投稿者: hangontan 投稿日時: 2012-4-1 6:39:42 (318 ヒット)



今年のクリスマスローズは、春先の低温の影響もあってか、立ち上がりがあまりよくない。そんな中にあって、この花は茎も太く花も大きく見事な咲きっぷりだ。なんとなく首をかしげているようにみえる立ち姿も気に入っている。


投稿者: hangontan 投稿日時: 2012-3-31 8:40:43 (392 ヒット)

「鑑真は何をしに、どのような経緯を経て日本にやってきたのか」そのこたえがこの作品にあった。もっと劇的で波乱万丈な展開かと想像していたのだが、以外に淡々と描かれている。

「天平の甍」以降、作者の歴史小説に対するスタンスが変わったという。彼自身の中において大きな意味を持つ作品であったようだ。

この全集に付録として載せてある、作者の妻である井上ふみさんの寄稿文がまたよくできている。著者との出逢いのころのエピソード。「文学の芽は育ち始めた」という題なのだが、井上靖に結婚を申し込まれたあたりのいきさつがおもしろい。この作家にしてこの婦人あり、といったところ。


投稿者: hangontan 投稿日時: 2012-3-15 18:29:31 (455 ヒット)

「氷輪とは月の異名、中天にかかる月は氷のごとくきびしく、そしてはるかに遠い」

どんなきっかけがあったのかは思い出せないが、永井路子という作家が気になりだした。

鑑真来日の頃の八世紀。日本のまつりごとは仏教と密接な関係にあった。中学校の授業の一コマがよみがえる。だがしかし、鑑真は何をしに日本にやってきたのか、そのへんのところはてんで覚えがない。というよりは、考えてもみなかった。ただ、「鑑真がやって来た」ということを習っただけ。

なぜ事件は起こったのか、史実の裏にどんな物語があったのか。それを解き明かすのが歴史探訪の醍醐味。学校の授業もこんなふうだったら、もっと楽しく、興味がわくのではないだろうか。

読みはじめてすぐ、はたしてこれは小説なのだろうか、と、戸惑ってしまう。どちらかといえば、論文に近い。現存する資料をもとに、作者がその時代の人物を生き返らせ、作者独自の時代観を描いてみせている。

末尾の付記に「『歴史小説とは何か』と、三十年前も今も考え続けている」と記されている。まるっきり作り物の話というわけにもいかないし、ただ単に史実の羅列では小説にはならない。史実との整合性を保ちながら想像性と創造性をいかに歴史のなかに組み込ませるか、そのあんばいが難しいのであろう。

鑑真、藤原仲麻呂、道鏡、孝謙天皇がいまによみがえる。

これを読んだらやはり「天平の甍」を読まないわけにはいかないだろう。


投稿者: hangontan 投稿日時: 2012-3-13 7:03:35 (822 ヒット)







小生が行商に出向く群馬県東吾妻町。
東洋大学陸上競技部の駅伝選手は毎年夏の数日間ここで過ごし調整を行っている。

箱根駅伝の優勝を祈願しただるまの絵付けは地元の看板屋さんの手によるものだ。高崎だるまをデザインして作られている。二体製作され、そのうち一体は大学に置かれ、一体が夏合宿のあるこの地に置かれている。

毎年微妙に異なるデザインは看板屋さんの腕のみせどころ。なんとこのだるまさんシューズを履いている。

その御利益があったのか、今年は優勝奪還。
だるまさんの威厳も増しているように見えるから不思議だ。


投稿者: hangontan 投稿日時: 2012-3-12 8:44:31 (303 ヒット)

「レッド・オクトーバーを追え」に出合って、その魅力にひかれ、軍事スリラーにハマっていった。

以来、国内外の軍事スリラーを手にとってみたが、この分野では日本人作家は欧米の作家たちに遠く及ばないのではないかと感じていた。

もっとも、欧米の軍事スリラーでもトム・クランシーの作品に匹敵するものにはまだ出会っていない。

しかし、日本人作家の作品となると、一気にトーンダウンしてしまう。
なんとなく、もどきというか、ちゃちっぽい作品ばかり。力が入っているのはわかるのだが、物語としてはいまいち。

だが、しかし、この作品はこれまでに読んだ日本人作家のどの作品よりも完成度が高い。麻生幾自身の作品の中でも最高の出来ではないだろうか。

人物描写と心理描写、そしてよく練られたストーリー展開が、息切れすることなく最後まで続き、この作品の品質を保っている。これまでの日本人作家のレベルから一歩抜け出した感がある。

有事が想定され、敵国がそれを画策していることが明らかになったときどう対処するのか。専守防衛に徹する日本がとれる選択肢はそう多くはない。本当に、アメリカの庇護のもとにいるから安心と決めかかっていいのだろうか。アメリカが何らかの事情であるいは何らかの意図があって、行動を起こさない場合、日本はどうするのだろうか。

