投稿者: hangontan 投稿日時: 2017-9-28 15:35:54 (404 ヒット)

冬の僧ヶ岳というと1週間かかるものと思っていたが、短期間でチャレンジするというので同行させてもらった。2日目山頂を目の前にしたが、仲間の体調不良でやむなく下山。


投稿者: hangontan 投稿日時: 2017-9-28 15:25:13 (373 ヒット)


投稿者: hangontan 投稿日時: 2017-9-27 17:34:38 (370 ヒット)

このときはまだ旅の記録として写真を撮っていた。
花や光に興味を持ちはじめるのは、まだだいぶ先のことである。


投稿者: hangontan 投稿日時: 2017-9-27 17:24:45 (413 ヒット)

初めての僧ヶ岳。上部はガスっており、平らな斜面を徘徊する。帰りに、親子連れと出会う。


投稿者: hangontan 投稿日時: 2017-9-27 17:17:24 (369 ヒット)

難易度は高くなく、この時遡っておいたおかげで、下降路として使えることがわかった。三階棚はしばらく行ってないが、今はどんな状態なのだろう。


投稿者: hangontan 投稿日時: 2017-9-27 17:04:30 (412 ヒット)

このときはまだ発電所まで車が入った。
猫又谷右俣から。
時期はすでに遅く、雪は少ない。鞍部に出てからの藪を嫌って直登ルンゼに入った。出だしは良かったのだが、上部はガレており、やや手間取る。最後は右手の稜線までわずかの藪こぎ。すぐに山頂に着く。
帰りは、左俣を下る。


投稿者: hangontan 投稿日時: 2017-9-27 16:55:10 (387 ヒット)

大猫に登るはずであったが、取り付きがわからず、ブナクラのコルまで来てしまった。猫又直下の庭園はいいところだった。


投稿者: hangontan 投稿日時: 2017-9-27 16:27:33 (401 ヒット)

仙河海市シリーズの短編集。
あの大地震ののち、作者はもう書けないと思ったそうだ。
そんな作者があえて故郷の気仙沼をモチーフとした物語から再び描き始めた。仙河海市シリーズはどれも平易な文章でとても読みやすい。淡々とした描写ながら、心に響く物語を紡ぎだしている。
「ラッツォクの灯」を読み終えたとき、大声を上げて泣いた。心にジーンとくるとか、目頭が熱くなるとか、思わず涙がこぼれる、とかそんな次元のものではなく、まさしく慟哭そのもの。これまで生きてきた中でこれほど大声を出して泣いた記憶はあまりない。


投稿者: hangontan 投稿日時: 2017-9-27 16:24:40 (373 ヒット)

3年も浪人して大学を目指すというのは、かなりのモラトリアムな期間だ。なんとかなるだろう、ぐらいに思っていないととても3年間の浪人生活を送れるものではない。
作者の実体験がどのくらいこの作品に投影されているのかわからないが、世間でよく言われるところの、2、3年の浪人生活は長い人生においてはそんなにマイナスになるものではなく、むしろその後の人生に必ず生きてくる、そんなうらやましいモラトリアムの季節を生きてみたかったものだ。


投稿者: hangontan 投稿日時: 2017-9-27 16:21:26 (364 ヒット)

大人の目線から小学生を描いた物語。
本当に小学生がそんなこと考えつくかと、自分が小学生だったころを思い出してみると、そう思う。大人が小学生を描くのはとても難しい。私が小学生のころ、なんにも考えなしで生きていて、何かをするのに理屈とかそのあとどうなるという考えは全くなかった。ましてや、世の中の動きや大人の世界に首を突っ込むという考えなどもうとうない。自分が子供だからということすら意識していなかったと思う。ただ、寝て起きて学校へ行って遊んで食べて、それだけ。子供に物語があるのは大人の目線で見るからだと思う。


投稿者: hangontan 投稿日時: 2017-9-27 16:19:59 (339 ヒット)

転校してきた半グレの中学女子の揺れる心模様はいかに。
陸上の記録会で希はそれまでの自分を振り切るかのように疾走する。
中学全国新記録も期待される中、ラストスパートに入ろうとしたその刹那、スローモーションのようにして崩れ落ちてしまう。あぁ、なんてこった。


投稿者: hangontan 投稿日時: 2017-9-12 11:49:09 (373 ヒット)

