投稿者: hangontan 投稿日時: 2014-5-16 20:17:10 (444 ヒット)



北方謙三の大水滸伝は「水滸伝」全19巻、「楊令伝」全15巻、そして「岳飛伝」第8巻まで来た。その前哨ともいえる「楊家将」上・下、「血涙」上・下を含めると合計46巻の超大作。今後「岳飛伝」がどこまでいくのかわからないが、シリーズ全作を一気読みするとなれば、かなりの量。大満足、大感動、腹いっぱい、間違いなし。できれば「楊家将」から順に読んでいきたい。

梁山泊はもともと、腐敗しきった宋という国を何とかしたい、という義勇兵と義民の集まりであった。個性的でカリスマ的な武人が次々に登場し、縦横無尽に活躍するさまは実に小気味いい。わくわくしながらページをめくっていって、あっというまに一冊読み終えてしまう。はたして梁山泊はどうなるのか、あの英傑の運命はいかに、と胸躍らせる、それは得も言われぬ本読みの醍醐味、リーダーズ・ハイ。

宋との戦いも、「楊令伝」前半で梁山泊最強ともいえる楊令の死で一幕を終える。その後南宋が興り、中華は金が支配するという構造になる。梁山泊は交易を通して基盤を盤石なものし、一方南宋も次第に地盤を固めていき、希代の将軍岳飛を切り捨て、新体制のもと、梁山泊と対峙していく。いったいいつになったら胸のすく大活劇がみられるのか、「楊令伝」後半からじらされっぱなし。

しかし、いよいよ「岳飛伝」第8巻になって、楊令の死後、膠着状態となっていた中華がまた動き出そうとする様相を呈してきた。来るべき戦に向けた金、南宋、梁山泊、それぞれの動向を描いて見せている。そういう意味では、「岳飛伝」第8巻は大水滸伝のフィナーレに向けた序章といってもいいかもしれない。

梁山泊において軍隊とは、侵略を目的としたものではなく、自由経済に国のあるべき姿を見出し、それが脅かされたときのためにある、とする。梁山泊が理想とする国家像は現代のどこかの国のそれと重なり合う。覇権を競い合う金と南宋が連合を組んで両者にとって最大の敵である梁山泊をつぶしに来るのか。一方では、北西から金を脅かしつつある元の動きも気になるところ。まさか大水滸伝に元が出張って来ることはないと思うが、今後の展開にどう影響をおよぼすのか興味は尽きない。手に汗にぎりつつ「岳飛伝」9巻を待つ。


投稿者: hangontan 投稿日時: 2014-5-7 19:06:03 (510 ヒット)

アリス・マンロー、三冊目。

2103年10月にノーベル文学賞をうけたアリス・マンロー。
本書はその後に日本で発刊された短編集。

訳者あとがきの中で、ノーベル文学賞受賞のあと日本の読者に読んでもらいたい作品は、と問われて、作者はこの本「ディア・ライフ」を勧めている。

本書は、高齢の作者にとっては、もしかしたらこれが最後の短編集となるかもしれない。
はたして、ノーベル文学賞受賞者の神髄はいかに、と思って手にとった。

だが、これまで二作品、作者の作品を読んできたが、そのなかでも、もっともおもしろくない作品であった。ネット上の書評でも指摘されていたが、とても読みずらいという印象が先に立つ。

作者が得意とする短編。それが短編集としてまとめられたときに、そのあつめられた作品が合わさって、倍の魅力を引き出してくれる。それが、アリス・マンローの真骨頂で、それが故でのノーベル賞だったのでないかと思う。しかし、本書「ディア・ライフ」は、短編集の部品となる短編の精度が著しくよくない。というか、あまりにも話が唐突すぎ、抽象的すぎて、もしかしたら、自分がそれについていけないだけなのかもしれないが、わかりにくい作品がほとんどだった。

彼女の作品で初めて読んだ「林檎の木の下で」で受けたインパクトが強烈だっただけに、本作品はどうしてもそれと比べてしまい、作品的に劣るし、おもしろくない、という感想に至った。

ノーベル賞作家ということで、初めて彼女の作品を手にとる人もいるかと思うが、そんな人が本作品を読んで、はたしてどう感じるだろうか。「これはおもしろい」と絶賛する人はそんなに多くはいないだろう、と思ってしまった。


投稿者: hangontan 投稿日時: 2014-4-21 18:56:15 (421 ヒット)

「半沢直樹」がバンカーのバイブルならば、「図書館戦争」は図書館職員の必読書といったところか。作品全体から漂ってくるノリは何故か村上龍の「13才のハローワーク」を思い出してしまった。

図書隊が武装し、図書館の自由を守るという荒唐無稽な物語。ストーリーがハチャメチャなら登場人物もぶっ飛んでいる。少女漫画を文章化したらこんな風になるのだろう、という印象。主人公等が交わす会話は漫画のセリフそのもので笑えてしまうのだが、コント風ながら頷いてしまう妙な説得力がある。

表紙カバーの漫画チックなイラストが実にうまい。本書の内容と関連付けて描かれていて、そこに物語のすべてをくみ取ることができる。

作者は以下の「図書館の自由に関する宣言」をとある図書館で見かけて、この作品のアイディアを思いついたという。いつも利用している群馬と富山の四か所の図書館の書士さんに、この宣言文について聴いてみた。結果は、知っていると知らないと答えた人が半分半分。知っていると答えた人も、かなりうろ覚え。この宣言文は図書館員の矜持と受け取ったが、意外にも当の書士さんたちにはそうでもなかったようだ。