本作品はそんなことを想定したシュミレーション的小説ともいえる。自衛隊は、官邸は、総理はどう決断するのか。策源地攻撃は可能なのだろうか。その方法は、そしてその任にあたる部隊は・・・。

圧巻は終盤の戦闘シーン。予想だにしなかった結末が待っていた。


投稿者: hangontan 投稿日時: 2012-3-11 18:11:16 (528 ヒット)

馬場島へ向かう途中、折戸の峠に車が止めてあったのを何度か見ていた。いつか、ここから取り付いてみたいと思っていのだが、今日になってその機会がやってきた。

着いてビックリ。なんと20人は超えると思われる団体さんが準備中だった。誰でも考えることは同じか。下りは早月側へと向かうのだろう、車をまわしてきたところだった。

ほどよい勾配の雪の斜面で、春先の山を楽しむにはよい場所だ。ミズナラの立ち枯れが目立ち、さながら墓場のような雰囲気。眼下には、早月川の流れが黒く見え、真っ白な河原に網目模様となって際立っている。

小ピークをいくつか乗っ越すと、剱岳の展望台の城山に到着した。ここからの眺めも超一級だ。快晴の青空をバックに山々がよく映えている。だが、こんな日に限ってカメラを忘れてきてしまう。

登り:2時間半 下り:1時間半







投稿者: hangontan 投稿日時: 2012-3-9 21:13:59 (401 ヒット)

高村薫の本はあたりはずれが、ない。

ハードボイルドでありながら、全編を通して漂うせつなさ。加えて、心の中を彷徨うまったりとした時間と空間。

そこにどっぷりと浸ってしまう。

末尾に『わが手に拳銃を』を下敷きにあらたに書き下ろしたもの、とあるように、「拳銃」が物語の副題としてある。

李欧の物語と拳銃の物語、この二つを狙った欲張りな作品でありながら、どちらも中途端に陥らず、バランスよく組み立てられている。

全体としての物語性もさることながら、拳銃についての描写も秀逸。

拳銃の構成要素となるそれぞれの部品の機械性、そしてそれには欠かせない機械加工の描写もよくできている。

旋盤やボール盤、フライス盤など、まるで著者が機械工の経験があるような書きっぷり。町工場の鉄と油の匂いがぷんぷん伝わってくる。

その工場の喧騒と対照的に描かれているのが、工場に敷地に植えられた一本の桜。これが本作品の題名と重なるという、心にくい演出。

読後感も充実している。


投稿者: hangontan 投稿日時: 2012-3-8 19:04:54 (574 ヒット)



もう瀬戸蔵山にはあきたので、今日は大辻山へと向かった。

あたたかな陽射しに春の気配。山の雪もすっかりしまっている。小鳥たちのさえずりもはじまった。

体調もベリ・グッドだ。

登り:3時間50分 下り:2時間10分




投稿者: hangontan 投稿日時: 2012-2-17 18:18:34 (477 ヒット)

いかにも森村誠一の作品にありそうな題名。
「純白の証明」「青春の雲海」につづく山岳三部作の最終巻、というのだが。

これまで読んだ二作品もそうだったが、この作品も中身がまったくない。それどころか、三部作の中では最低の作品となってしまった。この作品からくらべると、最初に出された「純白の証明」がまだましと思えるくらいの出来。

唯一の読みどころといえるのは「著者あとがき」くらい。これだけは森村誠一の意志が感じられる。

「青春の幻影を山岳ミステリーに具象化させたかった」と森村誠一は言っている。

その意味合いはなんとなくわかるのだが、作品としてはいずれも低レベルに終わっている。
もっと、しっかりとした山岳小説を彼には期待していたのに。

「エンドレスピーク」を頂点に、森村誠一の山は終わってしまった。


投稿者: hangontan 投稿日時: 2012-2-16 18:16:50 (681 ヒット)

個々の疾病については、それを知ろうと思えば様々な方法がある。今の世ならばネットで検索するのが手っ取り早い。症状についての詳細、治療法や対処法について相当詳しく知ることが出来る。

しかし、登山中の不具合と関連付けて記載されたものは意外と少ない。また、お医者さんにしても、山をやっていなければ、山行中での不具合について、100パーセント患者側に立って理解し、処置、指導するのは難しいのではないかと考える。

近年になって身に起こって来た登山中に起こる突然の体調の不具合について調べていたときに出会ったのが、この本だった。この本で「日本登山医学会」なるものがあることを初めて知った。