熊谷達也はこんな作品も書いていたのか、というのが第一印象。
山にこもる杣人を描いた物語に魅かれて数冊彼の作品を読んだ印象は、緻密で重厚な作品を綴る作家という印象だった。

そして、今回手に取ったこの一冊はそれまでの重厚さとは別の全体を通して爽やかな風が吹き抜けている、青春小説だった。とても同じ作者の手から生み出されたとは思えない、がらっと異なる作風に新たな驚きとうれしさがこみ上げてきた。

今風の高校生が普通にさりげなく描かれて、眩しくて、切なくて、希望にあふれ、自分の高校生の頃の面はゆさとシンクロさせてみたり、息子の高校時代とかぶせてみたりして読み進む。

若干うまく行きすぎるなぁ、との思いも走るが、それを差し引いてもこの作品は傑作といえる。物語の根底に流れる、故郷で生きるということ、が下支えになっており、ただの青春小説にとどまらない味付けとなっている。

宮城県の仙河海市が舞台のこのシリーズにしばらく浸かってみよう。


投稿者: hangontan 投稿日時: 2017-9-12 11:48:17 (413 ヒット)

ローツェ南壁の単独登攀を目指す青年の物語。
トモ・チェセンのローツェ南壁単独登攀は当時の登山界において衝撃的だった。単独無酸素、しかも三日で達成なんて無理だ、不可能に近い。その信憑性について物議を醸し出した一大事件でもあった。
主人公はトモ・チェセンの手記を読んで感動し、彼のルートを辿ることによって、トモ・チェセンがなし得た偉業の証明をなし得たいと決意する。

物語は終盤にくるまで、とても長く冗長的な挿話が繰り広げられる。クーンブ山群やカラコルムの峰々の描写はそこに行ったことのない読者にとってはちんぷんかんぷんだろう。逆に、実際にその山々に入ったことがあるものにとっては、そのときの思い出とだぶらせながら読み進むことが出来る。

主人公とトモ・チェセンとの出会いの中で、彼が山頂付近に残してきたハーケンのことが触れられる。そのハーケンがキーワードになるのかしら、と読み進めてきて、終盤のクライマックスで、やっぱりこんな「落ち」だったのかという結末だった。

物語の相当部分はストーリー性に欠けるが、終盤の臨場感に満ちた登攀シーンがこの物語を救ってくれた。


投稿者: hangontan 投稿日時: 2017-9-10 16:41:54 (439 ヒット)











かみさんのお供をして塔倉山へ行ってきた。
山頂に着いたときは雲がかかり始め、期待していた剱の眺望は叶わなかった。

なにより驚いたのは取り付きまでの道中。上市から延々と続く里山は初めて見る光景。富山にもこんなところがあったのかと思うほど。舗装された道路の両側には稲刈りを待たんばかりの棚田が続く。人家がまばらな中にあって、そこだけが人の生業を感じさせるという不思議な里山の風景に目を見張った。


投稿者: hangontan 投稿日時: 2017-9-10 16:40:22 (468 ヒット)





















昨夜、なんとなく予感がして外に出てみると満月に近い月が輝いていた。今年、白萩川に沿って歩いてみて初めて気付いた小窓ノ王とチンネに挟まれたV字状の空間。それまで幾度もこの道を辿っていたのに一向に目に止まらなかったのが不思議。その空間に冬の凍てついた月があったなら、などと想像をかきたてながら床に就いた。

もしその月を撮ろうとするならば、真夜中に白萩川のその地点にいなければならず、仮に月が出ていたとしてもその空間に月が来ることがはたしてあるのだろうかと考えてしまう。さらに冬ともなれば曇る確率が高く、苦労してそこまで行って待つ甲斐があるのか。月でなく朝日ならばまだ可能性があるかもしれない。その手始めとして、陽の差し込むチンネの状態を確かめるのが今日の目的だった。

馬場島から白萩川の林道を歩いてその地点に来たときはまだ日が昇っていなかった。うっすらと白み始めた空の明るさから考えると、日はまだかなり北の方から昇るようだ。その朝日に照らされたチンネの岩場はどう映るのか。その場所で日が昇るまで待っててもよかったのだが、それがいつになるか分からず、時間がもったいないので先へ行くことにした。大猫の登りの途中から捕まえられればと算段した。