図書館の自由に関する宣言
一.図書館は資料収集の自由を有する。
二.図書館は資料提供の自由を有する。
三.図書館は利用者の秘密を守る。
四.図書館はすべての不当な検閲に反対する。
図書館の自由が侵されるとき、我々は団結して、あくまでも自由を守る。


投稿者: hangontan 投稿日時: 2014-4-17 19:14:22 (419 ヒット)

高校の時、岩波新書を手に取ることがカッコよく思え、同時に、それが知的好奇心を満たしていってくれた、そんなほろ苦い思い出が、この作品を読み終えてから、この本が岩波書店から出されていることに気づき、脳裏をよぎるのであった。

仮に、本の中で「もし、〇〇だったとしたら」という仮定が投げかけられたとき、読者は「自分だったらこう思う」、とその仮定に対する自分なりの答えを準備して読み進むであろう。本書では、あの9.11のグラウンド・ゼロに設置する記念碑を想定し、公募のすえ選ばれたデザインが、イスラム教徒(実際はれっきとしたアメリカ国籍を持つアメリカ人なのだが)の作品だった、ということから始まる。

はたして、そのデザインは本当に採用されるのだろうか。本作品を読み進んでいく中で、その仮定が設定されたときに抱いていた自分なりの解答が試され、吟味され、こなされていく。それはまさにテレビ番組の「白熱教室」のようで、特に番組中で強いインパクトを受けた「正義とは何か」と「人生における選択の重要性」、この二つの命題が、この作品で投げかけられ、問われているように思わされた。

公平さと自由が尊重されるべきというアメリカ建国以来の伝統と正論だけでは前に進まないという現実、そこには明らかに矛盾が存在するのだが、それに対する答えはあるのか、あるとすればどういう形がベストなのか。本書では、物語の中で多様な登場人物が「白熱教室」に登場し、「意見」を交わし、答えを導き出そうとする。そのたびに、私は自分の考えと照合し、その思いは揺れ動く。

エンターテイメント的には地味な内容だが、イスラム教徒とアメリカ人、双方に認められる「正義」と「選択」について、自分の考えを練り直させてくれた作品であった。


投稿者: hangontan 投稿日時: 2014-4-9 18:51:18 (353 ヒット)

母「晴子」から、子の「彰之」に宛てた手紙。
まさに晴子の心の内を子への手紙という形で綴った「情歌」、読んだ後となった今では、これ以外のどんな題名もピタッとくるものが思い浮かばない。

晴子の手紙は、晴子と嫁ぎ先の家系の年代記でもあり、昭和の一時代を生きた青森の名家の物語であり、晴子自身と長男の彰之がなぜ今の彰之に至ったかを知るには十分な内容である。
人、一人ひとりにはそれぞれの生い立ちがあり、そこに至る歴史がある。それを語るには、順番に過去に遡っていかねばならない。現在が一つの点であるならば、過去に遡ることはその点が線になり、その線がさまざまな時点において枝分かれし、その枝分かれした線がさらに分岐していくことを意味する。晴子はその枝分かれしたある点から語りだし、逆に未来、つまり現在へと複数の糸を紡ぎ合わせていく。

一方、母からの手紙を遠洋漁業の船の上で受け取った彰之は、断片的に紡がれていく糸に、手紙の中に出てくる自分とそのときの自分の胸中を思い出しては、自分のアイデンティティを見出したはず(読み手の自分はそう感じた)。彰之は自分のルーツがどうであろうと、現在ある自分は自分であり、それまで紡がれてきた糸に執着する様子はうかがえない。かといって、まったく無関係という“間”があるわけでもなく、自分がその糸の上にあることから逃れられないことも承知している。また、晴子の手紙にはない自分だけの糸も晴子の綴られた物語と共に存在し、それがまた彰之自身を形作っている。

とっつきは茫として、物語に入っていくのに時間がかかったが、読み進むにつれて霧のように巻いていた晴子の時間の断片が次第に繭のように形を成してくると、いつの間にか深みにはまり込んでいく。晴子の手紙と彰之自身の物語の絶妙な融合にたっぷり酔わせてもらった。


投稿者: hangontan 投稿日時: 2014-4-7 21:38:12 (386 ヒット)

“龍”の末裔とおぼしき登場人物が織り成すファンタジー。
テーマとしては興味深いものがあるのだが、あまりにもあっさりとした内容にちょっとがっかり。
もっと深掘りすればよかったのに、と思った。


投稿者: hangontan 投稿日時: 2014-4-4 17:54:21 (392 ヒット)

冒頭から序盤にかけてのアップテンポの乗りに、あれっ?と思いつつ、その調子のままで事件は起こってしまう。歯科医師一家4人の惨殺事件。犯人はたちまち逮捕されてしまい、そこで上巻の終わり。はたして下巻はどんな展開になっていくのだろうか。犯人も犯行をあっさりと認め、これ以上話の持って行きようがないと思われるのだが・・・。

情状酌量の余地の無い、理不尽で残虐な犯行にいくら理由付けをしようとしても、そのことに意味があるのか。事件の背景を究明し、事件の真相、犯行動機と犯人の心情に迫ってみたところで、いったいそれが何になるのだ。後半では、事件に関わった刑事のそんな心の内を中心に描かれている。

繰り返される刑事と犯人とのやり取りで埋め尽くされるページ。だからどうしたと思ってしまう。

この作品はフィクションなのだが、物語を読んだ直後に千葉県で起こった通り魔殺人と無性にだぶってしまった。


投稿者: hangontan 投稿日時: 2014-3-31 19:22:20 (482 ヒット)