日本の医療はより細分化、専門化されてきているが、登山中の疾病についても適切な見識が求められ、患者側(登山者)もそれを求めている。
より登山について詳しいお医者さんに診てもらいたいと考えるのは小生だけではないだろう。登山中に同じ経験をしたことがあるお医者さんならば言うことなし。

小生が知りたかった循環器疾患について、山での疾病すべてに言えることだが、「最大の対策は予防である」と言いきっている。すなわち「循環器疾患は急速に進行し、都会でも分単位の診断・治療を要する。ましてや登山中に発症すると致命的であり、迅速な搬送なくして救命は難しい」からだ。

さらに、「登山中に起こる循環器救急疾患の特徴と発症時の対策」については、要点をまとめ一覧表にしてわかりやすく解説してある。自分の症状と照らし合わせるには好材料となるであろう。

他にも登山中に起こりうる様々な疾病も網羅されており、登山者、特に中高年登山者にとっては一読の価値があると思う。もちろんお医者様方にも。


投稿者: hangontan 投稿日時: 2012-2-15 18:06:38 (520 ヒット)



先月は最近お定まりの体調不良がもとで途中から引き返した。
あれから一カ月たち、その間いろんなことを考え、再度登ることにした。

これからの自分の山について、ひとつのヒントを与えてくれたのが、仕事中ラジオでよく聴いていた医師鎌田實さんの「がんばらない」についての話。

話は奥が深く長くなるので、ここにかいつまんで記すことは難しいが、ふと「がんばらない山登り」もあっていいのではないかと思った。

大鉈を振るうことも一つの方法で、そこに行きかけてもなお右往左往している毎日。しかし、そうまでして生きなくてもいいのかもしれない。そう考えた時、「がんばらない山登り」が浮かんできた。

今回はその実践第一回目の山行。
車止めから小雨模様の山に取り付く。先月よりは雪が締まっていてはるかに歩きやすい。季節は確実に移ろいでいる。急登や深雪になるとどうしてもピッチが上がりがちなのだが、そこを抑えて、意識してゆっくりと進む。「がんばらない、がんばらない」「ゆっくり、ゆっくり」と声に出す。一本とってからの出だしは特にゆっくりと進む。

前回敗退した地点に到着。ここの急登も小刻にゆっくりと行く。1100メートルを超えると、一歩踏み込むたびにずっしりと沈む。ふかふかの雪ではないのだが、体重をのせるとオイルダンパーのように沈んでいく。ずーうううっと。

反射板のある稜線に出ると、電車道がついていた。

体にはなんの異変もない。登頂できたことはなによりなのだが、それより「がんばらない山登り」の先がみえたような気がしたことのほうの収穫が大きい。

でもたかだか高低差700メートルだからねぇ。

登り:3時間半 下り:1時間半


投稿者: hangontan 投稿日時: 2012-2-14 19:38:59 (445 ヒット)

山岳ミステリーとしてはなかなかよくできている。

あとがきで著者が言っているように「山とミステリーの融合は難しい」

そこをよく練り込んだ筋立で乗り切っている。

単独で出かけた女性の遭難が事件の底にあり、それにからんだ様々な人物が登場してきて、犯人探しの醍醐味もある。

しかし、架空の山の設定に若干の違和感を覚えた。周辺の山域や最寄りの町が実名で出てきているのに、対象の山や尾根が架空の名前となっている。なんとなくその場を想定しにくい。

また、何年もかけ何度も何度もチェックを行ったとのことだが、それでも腑に落ちない表記があった。山での岩登りを「岸壁登攀」としたり、「剣岳」と「剱岳」が混在していたり。

そういった詰めの甘さも作品の完成度に影響を及ぼすものだ。


投稿者: hangontan 投稿日時: 2012-1-17 18:25:47 (630 ヒット)

先に続けて読んだ「純白の証明」「青春の雲海」と、二冊ともに、期待を裏切られ、今度こそはとは手に取った一冊。地元北日本新聞をはじめ多くの新聞に連載されたというから、それなりの内容のはず。

だが、今回もまたまた期待を裏切られてしまった。
「森村誠一はいったいどうしちまったんだ」と、つまらなさに斜め読むことしきり。

森村誠一の作品もまた類型化してしまっている。そのパターン化にしても、心地よさがまったく感じられない。字面こそ埋め尽くしてはいるが、上辺だけで、内容がともなっていない。同じパターン化にしても、昨年自分の中で大ブレークした池井戸潤とはえらい違いだ。

それとも私の読みが足りないのだろうか。今や大御所作家のはずなのに、この出来の悪さは不思議でたまらない。

物語は沖縄の知覧特攻隊基地から始まる。愛する女性のために二度も三度も口実をつけて特攻から戻って来る隊員。必死の命に背いて、生きながらえるため、特攻機を駆って単身中国大陸に向かった隊員。彼らの末裔たちの織りなすドラマ。これが、一つの類型。この部分で新聞読者の心をつかんではいるのだが。