今年になって4回目の大猫の登り。そのうち2回はマダニに取り付かれている。きょうもそれが心配の種。暑苦しいがフード付きのヤッケをはおる。急登には慣れているが、藪がやっぱり怖い。ウエアの隙間からマダニが入り込まないとも限らない。ときよりマダニが付いていないか点検しながら登る。だんだん明るくなって来て、振り向くとチンネに陽が当たりはじめている。ちょうどよいタイミングが迫っている。だが、そこはまだ樹林帯の中で、木々の間からチンネを覗ける場所を急いで確保した。三脚を立て、その時が来るのを待つ。

思っていたより陽のあたり方は弱々しいが、なんとか陽の差し込む瞬間を捉える事ができた。ただ、下から見たときとはV字空間のイメージが異なり、下からの方がよかったのではないかと思った。まぁ、それはまたいつかの機会に確認しみよう。

これで今日の任務は終了したので、そこから帰ってもよかったのだが、天気も上々なので上を目指すことにした。大猫平から上を見上げるときついように思われるが、ゆっくりペースでいけばそのうち山頂に到着する。
ちょうど天中に達した時で、太陽が剱の真上にある。そうなると、300ミリの望遠で撮っても、コントラストのめりはりがなく、期待していたほどの絵にならない。マジックアワーでのみ望遠が生かされるのではと感じた。しばらくは2レンズ体制でいって、その使い方を見極めたい。

登山口起点:山頂まで4時間10分(撮影三回45分含む) 山頂30分 下山2時間40分


投稿者: hangontan 投稿日時: 2017-9-5 12:17:16 (429 ヒット)























朝、窓を開けると星が見えている。盛夏ときと比べると随分日の出が遅くなった。外の空気もひんやりしている。

月曜というのに馬場島は満車。白萩川の車止めも4台止まっていた。みんなどこへ行くのだろう。林道を歩いて三ノ窓とチンネが見える場所へと急ぐ。着いた頃には青空はなくなり、うすい雲が背景となっていた。ここに差し込む朝陽とはどんなものだろうか、それを夢みて来てみたが、もうそんな時間ではなかった。一時間は早く来なければ。まぁ、いつかその日がくるだろう。それにしても、ここから臨む剱は感動もの。お気に入りのポイントだ。

今年になって三回目の大猫の尾根。4月末と8月初め。その二回ともマダニに取り付かれている。二回目のときは降りてきてすぐに気付いたのだが、むしり取る角度が悪かったせいか、口角が残っているのか、その跡が赤い斑点となっている。今回は絶対にマダニは避けたかったので、下はズボンとスパッツ、上はフード付き長シャツと軍手、とにかくマダニが入り込むすきがないように万全を期した。さらにムシペール30を念入りに塗布。これで完璧だろう。

1400の鞍部がちょうどよい撮影ポイント。1000から1200ぐいらいでも振り向けば、剱全体が臨まれるが、足場が狭いのと、草が茂っているのでもう少し登る。撮影ポイントの見定めも今回の目的の一つ。

1400のピークを右に少し下るとやや開けた場所に出る。ここから剱を眺めることにした。リサイクルショップで手に入れたジャンク品の540円のレンズ。75−300mmでF4−5.6。これがまたよい映りをする。池ノ谷の雪渓の残り具合が手に取るようにわかる。圧巻は三ノ窓とチンネの岩場。これもよく描写できていて、本当に拾いもんのレンズであった。

この間も、下着をめくってダニが付いてないか確認し、ムシペールをスプレーして念を入れた。

雲がなくベタな絵となったが、陽射しが弱かったせいもあって、逆光にならず剱の山肌を撮るにはよい条件だった。いつの日か光の剱を撮ることを夢見て下山にかかった。

登山口起点:1400の鞍部まで1時間 撮影時間30分 登山口まで30分


投稿者: hangontan 投稿日時: 2017-9-5 12:10:04 (375 ヒット)

「黄昏に眠る秋」 ヨハン・テリオン 著 ★★★ ハヤカワ・ポケット・ミステリ

いつも思うけど、スウェーデンの作家の作品は人名が覚えづらい。
ミステリとしてはよくできている。後半から終盤にかけてのなぞ解きはなかなかの見もの。老人施設に入居中の「現役」老人が探偵役といのも時節がらか。
なにより、話の舞台となっている全盛期を過ぎた石灰岩平原という漠とした風景に魅かれる。世界は広いというが、その土地にはその土地特有の空気があり匂いがあり風が吹いている。そんな雰囲気が作品全体を覆っている。
居ながらにして、スウェーデンの島に旅した気分にさせてくれる、そんな作品だ。