久しぶりのキング。
分厚い2冊の作品だが、スティーヴン・キング作品としてはさほどでもあるまい。
スティーヴン・キングの作品を読むたびに、ノーベル文学賞とはいったいなんぞやと思ってしまう。世界的な大ベストセラーを何冊も出している彼がその賞にふさわしいと思うのだが・・・。

キングの作品には時として奇天烈な設定、想定外の話運びが出てくることがあるが、この作品もその例外ではない。ただ、本作品において奇妙な設定を除けば、全体としてはとてもよくできたハートウォーミングなラヴストーリーといえる。だが、そのたった一つの設定がなければ本作品自体なりたたないのだから、なんとも奇妙な作品といえば奇妙な作品ではある。

そのキモとなる設定とは「2009年から時間を遡ってケネディ大統領の暗殺を阻止すること」。これだけでも物語的には十分興味がそそられ、読む方としては本当に阻止できるのか、だとしたらどうやって、タイムパラドクスの問題はどう解決するのか、ということがつい先に頭の中に浮かんでしまう。だが、本作品はその方法論に主眼を置いたミステリー的な作品ではなく(もちろんそれらは作品中でうまく処理されている)、最初に述べたように、最終的にはラヴストーリーに仕上がっているところがミソなのである。

JFKに関する本としては、これまで「ベスト&ブライテスト」「ジョン・F・ケネディ ホワイトハウスの決断」を読んだくらい。(特に「ベスト&ブライテスト」はケネディ時代のアメリカとその背景を知るには最適な作品と思っている)。だが、それらはいわゆるジャーナリストや識者の目から見たJFKの姿であり、当時の世界観である。しかし、本作作品には、当時、庶民はどんな生活を送っていたのか、キューバ危機、公民権運動の実際はどうだったのか、それらが社会生活にどんな位置を占めていたのか、どんな影響を及ぼしていたのか、が盛り込まれている。先に読んだケネディ2作品と併せて、より当時のアメリカが身近に思えてくるのだった。そして、ケネディ暗殺の首謀者とされるリー・ハーヴェイ・オズワルド。彼はいったいどんな人物だったのか。どのようにして暗殺を計画し、実行までに至ったのか。

主人公が時間旅行をして、過去に入り込む年代は1958年。まだケネディ暗殺までには5年の月日がある。だが、この5年間に経験するすべてのことがケネディ暗殺阻止その瞬間までの必要条件なのだった。もちろん、暗殺阻止はあとの時代にも影響を及ぼし、彼が元居た時代に戻ったときにはとんでもない変化をもたらしていた。主人公が5年間の時間旅行で出逢った最愛の恋人との別れ、彼が暗殺を阻止したために起こった歴史の変化。この最悪の結末をどうするのか、主人公は悩み苦しむ。しかし、著者キングはそれをものの見事に解決してしまう。さすが〜。


投稿者: hangontan 投稿日時: 2014-2-15 18:29:03 (515 ヒット)

鳴海章の「薩摩組幕末秘録」つながりで手に取った一冊。
ここにも越中富山の売薬さんが登場する。今回は公儀隠密として薩摩藩の内情を探る役目。越中売薬は特別な鑑札を持っていて全国津々浦々に入り込むことが出来た。薬商売の上がりは相当なものであって小藩の富山藩の財政はかなりそれに頼っていた。その影響は、明治、大正、昭和へと続き、富山の経済発展の基盤となっていた。薬商売だけではなく各地の様々な情報も持ち帰って、お互いにそれを交換しあって、またそれを各々の商地で役立て、お得意さんとの信頼関係を築き上げていった。農耕の技法や種の紹介などはその良い一例である。いわゆる「つなぎ」役としての役割も担っていたといえる。ご公儀がその情報網を利用していたとしても不思議ではない。世が世ならばCIAのエージェントといったところか。本作品の中で売薬さんはまさしく「つなぎ」として登場する。それに対して、薩摩側での情報源は「草」と呼ばれ、これもまた世を忍ぶ仮の姿を持っている。

幕末の薩摩藩の活躍は、豊富な資金があったからこそという見方もある。「薩摩組幕末秘録」にも登場したが、家老の調所広郷がひっ迫した藩の財政を立て直し、かつ莫大な資金を備蓄していた。だが、調所は島津斉彬らの策に貶められてしまう。その意趣返しとして、維新の立役者となった西郷隆盛、大久保利通をはじめとした斉彬派は調所派によって弾圧を受けていた。時を経て、調所が備蓄した資金が西郷隆盛、大久保利通らの活躍の支えとなったとは、なんとも皮肉な成り行きである。(本作品は西郷隆盛、大久保利通らが登場する以前の物語)

物語は主人公の趣法方高橋源之進を中心に推移する。「趣法方」とはこの物語で初めて知って、よくわからない役職なのだが、藩の管理部門であることは話の中からなんとなく伝わってくる。越中売薬の伏見屋が源之進宅を訪問し、「つなぎ」と「くさ」を演じる。財政改革の薩摩藩の模様を底辺に置きながら様々な物語が源之進を絡めて描かれていく。薩摩藩から虐げられていた一向宗と農民の姿(現在我が家に毎月来ていただいているお坊さんの読むお経が、そのまま活字になっているのをみて驚いた)、藩が行う奄美を通しての抜け荷、貿易を迫るフランス、イギリスなど外敵の脅威へスタンス、斉彬派と調所派との確執、そしてそこから降って湧いた「お由羅騒動」。幕末の混沌とした薩摩藩の一場面、そこに我々越中売薬の仲間が一枚噛んでいたとはなんともロマンチックな話ではないか。