軍事政権で揺れる東南アジアの某国から逃げてきている民主派指導者をかくまう非政府組織。この集団が浅田次郎ばりの個性派集団。その中の一人の女性が外国要人の特別供応係り。これもまた一つの類型。

主人公を取り巻く麗しい女性たち。主人公はあくまでいい人物である。

その女性たちや個性派集団を引き連れて山に入り、登攀シーンを繰りひろげ、山の世界を垣間見せる。これもまた他の作品に使われた手法。

今回はおまけとして、民主派指導者を抹殺するために送り込まれた八人の殺人集団が余興として登場。なんとも漫画チックでおバカな役回りを演じている。

そして最後にくるのは、ヒマラヤ山脈の末端に位置する某国にある未踏峰アグリピークへの大遠征。ここの場面にかなりのページが割かれている。資金力にものを言わせた三カ月にも及ぶ大キャラバン。相当大げさな大名行列だが山の話としてはいくらか見ごたえはある。

他の作家にはまねのできない、森村誠一得意の山の描写が冴えわたる。

そして、最後の最後にきて、主人公らを襲う悲劇。頂上アタックの帰路、殺人集団の最後の残りの一人がしつらえた罠にかかって、アタック隊は稜線から転落。4人のパーティーは一本のザイルで宙吊りとなってしまう。そして切断。これもまた類型の一つ。

正直言って、山の話にくるまでは、なんとも支離滅裂型の内容といっても過言ではない。特攻隊の末裔が見えざる運命の糸によって引き寄せられ、困難を共にし、そして一つの目的に向かって道を切り開いていく。それが物語の主題をなしているのだが、それにボリュームをもたせる肉付けがうまくいっていない。

直前に読んだ「青春の雲海」でも感じたが、この作品も「題材やそちこちに散りばめたプロット、プロットはまぁまぁだと思うが、筋立てや伏線の張り方が安易すぎて深みと面白みに欠ける」という印象だ。

加えて、この作品は多くの新聞に連載された作品。冒頭の特攻隊のつかみから某国の民主化運動に絡んだ序盤からは、新聞読者はある程度の期待を抱いていたはず。それが、物語が進んでいくにつれて、作者は深いロジックを組み立てられなくなり、へんてこりんな殺人集団の登場や、抽斗にあった過去の作品のモチーフを拝借して、それらを危ういながらも繋いで最後のアグリピークの遠征までもっていった、との印象が残る。

その辺を、生で読んでいた新聞読者はどう捉えていたのだろうか。そして、この作品を掲載した新聞社はいかに。


投稿者: hangontan 投稿日時: 2012-1-15 17:36:35 (450 ヒット)

人生二毛作、三毛作。
人生をリセットするため、行方をくらまし、赤の他人に成りすまして暮らしてみたい。そんな願望は誰にでもあるのではないだろうか。今回の作品はそれが主題となっている。

山に行くといって、そのまま行方不明となってしまった本屋の主人。
その妻と、白馬から針ノ木への縦走路で棟居刑事が遭遇する。

本屋の主人とその会社の女性従業員との不倫逃避行。二人が転がり込んだ先は、これがまた人生二毛作、三毛作を地でいく人ばかりが住んでいるアパート。そこの住人は浅田次郎の小説に出てくるような、なんとも個性派揃いな連中ばかり。

外国要人のための特別供応担当女性まで登場し、主物語に絡んでくる。

数年前に起きた老婆殺人事件と今新たに起こった身元不明者の殺人事件の接点が次第に見えてくる。

棟居刑事が再び山に登る。

この作品もコメディなのだか、刑事ものなのだか、さっぱりわからない。題材やそちこちに散りばめたプロット、プロットはまぁまぁだと思うのだが、筋立てや伏線の張り方が安易すぎて深みと面白みに欠ける。浅田次郎ばりのユーモア仕立てにも程遠く、この作品にもがっかりさせられた。


投稿者: hangontan 投稿日時: 2012-1-14 18:30:56 (446 ヒット)

中央官庁の課長補佐がビルから飛び降り自殺をした。課長補佐といえばノンキャリア組としてはそこが最後の行き着く場所。しかし、省内の生き字引と慕われ、職場はもとより出入り企業からも一目置かれていた彼には自殺に走る理由は見当たらない。

自殺か他殺かをめぐり、警察が捜査を進めていくなかで浮かんできたのが、自殺をした課長補佐が絡んだ山での遭難事故。登攀中の仲間の一人が転落し、宙吊り状態の彼はパーティーを救うため自らザイルを切断してしまう。