投稿者: hangontan 投稿日時: 2017-9-5 12:00:25 (361 ヒット)

ピュリッツアー賞というのは報道、ジャーナリズム関係だけと思っていたが、小説のようにノンフィクション部門があるということをこの作品で知った。

原題も「The Goldfinch」。直訳すると「ごしきひわ」という鳥の名前だ。その「ごしきひわ」が描かれた絵が展示してある美術館が爆破テロにあう、という場面が物語の発端。

語り手はその爆破に巻き込まれた少年。ひとくくりにして言えば、その少年の成長譚。印象は「人生万事塞翁が馬」。語り口は軽妙で、個人的には「ライ麦畑でつかまえて」を彷彿させる。ディケンズの香りがすると評するむきもあるが、ディケンズをまだ読んだことがないので、なんとも言えない。
また、物語のテンポのよさ、予想がつかない展開もさることながら、心理状況やしぐさに至る一挙一動の細やかな描写がこの作品では重きをなしているように思う。自分が知っているポピュラーな楽曲や小説、最近テレビでみた「ビル・アンド・セバスチャン」という映画などが少年の生活の中で語られ、私が生きてきた空間と同調している感覚を覚えた。

非常に長い作品だが、3巻目に入ると物語が一気に加速し始め、そのまま終盤までもつれこむ。

最近手にする本は自分より若い作者、翻訳者が多くなり、歳をくったことを実感する。


投稿者: hangontan 投稿日時: 2017-8-19 5:46:09 (399 ヒット)





称名の滝を撮りに八郎坂に出かけた。駐車場に着いたら、小雨とガスが巻いている。久々に傘をさして、カッパをはおって歩きだす。八郎坂からは称名の滝はガスに隠れて全くうかがえない。まさしく、音はすれども姿は見えず、というやつ。すーっとそんな状態で八郎坂を登りきる。マタタビは花の時期をとうに過ぎ、実が育ちはじめている。獲り頃がわからないので、そのまま放置。

アルペンルートに出ると雨も止んできた。対岸の大日方面はガスの中。七曲がりを過ぎ1800まで歩く。何にも見えない歩きはつまらないのでそこで行動を打ち切った。下りに入って、一瞬だけガスが晴れ、滝が臨まれたが、すぐにガスに包まれ見えなくなってしまった。弘法で見かけた可憐なウメバチソウが一服の清涼剤のように思えた。途中、室堂まで往復するトレランの人とすれ違う。

駐車場起点 9時発 行動時間 5時間


投稿者: hangontan 投稿日時: 2017-8-16 6:04:30 (467 ヒット)
















先日、山友達の家に行ったら、一枚の写真を見せられた。春山で、雪の剱を背景に二人並んで立っている。だが、いったいどこの山頂から撮ったものだかわからない。なにせ遠い昔のことなので、二人とも覚えていない。私は、沢登りをやって辿りついたことが記憶にあり、山域は間違いないのだが、どの山となると確信がなかった。家に戻って調べてみたら、その記録が見つかった。

こう書いている:
沢登りと予想して谷を詰めたが、びっしりと雪で埋まっていた。
山頂の三角点のありかを見定めたかったのだが、雪の量が多すぎてこれも的外れだった。帰り、沢タビでのグリセードがなかなかイケタ。

それにしても、当時は雪渓の下をくぐるなどと無謀なことをしたものだ。今なら絶対にやらないだろう。あの時は若かった。



投稿者: hangontan 投稿日時: 2017-8-12 11:11:56 (407 ヒット)

先に読んだ「蓮と嵐」と構想は同じ。
ベトナム系移民のベトナム的価値観とアメリカ的価値観との順応と葛藤を自伝的要素を多く含めて描かれている。

題名の「モンキーブリッジ」とは、ベトナムの農村地帯に架かる細い竹橋のこと。人生は細くてあやういこの橋を渡るのに似ている。勇気と度胸が必要だが、ちょっとの油断でその橋から足を踏み外すこともある。しかし、渡らないで済ますこともできる。ここに描かれているのは、サイゴン陥落前後にベトナムから脱出した難民の身を切るような物語と、移民を契機に自らの過去を書き換え自己実現を夢見るベトナム系アメリカ人の物語である。