簡潔で飾り気のない文章は読みやすく、論理的破綻もなく、しかも物語性は十分。中編としてよくまとめられた作品だと感じた。


投稿者: hangontan 投稿日時: 2014-2-14 17:57:40 (454 ヒット)

鳴海章、二冊目。最初に読んだ「薩摩組幕末秘録」ですっかり鳴海章に魅了されてしまった。そして、手にとった本書。

一時期評判となった「ゼロ・シリーズ」の第一作目ということらしい。鳴海章としては初期のころの作品。

航空冒険小説と呼ばれるだけあって、戦闘機同士のドッグ・ファイトの描写が秀逸。手に汗握る緊張感と臨場感。多くの人々に支持されたわけが良く分かる。もちろん航空自衛隊の飛行機乗りが主人公。

「薩摩組幕末秘録」でもそうであったが、鳴海章の書き方には癖がある。いきなり場面が変わり、その場面の説明がそれに続く。物語が時間軸で動いているとしたら、その時間軸のある一点に突然漂着し、その点に膨らみを持たせて、時間軸の線を構成させていく。そして、それが前後重なり合うようにして全体の物語が形作られ、読む側にもそれが見えてくる。このやり方は別に鳴海章に限ったことではないが、彼の場合、場面の切り替えが非常に多い。それが、時間軸上のどこに位置するか、一瞬考えさせられることもあるが、それもまた想像を掻き立たせてくれる要素となっている。

今でこそその存在が当たり前のこととなったステルス戦闘機、その導入秘話をモチーフに取り込んで、ミステリータッチに仕上げられている。


投稿者: hangontan 投稿日時: 2014-2-10 18:13:31 (439 ヒット)

数学的考えの指南書。
なのだが、前半、その語り部となる主人公がコテコテの富山弁を話す。ただそれだけが理由で、本書を手にとった。とすれば、著者は富山に縁のある人物かと思って、巻末に記載の著書紹介を覗いてみたら、そうでもない感じ。だが、ネイティヴ顔負けの富山弁であることは間違いない。

落語でいうお師匠さんみたいな主人公が、最初は身近なものを例にとって、算数をひも解いてくれる。だが、この手の本によくあるように、だんだんその例えが高度なものになっていき、しまいには、ついていけなくなる。まぁ、字面だけを追うのが精いっぱい。

それにしても、趣味の延長みたいな、こういう類の本は、いったいどれくらい売れるものだろうか。と、いらぬことを考えてしまう。


投稿者: hangontan 投稿日時: 2014-1-21 9:34:31 (1039 ヒット)

これはおもしろい。星五つを付けたが、その倍付けてもいいくらいのおもしろさ。
久々に出逢ったお宝に大満足。近々では池井戸潤以来の大ヒット。

題名にある「薩摩組」とは、江戸時代、越中富山から出向く売薬商は旅先ごとに「仲間組」を結成していった、その中で薩摩の国で商売をするものの仲間組をいう。その売薬さんが主人公となった時代小説。

北前船が蝦夷から薩摩へ昆布を運んでいて、売薬さんがそれに関わっていた、という話はおぼろげに聞いてはいたが、その裏にこんな秘話があったとは。

冒頭、いきなり「水橋浦」が登場する。これは今でも存在し、私が生まれ育った町。その場面で目が点になった。越中売薬は富山藩で始まったが、加賀藩の支藩である富山藩自体はまことに小藩で領地は極めて少ない。現在の富山県のほとんどは加賀藩の領地で、富山藩と隣接する我が水橋浦も加賀藩領に属した(これは、この本を読んであらためて知ったのではあるが)。当時、財政難の窮地にあった薩摩藩は掛け売りを禁ずる藩令を出した。当然、先用後利がうたい文句の売薬商の出入りも禁じられることになる。薩摩組はその打開策として、蝦夷の昆布を薩摩藩に運ぶことを考えた。その交渉役に主人公の売薬さんが登場する。一方、加賀藩は「抜け荷」の裏にある謀略の匂いを察知し、富山藩がそれに関わったとなれば宗主藩である加賀藩にまで類が及ぶことを恐れ、売薬さんの動きを止めようと加賀藩剣術指南役を派遣する。物語は主にこの二人の主人公を追って推移する。

荒波にもまれる北前船の航海の場面に釘付けになり、蝦夷ではアイヌ人を巻き込んで昆布を巡る騒動に引き込まれ、長崎では謀略が見え隠れし、物語は薩摩で終焉を迎える。もちろん、チャンバラ場面も息をのむ面白さ。二人の主人公を取り巻く人間模様も秀逸で、ストーリー展開とうまく絡み合っている。

巻末にある数多くの「参考文献」にも驚かされた。作者のこの作品への並々ならぬ意欲がうかがえる。これだけの作品を仕上げた作家の気分はいかがであったろうか、さぞ充実し、すがすがしい気分であったろうと想像する。

300年以上も続く伝統ある越中富山の売薬業、その神髄を垣間見ることができる作品でもある。


投稿者: hangontan 投稿日時: 2014-1-19 19:12:16 (564 ヒット)