捜査の糸口をその事件に見出す棟居刑事。

そのパーティーのメンバーを捜査中に相次いで起きる山の死亡事故。そして、再びザイル切断による死亡事故が起きてしまう。

サスペンスものとしてはロジックが薄弱、社会派小説としては企業悪が描き切れておらず、山の本としては深みがない。いまいち乗りに欠ける作品だ。


投稿者: hangontan 投稿日時: 2012-1-14 18:20:58 (532 ヒット)





今日のミッションは瀬戸蔵山。

家族旅行村から延びる尾根に取り付いた。雪はたっぷり、スギ林の雪原を行く。尾根に乗ってからは、ラッセル地獄。ときおり胸まであるラッセルが楽しくてしかたがない。984のプラトーあたりで、山頂の反射板が目に入り、笑みがこぼれる。最後の登りの出だしがやわしく、やや右から巻いて乗越したが、そのとき、終わりを告げるゴングが鳴った。

発作はいつものごとく、何の前触れもなく突然やって来る。今回は30秒から1分以内、じっとしてやり過ごす。もうこうなると先に進めない。パンをほお張り、一息ついてから下ることにした。

いつまでこんなことを繰り返すのだろうか。

浮遊人となって、四時間半かかって登ってきたみちを、40分で下る。


投稿者: hangontan 投稿日時: 2012-1-13 19:08:01 (354 ヒット)

『山と渓谷』に連載され、その後、書籍化された一冊。
山で起こった突然死、その事例を事故関係者への取材を通して、その原因に迫ろうとしている。

事故の模様が山行報告形式をとってドキュメントタッチで再現され、自分もその当事者と同行している気分にさせられる。と同時に、その事故が発生した時、自分だったらどう対処するだろうか、そんなことも案じながら読み進んだ。

山での突然死は遺体収容までに時間がかかるため、その引き金となった要因を特定するのは極めて難しい。今回示されたいくつかの事例でも、その時点においてそれが死に至るような前触れであったと見受けられる症状であったと特定できるものはみつからない。結果からみれば、そうだったのかもしれないと、推測できるに過ぎない。

容態が急変してからの処置が山では限界があり困難を極める。

しかし、少しばかりの天候の崩れ、わずかな体長の不具合をもって、その山行自体を中止するわけにもいくまい。それを重篤な事態の予兆と捉えるかどうかは、なかなか難しい。


投稿者: hangontan 投稿日時: 2012-1-13 18:23:04 (402 ヒット)





本年、当協同組合は発足以来60周年の節目を迎える。

江戸時代より、富山の薬屋さんは仲間組を中心としてお互いの結束を高めてきた。三百年以上の歴史を誇るが、その間、決して順風満帆の時代ばかりではなかった。山あり谷あり、多くの試練を乗り越えて今日に至っている。仲間組はその折々に置いて重要な役を担ってきた。

現在もその精神は受け継がれ、我が水橋家庭薬協同組合もその一翼を担ってきた。

60周年の節目を迎え、さらなる飛躍を目して、熱気あふれた初役員会だった。







投稿者: hangontan 投稿日時: 2012-1-12 17:38:58 (392 ヒット)





天候がぐずつくことの多い冬の日本海。

今日は昼ごろからよく晴れて、澄みきった青空に山々がよく映えていた。


投稿者: hangontan 投稿日時: 2012-1-10 5:43:50 (451 ヒット)

かつて、大日平と弥陀ヶ原を分けている称名川に橋を架ける計画が持ち上がったことがあった。もし実現していれば立山周辺の観光状況は大きく変わっていただろう。その後、どうなったのだろうか。

この作品は槍ヶ岳の開発計画が素地となっている。そして街で起こる殺人事件。そのアリバイのために山が使われた。写真を使った巧妙なトリック。図説まで挿入してあり、山と推理小説どちらも狙った野心的な作品。

ストーリーや、トリック自体はそんなにワクワクさせてくれるほどのものではない。しかし、ときおり描かれている山の臨場感が秀逸。言葉で表現しがたい一瞬の輝きをこうやって文章で言い表せるのも、やはり物書きのなせるわざだろう。

以下引用:

『一瞬の時点をとらえての写真に定着させたような観察すら、赤と黄を主体にした色彩の洪水である。それが時間の経過にしたがって、夕闇の藍と黒の蚕食を受けて、少しも静止することのない千変万化の色彩の饗宴をくりひろげていた。稜線に近づいて赤みを帯びた太陽が、雲を染める。逆光の中に濃いシルエットを刻んで沈む稜線の真上が最も赤く、天の上方へ行くにつれて茜から黄色へ、そして、夕闇がひたひたと侵蝕して来る東方の藍色の空へとつながる』