1975年の私といえば、パチンコとマージャンとアルバイトが中心の学生生活を送っていた。将来に対して何の不安があるわけでもなく、もちろん実生活においてなんの不自由さも感じておらず、やがて、どこかの会社に普通に就職して企業戦士になるのだろう、とノウタリンを絵にかいたような人間だった。ベトナムで起きていた混沌と混乱と脱越ボートピープルの悲惨な実態については知る由もなく、平和ボケしたバカまるだしの人間だったといえる。当時、それを必死になって伝えようとしていた人たちもいたのだろうし、テレビやマスコミの報道もあっただろう。それなにの、私は何の関心も示さず自分ファーストの日々を送っていた。今、こうして2冊の作品を手にして、ようやくその時の状況がわかりはじめ、ベトナムの歴史が意外と古いことを知り、ベトナム的価値観の片りんに触れることができた。そのことをうまく伝え描いてくれた作者に感謝の気持ちで一杯だ。

本作品のみならず、ベトナム系アメリカ文学について、訳者の麻生享志が「訳者解説」に詳しく述べており、これもまた一読に値する。簡潔に要点をついた好解説で、すべてを紹介したいくらいだが、ちょっとだけ引用させていただく。

以下引用:
1960年代はじめから30年の間にベトナム系移民によって100冊以上の本が英語で出版されたという報告がある。その多くは辛い戦争の過去とアメリカ移住の経験をあらわす自伝的文学で、ベトナム語から英訳されたケースも少なくなかった。

この状況が大きく変わりはじめたのはここ十年あまりのこと。「祖国の文化規範や言語能力をある程度維持しつつ海を渡った若い世代の移民」俗に1.5世代と呼ばれる移民が成人し、自伝のみならず純文学の作品も発表するようになってからだ。

彼ら1.5世代の移民は、アメリカ生まれの弟や妹と両親ら旧移民世代をつなぐ文化的橋渡しの役目を担ってきた。そのため、自らが置かれた立場や環境にきわめて敏感で、「移民社会内部の世代間のつながりだけではなく、アメリカ的価値観とベトナム的価値観と仲介者」の役割も果たしてきた。この1.5世代に属する小説家、詩人が声を上げはじめたことが、現在のベトナム系アメリカ文学の興隆につながる。

すでに頭角を現してきている若い作家の中には、ベトナム生まれであってのその記憶をほとんど持たない者もいる。移民としてアメリカ社会への順応と葛藤の物語を語ることはできても、かつてのベトナムを想い、作品として再構築する「記憶」を持たないより若い世代の芸術家が今後増えることは必至だ。だから、1.5世代移民の文化・文学は世代間の空白を埋め、すでに失われたベトナムの「記憶」を後世に残すことを使命とする。『モンキーブリッジ』は、戦争の記憶と伝統文化の保存、アメリカという新しい風土の中で生きるベトナム系移民のアイデンティティーの再構築をテーマに描かれた作品に他ならない。


投稿者: hangontan 投稿日時: 2017-8-6 6:28:45 (411 ヒット)





















きょうの課題は540円のレンズでどこまで迫れるかだったけど、9時過ぎから剱はお隠れになってしまい、ねらっていた写真は撮れなかった。取付きに向かう道中1時間ばかし道草をくっていたのと、登山途中にいくらでもチャンスがあったのだが、好天につられて、つい高みを目指したのが仇となった。馬場島はオロロ天国だし、再びマダニに食いつかれるしで、大猫から猫又山周辺はマダニ警報が発令されてもおかしくない状況。登山道があっても、下草が生い茂り、マダニにとっては獲物を待つ環境が整っている。先行者は特に要注意。白山のように登山道ちゃんと整備出来ないもんかね。

登山口起点 池塘まで2時間10分 50分滞在 下山2時間


投稿者: hangontan 投稿日時: 2017-8-6 6:17:32 (353 ヒット)