真山仁の作品を「コラプティオ」「ベイジン」「マグマ」の順で読んできて、ようやく友達のブログで紹介されていた作品に辿りついた。

だが、実際に書かれた順番は「マグマ」「ベイジン」「コラプティオ」「黙示」。
率直な感想としては、「マグマ」「ベイジン」がかろうじて小説としての面白みを保っていた感があるが、「コラプティオ」「黙示」は残念ながらあまり読みごたえのあるものではなかった。「ハゲタカ」シリーズをまだ読んでいない段階で、えらそうなことは言えないが、まぁ、あれだけ社会現象にもなるくらいテレビドラマが評判だったことから推察すれば、小説「ハゲタカ」もそれなりの作品であったことが伺え、真山仁の作品は筋立てがマンネリ化してきて物語の醍醐味が低下してきているのではないかと思えてしまう。特に「ベイジン」と「コラプティオ」の差が著しい。

彼の作品は想像の世界を彷徨わせてくれるというより、ジャーナリストのルポ的な印象が強い。「ベイジン」までは、それに人間ドラマをうまく絡み合わせて、彼独自の境地を開いてきた。ジャーナリストの目から見た社会の不合理、金融、M&A、原発問題、エネルギー問題、を主題として掲げ、それに物語の核となる人間の弱さ生き方を味付けして、うまく演出してきたと思う。しかし、「コラプティオ」「黙示」では、テーマがかちすぎて、小説としての書き込みがうまくいっていない、というか人間ドラマが上滑りしているという印象を受ける。つまり、目の付けどころはすばらしのだが、その味付けにもう一工夫が欲しいというところ。その点、池井戸潤は、彼と比較するのもなんだが、同じ身近なテーマを取り上げていても、物語性については秀でたものがある。これは、いくらそれなりに書こうとしても描けるというわけでもなく、やはり天性のものだろう。

ジャーナリストとしての真山仁は客観的に物事を捉えて、それを伝えることはできていると思う。いっそのことなら、人間ドラマを捨てて、マイケル・クラントンのような単純エンターテイメントに徹した方がいいような気がする。

さて、この「黙示」という小説。
ヘリコプターからの農薬散布によって子供が被害を受ける場面から始まる。
はたして、農薬は必要悪なのか・・・レイチェル・カーソンの「沈黙の春」を彷彿させる出だし。

金融、原発、エネルギー問題に続いて、今回のテーマは「農薬禍」かと思ったら、物語はそれだけにはとどまらなかった。我々の食生活にとっては切っても切れない関係にある農薬。農薬は使わない方がよいに決まっているが、農薬が無ければ、スーパーに並ぶほとんどの野菜は供給不能に陥ってしまうだろう。すなわち農薬問題は農業問題ひいては食糧問題と対で論じられ、さらには遺伝子組み換え作物の是非にまで及んでいく。そして、物語はCSRという聞きなれないテーマも内包して、さらには、TPP問題も取り込んで、問題提起を促すには十分な作品となっている。

だが、先に述べたように、これだけの大きなテーマを掲げたわりには、人間ドラマは画一的で、予定調和的な終わり方。中途半端という感が否めなかった。作者は何かあせっているように思えてくるのだが・・・。


投稿者: hangontan 投稿日時: 2014-1-17 21:08:37 (373 ヒット)

中国大連に世界最大級の原子力発電所を建設し、その火入れを2008年開催の北京オリンピックの開会式と同調させ、オリンピックに花を添え、かつ中国の威信を世界に知らしめようとする物語。
原子力発電所建設技術顧問として招聘された日本人技術者と中国人の建設監督官が主たる物語の構成要素として登場する。

工事の手抜きやサボタージュなど、建設現場のあらゆる場面で日本の常識が通用しない。だが、原子力発電所では一分の瑕疵も許されない。いわば中国標準のなかでどうやって完成にこぎ着けけるか、現場作業員にどうやってそれを理解してもらえるのか、それがテーマの一つ。また、中国人監督官は中国独特の文化に縛られ、すなわち、わいろ政治と権力闘争は当たり前、常に誰かが誰かを監視し、自分を守るためならば誰かを陥れることは何とも思わない、だが、それがいつ自らにふってくるか、誰も信用できない、という恐怖感を常に抱きながら工事の進捗を監視する。

最初は文化の違いとお互いが抱いている先入観によって、日本人と中国人の溝はなかなか埋まらない。しかし、次々と湧いて出る不具合を克服していく過程を通して、いつしかお互いを認め合うようになっていく。そして、最後にはわだかまりも消え、何としても完成させるという「希望」が両者を結びつけ、クライマックスを迎える。

まずは率直な感想から。
中国人の「程度」は本当にこんなものなのかという疑問。ここに描かれているのは、あまりにも、これまで自分が抱いていた中国像そのままだった。やっぱりそうなのか。もしそうだとしたら、この作品が中国語に訳されて、中国に紹介されたなら、当の中国人はどう感じるだろうか。腐敗した政治構造もしかり、ほんとうの民主主義国家とはとても言えない中国の闇が描かれている。本作品は原発建設過程を通して、原発の「いろは」もわかりやすく解説してくれている。だが、本当の主題は、作品に書かれている原発建設の困難さや事故の際の脅威、そしてそれを取り巻く人間模様を描いたものではなく、中国とはどういう国なのかを言わんとしている作品ではないかと感じた。