『その中間にあって、複雑に堆み重なった雲層が、落日を屈折して乱反射する。光を浴びた雲の下層は燃え上がり、雲そのものが炎のように見える。上層の雲は、紫から、黒へと退色する』

こんな書き方してみたいなぁ。


投稿者: hangontan 投稿日時: 2012-1-5 18:37:16 (368 ヒット)

久しぶりに、宮尾登美子を手にとった。
平成2年に読売新聞に連載された作品。その後NHKのドラマにもなっている。

「八百善」とは、どこかにモデルとなる店があって、その実名を伏せた架空の名前だと思っていたら、実在する料亭の名前だった。江戸時代から続いているこの料亭の八代目から九代目の盛衰を描いた物語。

題名に「菊亭八百善の人々」とうたってあるように、ここでは八百善と共に暮らす「人々」が中心となっている。

その人間模様は、それはそれでよく描かれているのだが、老舗高級料亭の風情や江戸料理の神髄もあますところなく伝えている。

今でも八百善は営業を続けているが、「料亭」という形はとっていない。江戸時代から現在に至るまで、八百善の歩んできた道は、それこそ山あり谷ありの連続だったに違いない。本作品で描かれているそのほんの一幕をとっただけでも十二分にそれがうかがえる。

その時代時代においてどう世間に支持されていくのか、かつ、八百善の味と歴史をどう継承していくのか、という相反する課題が常につきまとう。

そういう意味では、店を構えないという今の商売の形態は、その一つの選択肢なのだろう。

時代にマッチさせて、絶えず変化しながら、伝統を受け継いでいく。わが身に置き換えてみると、それは並大抵のことではないと断言できる。

これから富山の薬屋さんはどう変化していくのか、どう変化していくべきなのか、そんなことを思いながら本作品を読んでいた。





投稿者: hangontan 投稿日時: 2012-1-1 15:40:49 (498 ヒット)

この作品は1968年に青樹社から出版され、その後2006年まで、数多くの出版社から発刊されている。
実に40年間、その時代時代において、様々な読者層に読み継がれてきた秀作である。

小生が山を始めてまだ間もないころにも一度読んだことがあったと思うのだが、内容はすっかり忘れてしまっており、題名だけが脳裏に残っていた。その再読。

作者は、この作品を「ある先輩作家から酷評されて、私は一時、自信を失った」というのだが、自らも述べているように、小説は「評価や読み方も読者によって天地ほどに分かれる」。これほど長きにわたって読み継がれている事実をしてみれば、その「酷評」は、とある一読者の一つの見方にすぎなかったのだろう。誰がどう酷評しようとも、それ以外の読者の好みに合いさえすれば、その作品が世に出された価値があるというもの。

「分水嶺」は人生の分岐点と重なり合う。題名を「分岐点」としたならば、それこそ味気ないものになってしまっていただろう。「分水嶺」の持つ語感のよさに引き付けられ本書を手に取ったものも少なからずいるだろう。

冒頭から始まる穂高の分水嶺での山岳シーンがこの物語の成り行きを暗示する。その後、登場人物それぞれの前に様々な形で現れる分水嶺。それを右に左に分けながら話は進んでいく。

分水嶺には二通りあって、自らその進む方向を決められるものとそうでないもの。どちらも、運命を分ける重要な分岐点となるが、後者においては、選択ということで自分に裁量権が与えられている。

逆にいえば、選択は自分の人生を自ら決め得ることのできる鍵ということである。日々に下す様々な決断、その前には必ず選択がついてまわる。人生を決める大きな分水嶺に接し、決断を迫られたとき、人は何を基準に選択するのか。この作品はそんなテーマを問うている。

今自分は人生の一つの大きな分水嶺に立っている。そんな時期にこの本を読み返したのは何かの因縁なのかもしれない。


投稿者: hangontan 投稿日時: 2011-12-30 6:24:40 (307 ヒット)

ネット上の書評ではかなり点数が高いこの作品なのだが。

話が出来すぎというのが率直な感想。まさかねと思った結末が本当になってしまった。

新生児取り違え、戸籍入れ替えというトリックをうまく融合させ、そのテーマが静かに深く全編を通して流れている。笹本稜平は、その重々しさというか、やるせなさを描きたかったのだと思うが、そこの辺はうまく出来ており、読み手にも伝わってくる。

第18回サントリーミステリー大賞・読者賞


投稿者: hangontan 投稿日時: 2011-12-29 7:31:28 (612 ヒット)