重いという印象が先にたつベトナム戦争という主題だが、本小説にはそれもあるが、それよりはむしろ全編を通してさわやかな風が吹き抜けているという読後感となった。

ハスはベトナムのシンボルであり国花でもある。題名の「蓮」は様々な意味合いを想像させる。ベトナムという国そのものであり、ベトナム人の心、主人公のマイとその母のクイ。そして「嵐」はベトナム戦争であり、それに翻弄されながらもしたたかに生き抜くベトナム人のいきざま、クイの葛藤、マイの父が抱く友人への疑念。

訳し方もよかったようで、大変読みやすい。テーマは多重で深いが、飾り気ののないさらりとした文章がその重さを消してくれたようだ。

作者一作目の「モンキーブリッジ」も読んでみたい気になった。


投稿者: hangontan 投稿日時: 2017-8-6 6:15:14 (380 ヒット)

山を始めて間もなく買って、それから何度も読んだ本。
私にとって「星と嵐」の山行きは遠い過去のものとなってしまった。

黎明期の登攀紀行のバイブルとも言える本書。登攀の一挙一動はもとより、登攀に臨む作者の心模様も素直に飾りけのない文章で綴られている。

山の征服はまず登りやすいルートを見いだすことから始まり、あらかたの未登峰が登りつくされてしまうと、次はより困難なルートからの登頂に目がいくようになる。必然的に登山形態も側壁の登攀が主体なものへと変化していく。それはより過酷な試練を登山者に課すことになり、自然の脅威のもと多くの挑戦者が散っていく結果にもつながった。しかし、その厳しい試練に耐えて成し得た登攀は、挑戦者により多くの達成感、充足感と喜びを与えることになる。

本書には六つのヨーロッパアルプスの名だたる北壁の登攀紀行が綴られている。レビュファはその一つ一つの登攀の模様を唄うかのように語り、あえて困難なルートに挑むことの登山者としての性を見事に表現している。

いま自らの登山の限界を決めつけてしまっている私にとっては、ちょっぴり青春のしょっぱさを思い起こさせてくれるもする。


投稿者: hangontan 投稿日時: 2017-7-24 10:25:49 (361 ヒット)

中村文則、何やってんの?
四年前、NHK朝のラジオ「すっぴん」のなかで、水道橋博士がゲスト出演していた中村文則を評して、まだ若くして芥川賞をとって順風満帆の彼に対して、「今は何をやってもうまくいっていると思うけど、これでいいんかなと思う時がきっと来る」とアドバイスしていた。それに対して中村文則の反応は「自分はまだそんなに苦労していないから、そんな気持ちはわからない」と。

水道橋博士の予感的中。宇宙の塵芥を凝縮した大作を描こうという意欲は感じられるが、持ち込んだテーマのわりには、すべてにおいてうすっぺら、物語も中途半端、挿話を繋いでいく書き込みが全く足りない。作者自身もそれには気付いているだろうに。なんでこんな作品に仕上げてしまったのだろう。作者あとがきの中で「現時点においては、これが僕のすべて」と述べているのがなんとも苦悶に満ちている彼を象徴しているように思えてならない。次回作に期待。


投稿者: hangontan 投稿日時: 2017-7-22 10:01:32 (333 ヒット)

桜庭一樹ここにあり。こういう架空というか虚構と現実をないまぜにした世界を描く作者の作品が好きだ。へんてこな登場人物の名前も私のツボにハマる。
聖マリアナ学園の裏史を綴ってきた読書クラブの物語。高校時代にそういうことを思いつかなかった自分の平凡さ加減を再認識してみたりもする。この作品をヒントに、学園の裏史を綴る高校性が本当に現れるかもしれない。


投稿者: hangontan 投稿日時: 2017-7-22 9:56:53 (379 ヒット)

いうなれば、これはマンガだ。それも中高生向けの少女漫画。
それを還暦を過ぎた男が暇にまかせて読んでいる。

十代前半といえば、私はこんなにも多感であったろうか。身の回りにこんなにもいろんなことがあっただろうか、こんなにもいろいろなことを考えて生きていただろうか。ひたすら部活と遊びとそれがあたりまえかのように人生の決めごとの一つとして何の疑問も抱かずに学業に打ち込んでいた、だけだった。中学から高校にかけての勉強は未知のものへの探求心と好奇心の扉となったし、テストの評価による達成感もあって、勉強は嫌いではなかった。ただ、国語だけはちんぷんかんぷんだった。興味もわかなかった。国語には答えがないからだ。理屈ではないもやもやとした世界はどうにも苦手だった。人の心をおもんばかるということに疎かったのだと思う。それは今も同じだ。