では、素直ではない感想。
この作品は2008年、つまり3・11前に書かれている。当時としては原発の脅威の啓蒙書としても受け入れられていたのではないかと思う。杜撰な管理下で原発が建設されたらどうなるか、本書はそれを暗示している。そしてまた、日本の技術の先進性と対極の中国の後進性と原発認識の甘さ。作品でも描かれているが、現場内のちょっとした水たまりもよしとしないシビアな姿勢とその原因の追及。一般の建屋建設現場でもそれは検証の対象となるのだろうが、原発においてはその重みがまったく異なる。それはネジ一本からコンクリート、現場に配置される機器類の品質、すべてにおいて厳重にチェックされなければならない。作品中、中国側のあまりにも杜撰なやり方に対して日本人技術者らは幾度も中国人と衝突する。
だがしかし、3・11で起こった悲劇はいったなんだっただろう。この作品で描かれている日本人技術者の矜持とはいったなんだったんだろうと思ってしまう。想像を絶する大地震がもたらした惨劇と言ってしまえばそれまでだが、本当にあれを作った技術者たちは最悪のことを想定していたのだろうか。構想、設計から、ネジ一本の細部に至るまで、本当にシビアな目でみていたのだろうか。そして、あの惨劇後、いまだに続々と出てくる不具合。これじゃ、この作品の中に出てくる「中国」とたいして変わらないじゃないか。そう思えてならなかった。


投稿者: hangontan 投稿日時: 2014-1-16 19:58:59 (436 ヒット)

外資系ハゲタカファンドが破綻した九州の地熱開発会社の再生に乗り出す。原発の危うさを指摘し、地熱発電こそが将来の日本のエネルギー対策の礎となると唱える元原子力の専門家で今は地熱発電に命をかけている技術者とファンドから派遣された女性社長の物語。

初出は2005年とある。「ハゲタカ」が上梓されたその翌年に書かれている。そせいもあるのか、ファンドの「やり方」が実にうまく描かれている。なるほどと思いながらページをめくっていく。しかし、本作品は単なるファンドの企業買収劇にとどまらない。日本の原子力行政の裏側をひもときながら、原発が抱える諸問題にも触れ、地熱発電の基礎をレクチャーし、これからのエネルギー対策のあり方について考えさせ、しかも、物語全体には泥臭い人間ドラマが流れている。そう思うと、この作品はドラマハゲタカの遺伝子を受け継いでいるような気もする。

テーマがてんこ盛りにもかかわらず、コンパクトな作品に仕上がっていて、ちょうどよい読み加減であった。


投稿者: hangontan 投稿日時: 2014-1-12 18:26:03 (514 ヒット)

我が家には「ハゲタカ」が鎮座ましましている。
文庫本とテレビドラマ「ハゲタカ」のDVD。「ハゲタカ」以来、うちのかみさんはワシヅの虜、というより、ワシヅ役の大森南朋に魂を抜かれてしまった。かみさんの携帯の待ち受け画面はもちろん私(ワシ)ではなくワシヅ。「竜馬伝」で武市半平太として出てきたときなんぞ、テレビの前に陣取って正座して観ていたくらいだ。というわけで我が家ではワシヅとかみさんは一応公認の仲になっている。だが、しかし、私には有働アナがいる。朝の連ドラのあとの「あさいち」で毎日その笑顔を拝めるのだから、ワシヅより露出頻度は高いだろう。ワハハ、俺の勝ちだ・・・。

さて、友達のブログに触発されて初めて真山仁の本を手にとった。ブログで紹介されていたお勧めの作品が手に入らなかったので、とりあえず選んだのがこの「コラプティオ」。真山仁といえば「ハゲタカ」の原作者とうことぐらいにしか頭になかったが(私はまだ読んでいない)、件のブログによるとエネルギー問題を扱った秀作であるとか。それは、またのお楽しみとして。

さて、この作品も原発問題が絡んでいる。あの「ハゲタカ」の原作者、友達のブログ推薦ということもあって、はたして「真山仁」とはどんな作家なのかと意気込んで読んでみた。作品冒頭の「つかみ」からはこれから始まる物語への期待を抱かせたが、それはすぐに消え去り、なんかしっくりとこない。なんか変?話が上滑りしている感がぬぐえなっていった。そして、違和感を心の隅に抱えたまま物語は終わってしまった。読む前の期待度があまりにも高かったせいなのか・・・。それゆえに星二つ。

ネット上の書評は押し並べて高い。中には自分と同じ印象を受けたものもいるにはいるようだが、それは少数派で、平均点はかなり高い部類にはいるようだ。

なんかしっくりと来ない理由。それはこの本が出された経緯にも要因があるようだ。読み終えてから分かったのだが、もともとこの作品は2010年3月号から翌年5月号まで『別冊文藝春秋』で連載され、連載最終締切が2011年3月14日だったのだという。つまり、東日本大震災の三日前ということになる。作者は「作品の性質上、その震災と福島県で発生した原子力発電所の事故を踏まえて作品を発表することが小説家の使命と考え、ご批判は承知の上で加筆修正を行いました」と本作品の謝辞で述べている。もともとあった作品に未曾有の災害で起こったトピックを混ぜ込んだのがもっとも大きな「しっくり来ない理由」となったのだと思う。加筆修正が悪いと言っているのでない。それが付け焼刃的に終わってしまった感がぬぐえない。

また、この作品には様々な物語が組み込まれている。政治と人、原子力を含めたエネルギー問題(震災の前後を含めた)、ODAが抱える諸問題。それらをうまく融合させた作品にしたかったのだろうが、その試みはうまくいかなかったようだ。ネット上では、原子力問題への一石とか、語り部となるカリスマ首相への賛美が目立つが、自分にはそれが伝わって来なかった。首相の若きエリート秘書官と彼と同級の新聞記者との物語もまたしかり、それ以外のすべての物語において上滑りしている。というのが率直な感想である。うまい表現が見当たらないのだが、例えるならこの作品には「暗くて深い川」がない。いつそこに行きつくのかと期待しながら読み進んだが、とうとうそれには出逢わずじまい。
まぁ、次の作品に期待しよう。