ぎっくり腰からまるまる2週間たった。ギクリとくる痛みは5日ほどで消えたが、ひねりやかがみ込みの際に重たい痛みを感じる。完治するまでまだ時間がかかりそう。

歩きだけなら、なんとかなるだろうと、国立立山青少年自然の家まで車を走らせた。

積雪は50センチくらい。とりあえず、城前峠まで。

晴天の林道歩きは実に気持ちがいい。空気がうまい。立山連峰が一望でき、気分爽快。

で、城前峠まで1時間45分。大休止をとろうと座りこんだら、いきなり心臓の高鳴り。それまで気分がよかっただけに、がっかり。またか、と思ったが2〜3分で解消。めまいも吐き気も起こらなかったので、来拝山に取り付くことにした。

そこで待っていたのは、さらなる楽しみ。時々腰までもぐるラッセルに喜々揚々。ひたすら、ひたすら、高みを目指す。だが、動悸、不整脈が出っぱなし。高揚感がそれを誘うのか。クライマーズハイと底なしの不安感がせめぎ合う。

取りついてから2時間。やっとのことで、来拝山山頂台地に到着。息も絶え絶え。山頂まであと50メートルを残して下ることにした。下りは30分。

この夏以来、動悸、不整脈の出現度は日ましに高くなってきている。
ある日突然、ふっと、消える。そんは日が来ないだろうか。

来年は試練の年となるかも。



投稿者: hangontan 投稿日時: 2011-12-24 7:04:01 (338 ヒット)

今回はニューヨーク市の図書館員が主人公。

前作「驚異の発明家(エンヂニア)の形見函」と対をなす作品。そして、前作を読んだなら必ず手にしたくなる一冊。

しかし、それと比べると、というより、絶対的におもしろさに欠ける作品だ。

前作で語られた、数奇な運命の発明家の物語のような話を期待して読んだら、すっかりその期待を裏切られてしまった。

物語自体は相当手が込んでいる。図書館の分類処方に関して、そこから派生した挿話が綴られていく。いったいどこから本題に入っていくの?という感じがずーっと続く。どこで前作とランデブーするのか?その興味一心で読み進む。

始めっから関連しているのだろうが、その関連付けの設定が面白くない。というよりピンとこない。なので期待感がそがれてしまったのだ。

前作のようなファンタジックな世界を期待していただけに残念。


投稿者: hangontan 投稿日時: 2011-12-21 19:02:16 (572 ヒット)



アジは重宝な魚だ。

富山の海岸線沿いなら、どこで釣れる。
大ぶりなのは焼いて食べ、中くらいなら開いて天ぷら、小さな豆アジはそのまま唐揚げにする。

今回魚屋さんで仕入れたのは、豆アジの煮干し。
そのままでも十分美味しいが、今回はフライパンで炒ってから醤油とみりんと鷹の爪でさっとからめた。

ものの五分とかからない。

酒の肴に最高でっす!


投稿者: hangontan 投稿日時: 2011-12-19 18:22:27 (316 ヒット)

この小説もマジック・リアリズムの匂いがする。
ファンタジーとまではいかないが、それに似た雰囲気十分。

オークションで競り落とした年代物の箱。それがなんなのか知らいないまま、またどんな値打ち物なのかわからないで競り落とした。ただ、直感と感性がそれに秘められている何かを感じ取っていた。

「形見函」とは初めて聞く言い回しだが、18世紀中ごろに流行っていたものだという。持ち主の人生の要所要所でその鍵となった「物」を収録してある。その「形見函」によって、その持ち主の歩んできた人生を表現する、そんな箱である。

自分の部屋にもそれと似たようなものがないでもない。部屋中に散らかるガラクタの類。小学生のときに使った彫刻刀。中学に入ったとき初めて買った国語辞典。剣道の竹刀。漫画本を含め雑多な本の数々。作りかけの戦車のプラモデル。ほこりがかぶったマック。などなど、捨てられないものが山のように積んである。それはそれで自分の歴史の一ページを彩ったものに違いないのだが、ほとんどというか、ほぼ全てがお金を出して買ったもの。物に囲まれて生活しているといっても過言ではない。

しかし、「形見函」に収められているのは10個に満たないもの。それで、その持ち主の人生を語り、表現する、というのだから、昔の人は酔狂なことを考えたものだ。

「形見函」に仕切られて、収められている一つ一つが、とある発明家の波乱に富んだ人生の断片と連動している。

文中、気になった文章が一つ。
「器械は素材の持つ力と堅固さにかかるものではなく、技と創意工夫にかかるものである」
なかなか的を得た名句ではある。裏返すと「技と創意工夫」には限界がないということ。あらゆる面で行き詰まっている現在の日本を救う手立てはこれに尽きるのではないだろうか。

また、「器械体操」の語源はここから来たのではないかとも思ってみたりした。「器械」自体、ギリシャ語起源で、創意とか技芸を意味する。器具を使用するから「器械体操」なのでははく、「創意と技芸」を極める体操なのだ、と納得した。


