家、もちろんナチス時代のドイツ帝国も含まれている・・・で公布されていた。
デンマークでは、1929年から1967年までに、およそ一万一千人(主に女性)が不妊手術を受けており、その半数が強制的に行われたと推測されている。
そして、ノルウェー、スウェーデン、ドイツ等とは対照的に、デンマーク王国は今日に至るまで、こうした人権侵害にあった人々に対する賠償金の支払いも、謝罪も行っていない』

デンマークというと北欧の洗練された国家というイメージが先に立つが、こういう悲しくて暗い裏の面があったということは驚きとしか言いようがない。物語はその女性収容所から命からがら出所した女の復讐劇が主題となっている。ゆえにミステリーという枠に留まらず、社会派小説という側面も備えていて、重厚な作品に仕上がっている。辛くて、もの悲しいミステリーだ。

さて、ここに記されているような史実が本当にあったのか、ウエブで調べてみたが、なかなかヒットしない。今の世の中、何でもネットで解決すると安易に考えていがそうはいかなかったようだ。図書館に出向いてみても同じ、ナチスに係る書籍が散見されるだけ。「デンマークの歴史教科書」というのもあったが、これにもその件は触れられていない。ただこの教科書、デンマークという国を理解するのには重宝した。

そんな中、あれやこれや探ってやっと探し当てたのがこの文献。
「デンマークにおける断種法制定過程に関する研究 石田祥代 著」
他にも、スウェーデンの実態や、優生思想、公的駆除といった観点からの文献もいくつか見出すことができた。この作品がきっかけでまた知られざる世界への扉が開かれた。


投稿者: hangontan 投稿日時: 2016-10-12 14:45:30 (520 ヒット)







先日の大日平行きは今年の紅葉を確かめるためもあったが、ここ数年来気になっていた木の実「ハセンバ」を探しに行くためでもあった。僧ヶ岳でも見られたと言うから、大日平でも見つかるはずと思って、ハセンバ探しを兼ねての紅葉狩りだった。登山口から平の小屋まで注意深く探しまわったつもりだったが、ハセンバを見つけることは出来なかった。
そこで、山を変えて、今回はナメコ狩りを兼ねてのハセンバ探しに出かけることにした。標高が低いこの山はさすがに紅葉はまだ始まっていなかった。ハセンバらしき木はあるのだが、実が付いていないためそれとはなかなかわからない。結局、長尾山から山頂までの行き帰りでも見つけることは出来なかった。
ナメコはそれなりに出ているようだ。往路でみかけたやつを帰路に収穫していこうと思っていたら、キノコハンターが登ってきていて、目の付けていた物は採られてしまっていた。ナメコ採りは油断ができない。

帰りがけに富山県森林研究所に寄ってみたら、いつもこの時期に咲いているジュウガツサクラが今年も花を付けていた。花は小ぶりで、そんなに多くは咲いていないが、それだけに可憐さがよけいに際立つ。職員の方にハセンバのことを聞いてみたら、この敷地にもあるという。言われた路順に従ってぐるっと園内を廻ってみたが、見つけることはあたわなかった。


投稿者: hangontan 投稿日時: 2016-10-8 17:59:17 (480 ヒット)

「特捜部 Q」三作目。
未解決事件を扱う「特捜部 Q」。今回は過去と現在進行中の事件との融合がとてもよくできている。早くしないとまた犠牲者が出てしまう・・・。そんなはやる気持ちでページをめくる。一方、主人公と脇役のボケぶりがまた絶妙で、センスの良さを感じる。本作品では第一作目から登場しているシリアとの交流事業で派遣されてきたという助手の影の部分が一段と濃くなり、シリーズ物としての期待感も高まる。デンマークの宗教世界もモチーフの一つ。新興宗教への違和感というか距離を置くという風潮はデンマークにもあるのだなと思わせてくれた。またデンマーク人の移民への対応も切り取っており、昨今のニュースで伝えられる欧州での移民排斥運動の一端が垣間見られる。


投稿者: hangontan 投稿日時: 2016-10-6 5:45:00 (460 ヒット)

一昨日、弥陀ヶ原から見た大日平の紅葉を確かめに行ってきた。
結果、予想以上の紅葉に驚き、顔面が緩みっぱなしだった。特に谷筋の斜面の紅葉がすばらしい。弥陀ヶ原の総枯れからは想像できないくらいの紅葉。錦絵が広がる錦繍とはまさにこのことだろう。
この地に向かったもう一つの理由は、近年気になっていた「ハセンバ」を探しにいくためだった。登山口から、平の小屋まで、目を皿のようにして探し回ったが、それらしきものは見当たらなかった。一度も出会ったことのない幻の「ハセンバ」、なんとしても探し当てたい。




























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