投稿者: hangontan 投稿日時: 2014-1-9 18:56:40 (437 ヒット)

今回は抱腹絶倒爆笑コメディー。
張りつめた中にちょっとしたコーヒーブレイクのようなワンショットがたまにある、という硬派な作品ではない。それでも池井戸節は健在だ。世相、今回は政治、を風刺した喜劇を通して、登場人物に池井戸潤ならではの男の矜持を、人としての生き方を語らせている。

出だしは国会から。突然、ときの総理大臣とその放蕩息子の脳みそが入れ替わり妙な展開に。まぁ、そこまではどこにでもある話で、あれっと、思ったが、やっぱり池井戸潤は違った。あっちでも、こっちでも心を入れ替えられた国会議員が出始める。入れ替えられた双方の物語が同時進行していくものだから、頭の中がこんがらかってしまう。はたして、これはどっちだったっけ?

さて、主人公の総理大臣と出来の悪い息子。就職希望会社の面接で、方や国会で、心が入れ替わった二人が本音をさらけ出し、めちゃくちゃにしてしまう。これがまた笑わせてくれる、と同時にうならせてもくれる。あいかわらず鋭い切れ味。

ミステリー仕立てになってはいるが、謎解きとしての詰めは甘い。しかし、この作品では謎解き部分は本筋ではないので、それはご愛嬌といえよう。


投稿者: hangontan 投稿日時: 2014-1-7 17:46:37 (443 ヒット)

例えるなら、無邪気な幼子が絵を描いている姿を想像してみよう。そして、その子がそのまま大人になって、今度はその素直さの対象が女性になった、そんな憎めない色男の物語。
主人公はテレビの「二十四時間国際ニュース」の記者であり、アンカーマン。彼がインドで取材中、ライオンに左手を噛まれ、手首から先を食いちぎられるという不幸な出来事があった。その場面がそのまま放映され、彼は一躍注目を浴びることになる。そして、ふとした偶然から、手首から先の移植を受けることになり、彼は「第三の手」を得る。その間、冒頭からも、女好きの主人公の行きあたりばったりの漫才にも似た放蕩ぶりがページを埋め尽くす。

さて、問題は本の題名が「第四の手」ということ。はたして物語がどこで、どうやって「第四の手」と交わるのか、そこに興味がいく。そして作者はうまくそこに導いていく。

訳し方の影響もあるのだろうが、ジョン・アーヴィングの文章は平易でわかりやすい。話の伏線といったようなものはあまりない。なにも考えずに、すらすらと思いのまま書きつらねているという印象がある。内容も荒唐無稽なものが多い。本作品のように「不幸」な人物を描いているわりには、全然悲壮感を感じさせない。それどころか、心あたたまるものばかり。本作品をして訳者はあとがきで「艶笑コメディー」と述べているが、まさしくその表現がぴったりであろう。


投稿者: hangontan 投稿日時: 2014-1-4 18:09:00 (387 ヒット)

「クリフトン」シリーズ第二部。
運命のいたずらによって離ればなれとなってしまったエマとハリー。だが、時代の波に翻弄されつつも双方とも誠実に生きていこうとする姿勢は変わらない。そして、彼らを見守るよき友と仲間によって支えられ、また迫りくる危機を幾度も乗り越えて二人の運命の糸は再び交わろうとしている。

第一部でもそうであったが、役者たちの立ち位置にぶれがない。よどみのないストーリー展開は読んでいてとても心地よい。そして、下巻になってやってくる大きな波のうねり、ハリーが収監されたことから起こる思わぬ展開。著者自身の獄中体験が物語に反映されているのだろう、獄中の物語と生活描写は実にリアルだ。ハリーの相続権を巡っての議会での討論場面も、実際に議員経験のある筆者ならではの臨場感、なかなか読み応えがある。
クライマックスは最終章の一つ前にやってくるという定石も外さず、余韻をもって次回作に繋がる終わり方はさすがだ。


投稿者: hangontan 投稿日時: 2013-12-25 17:55:22 (398 ヒット)

★の数に一瞬迷ったが、ちょっとは読ませてくれたので、とりあえず三つ。
分厚く重い(内容も)長編である。
赤間関市が舞台となっている。赤間関市とは架空の名前かと思ったら、山口県の実在した名前だった。

「とりあえず三つ」とした理由は、複数の主題と題材が組み込まれているが、その繋がりと整合性にやや難があるような気がしたからだ。一つ一つの主題となる物語、それ自体はおもしろいと思う。作者はそれらを入れ子にした長編としたかったのだろうが、その繋ぎが雑であるため全体として何が言いたいのかわけがわからない作品となってしまった。複数の挿話を独立させた短編集としてもよかったのではないかと思う。さらに、挿話をなす物語の設計図にも若干の無理がある。発想自体はおもしろく、読ませる気にさせてくれるのだが、え?何で?と首をかしげたくなるような場面に幾回も出くわす。つまり、本書は良い悪いがないまぜの長編小説なのである。

海辺の町の赤間関市と山口市の描写には秀逸なところもあり、人物描写も直截的で、場面を頭の中で描くのはたやすい。「先帝祭」も挿話として興味深く描かれている。赤間関に縁のある人や山口県、その近県の人が読んだらまた違った印象を受けるかもしれない。


投稿者: hangontan 投稿日時: 2013-12-21 18:17:16 (510 ヒット)