それは置いといて、十代のころ、何があっても、どんな苦労があっても、それはやがて将来の糧となる、ということは大人になってから思うことで、その渦中にあるときは見えるはずもない。荒野、君には未来がある、大きな可能性を秘めている。だから、荒野、がんばれ、いっぱい悩んで、恋して、いっぱい泣いて、笑って、大きくなれ。


投稿者: hangontan 投稿日時: 2017-7-17 17:45:49 (345 ヒット)

久しぶりに中村文則を読んだ。最初に出会った頃のような衝撃はない。人の心をミキサーにかけて撹拌してビンに流し込むと、いくつかの層に分かれる。中村文則はその中の悪の部分を抽出して作品にする。こんなにも邪悪な物語を書きつづる作者の思考は私の及びのつかないところにある。はたして神の子なのか、悪魔の化身なのか。

最初から中盤にかけてはよかった、作者独特の陰の部分がよく出ていた。主人公が整形手術を受けて、他人になりすますところまでは。他人になりすまして後どんな悪が語られるのかと期待したのだが、どろどろと蠢くような悪は語られず、挿話にも切れが薄れていった。

悪の中からほんのりと光が射す終わり方は、他の類型となんら変わらない。中村文則が語る「悪」には似つかわしくないと感じた。


投稿者: hangontan 投稿日時: 2017-7-7 13:47:52 (338 ヒット)

ちょっとエロっぽいサスペンス。
多くの賞をとり評価の高いサスペンスだが、それも頷ける、よく出来た作品だ。
冒頭から引き込まれ、その後の展開も目が離せず最後まで一気読み。これまでのミステリーにはなかったセクシーな場面も組み込まれていて、それが作品の流れにうまく乗っていてエンターテイメント性が高まっている。

この作者は読み手の心をよく掴んでいる。ミステリーのつぼを押さえて、どうすれば読者に喜んでもらえるかをよく心得ている。と思いながら読み進んでいった。そう思ったら、「日本版著者あとがき」の中で、著者はまさしくその点について述べていた。『本書には、サスペンス/スリラーを好む読者の誰しもが求める要素が備わっていると私は自負している。つまり、心をぐいとつかむドラマ、魅力的なヒーローと悪役、そして最初から最後まで、ページをめくるのがもどかしいほどの意外な展開だ』と。

そうは意図していても、それを作品として完成させるのはそう簡単なものではない。それを作者は破綻のない長編に仕上げている。サスペンスの醍醐味がいっぱい詰まった本作品は今後ますます多くの人に支持され読み継がれていくことだろう。


投稿者: hangontan 投稿日時: 2017-7-7 13:45:15 (351 ヒット)

サラ・パレツキーの作品は探偵小説という範疇に入るのだろうが、ミステリーの謎解きより、事件の背景にある社会問題を捉えた社会派小説の印象が色濃い。今回は貧困と格差社会に焦点をあてている。アメリカという国にあっては、貧困から脱するチャンスは誰にでも与えられている。だが、現実は厳しい。貧困家庭に生まれた子供は、学業をこなすのも容易ではない。アルバイトをして家計を助けながら学校へ行く。部活をやっていれば、勉学がおろそかになるのは否めない。貧困世帯が住まう環境はドラッグやギャングスタからの誘惑も多く、子供たちがその道に通じていくのは自然の流れともいえる。まさし貧困の連鎖、格差の連鎖は現実に存在する。

日本でも格差の連鎖を感じることは多々ある。東大や有名大学への進学家庭のおおかたは裕福である。そこを卒業したものにはそれなり進路が約束されている。百パーセントそういう訳ではないけれど、そうした流れはたしかに存在するように感じる。

ただ、アメリカと日本との違いは、アメリカでは貧困が生む負の面が際立っている点だろう。ドラッグ、セックス、暴力、殺人といった社会のマイナス面が貧困と直結している場合が多い。

本作品では、主人公のV.Iはそういう貧困家庭や子供たちを差別し陥れようとする巨大なものと敢然と立ち向かう。V.Iと子供たちの名演技には光るものがあるが、敵となるリッチな悪役が定型的すぎたのが少し残念


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