投稿者: hangontan 投稿日時: 2011-12-18 6:45:38 (389 ヒット)



富山の名産として知られる『かまぼこ』

近所の蒲鉾屋さんに寄ったら、時節柄だろうか、こんな『かまぼこ』が置いてあった。他にも職人さんの遊び心があふれている作品がたくさん並んでいた。

買っても、もらっても、うれしくて美味しい富山の『かまぼこ』だ。

梅かま さん


投稿者: hangontan 投稿日時: 2011-12-14 17:13:54 (285 ヒット)

第6回大藪春彦賞受賞

題名の「太平洋の薔薇」とは物語に登場する老貨物船「パシフィックローズ」のことだった。

一言で言って、海の男の物語。海洋大冒険活劇だ。
この作品の愁眉は最後のシーンにある。ここで涙する読者も多いのではないだろうか。この場面のためにこの小説は書かれたのであった。

日本を離れた遥か南方洋上をいく老貨物船「パシフィックローズ」。その船長柚木精一郎の最後の航海。

物語的には、旧ソ連時代の遺物の生物兵器とトルコ人によるアルメニア人虐殺がサブタイトルとなっている。

しかし、最大の見所はハイジャックされながらも、冷静に判断し荒波を乗りこなして行く柚木精一郎の活躍である。ストーリーよりも人間を描くことにおいて本作品は優れている。

脇役としてこの物語の鍵を握るもう一人の人物、アメリカに亡命したアルメニア人が登場するが、これもいい味を出している。だが、やはり柚木精一郎の一人舞台と言っても過言ではないだろう。

海の男の中の男、その柚木精一郎の最後の航海にふさわしいフィナーレを用意してくれた作者に感謝する。

また、この本はカバーに描かれた画がすばらしい。荒波を駆る貨物船が臨場感たっぷりに描かれている。本文を読みながら、幾度この表紙を眺めたかわからない。この画の描き手、横山明も一押しだ。


投稿者: hangontan 投稿日時: 2011-12-9 20:54:19 (441 ヒット)

昭和十六年、日本にはきな臭い匂いが立ちこめていた。

その年の夏、女性一人を含む五人の若者が槍ヶ岳の山頂に立った。いつの日にかまた五人揃って再び槍ヶ岳に集うことを誓い合い、その証として、山頂の小石をそれぞれが持ち帰った。日本、アメリカ、中国に散らばっていった五人の青春物語。

戦後五十年を機に出筆され、朝刊紙に連載されたという。それから今はさらに十五年が経過している。

森村誠一ならではの、重厚で奥の深い作品である。それでいて品格もある。

戦後五十年といえば、まだ戦場経験のある人々が数多く残っていた。戦争の話を聞きたければ、その人達が語ってくれた。聞こうと思えば、直接その人に会って話を聞くことができた。

小生のお得意さんの中にも、満州引き上げぐみや、シベリヤ帰り、南方洋上から帰還した人たちが少なからずいて、その方々から生々しい話を数多く伺った。自分の子や身内には話さなくても、他人には話して聞かせるという方がほとんどだった。小生の父からも戦時中の話は聞かず終い。父もあえて語ろうとしなかった。自ら話してくれれば、私には聞く用意はあったと思うのだが、父が逝ってしまった今となっては詮無い話ではある。

たまたま、この小説を読んでいる最中に、父と予科練で同期だった人に会うことが出来、当時の状況を聞くことができた。その方の奥さんも同席していたのだが、その内容は、奥さんですら、何十年と連れ添っていて、一度も聞いたことのない話ばかりだった。当時予科練や予備学校の最年少部類にはいる年代の方たちも、すでに85歳前後。あと何年かすれば、その方たちの大方はいなくなってしまう。父を含めその方たちの年代は、特攻隊志願者も多い。話を伺ったその方も、ただ「現物」がないため本土で足止めをくらって、言わば順番待ちの状態で終戦を迎えたとのことだった。

作者がこの作品を書いた頃、15年前、まだ、その体験者が大勢残って、直接話を聞こうと思えばそれが可能だった。しかし、あと数年もすれば、戦争の記憶の伝え手がいなくなってしまう。 一次情報が得られなくなるということは、二次情報に頼るしかない。その意味においてもこの作品の持つ意味合いは深い。

テーマは戦争。それを描いた小説はそれこそ山のようにある。それらを決して数多く読んできたわけではないが、この作品は、その中でも最上級として位置づけられるものと思う。

悲惨な場面も数多く描かれており、涙すること多々。しかし、五人の主人公らを含め青年の純粋で前向きな気持ちが全編を通して描かれており、その悲しみを明日への勇気と希望に変えてくれる力が本作品にはある。


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