「副題としてケネディ・テープ 50年後明かされた真実」とある。
キャロライン・ケネディ氏の駐日大使赴任と期を同じくして発刊された本書は、偶然なのかタイムリーなのか。彼女が序文に父に対する思いを綴り、本書への謝辞で締めくくっている。
大統領がその時々に見せた表情をとらえた写真もふんだんに掲載されており、テープの内容に、より臨場感を与えるのに役立っている。

本書はケネディが大統領就任時代、1962年から非望の死を遂げた1963年11月まで、自ら執務室に設置した隠し録音装置と電話録音機のテープを文章に起こしたものである。その録音時間は256時間にも及ぶ。そのテープはケネディ大統領図書館に保存されており、公開され、いつでもネットから閲覧できるという。ケネディ大統領就任50周年にあたり、その膨大なテープの中から最も強力で重大な部分を選出し、2枚組のCDにまとめられたのが本書である。その編集にテッド・ウイドマーがあたっている。

ケネディ伝説の舞台裏となった「大統領執務室」で、ケネディが誰とどんな話をしたのか、とても興味深い。生の声と会話から、ケネディのビジョンと人となりにより近づくことができるからだ。そこには確かに、大統領と数多くの相手方との忌憚のない会話がみてとれる。だが、相手方には録音のことは知らされず、ケネディだけが録音されていることを承知の上で事に臨んでいるのだから、はたして、それが本当に心から発した「何も包み隠すところのない肉声」なのか、あるいは、後々問題となることがあったときに備えての「言い訳」となる発言であったのか、疑問がないでもない。大統領の発言や大統領との会話は録音されていることが周知のことである現在とでは、録音テープの持つ意味合いは、ケネディのころとでは違って来るのでのではないか(相手方が録音を承知の上で話しているか否かという点で)。

会話の途中にケネディの子供たちがときどき執務室に「おじゃま」してくるのだが、そのときのやり取りがとても微笑ましい。なかでも、ソ連との冷戦たけなわのころ、ソ連のグロムイコ外相との会談のおり、そこにも子供たちが入ってきて、そのときのグロムイコ外相の破顔した表情が会話からみてとれて、笑ってしまった。

本書にはケネディが力を注いだ様々な問題に関するエピソードが記録(録音)されている。中でも興味を引いたのが「公民権運動」と「キューバ・ミサイル危機」について。残念ながら「ベトナム戦争」では目立った功績がなかっただけでなく、エスカレーションへの口火を抑えられなかったこともあってか、その内容は乏しい。くしくも内政と外政とについて、ということになるが、双方ともケネディが歴史の渦中にあって、新たな歴史を作っていったことを物語っている。決してケネディだけが歴史を作ったのでなくて、「歴史は導かれるように築かれていく」のだが、ケネディがそこにいなくては歴史はそうはならなかったかもしれない。そこにケネディがいたことの必然性を新たにした。


投稿者: hangontan 投稿日時: 2013-12-17 18:11:53 (410 ヒット)

アーナルデユル・インドリダソン、二冊目。
先に読んだ「湿地」よりも読後の印象が深い。

「湿地」では人物があまり書き込まれていなかったのに対して、今回の「緑衣の女」では人が十二分に書き込まれ、作り上げられている。その分、面白さに厚みが増したのだろう。

地中から出てきた白骨死体から遡る悲しい家族の物語。ミステリーを通して重厚な人間ドラマを描くのがアーナルデユル・インドリダソンはとてもうまい。前作同様、事件の根幹をなすモチーフの設定が秀逸。解決した後の余韻がひたひたと残る作品だ。


投稿者: hangontan 投稿日時: 2013-12-13 17:31:06 (425 ヒット)

この薬の名前のような著者はアイスランドの作家。
アイスランド語(約三十万人にしか使われていない言語)で綴られた本書は、英語、ドイツ語、スウェーデン語などに訳され、世界的なベストセラーになったという。日本語訳はスウェーデン語から起こされた。訳者は翻訳にあたって、アイスランドを訪れたとのこと。作品の背景となったその地の空気を、雨を、人を肌で感じて、イメージを膨らませることが翻訳という作業には大切なのかもしれない。その努力が報われたよい日本語版に仕上がったのではないかと思う。
一見、地取り捜査一辺倒の地味な展開にみえるが、物語の底に流れる人間模様が次第に重さを増してくる。そして訪れる悲痛な結末。


投稿者: hangontan 投稿日時: 2013-12-11 17:48:34 (447 ヒット)

ジェフリー・アーチャーはやっぱり面白い。

相変わらずツボを心得たストーリー展開にみいってしまう。テンポのよさにあれよあれよと引き込まれてしまう。と同時にいつの間にか自分の頭の中で物語を「組み立てながら」読んでる。人物の作り方も実にうまい。物語が進むうちに自然と登場人物が形作られていく。「まさか本当にそうなるのか」という場面もあるが、反面その次に来る物語に期待してしまう。そして、ジェフリー・アーチャーはそれを外さない。

方や富豪の生れ、そして方や貧乏を絵にかいたような家庭、しかも、二人は同じ父親を持つかもしれないという古典的な設定。そんなエマとハリーの波瀾万丈の青春ストーリー。だが、ジェフリー・アーチャーは両家族と彼らを取り巻く社会的背景の綾を見事に織り込んで壮大な人間ドラマに仕上げている。


投稿者: hangontan 投稿日時: 2013-12-4 18:12:53 (464 ヒット)

円城塔、五冊目。

初出/「群像」二〇〇八年五月号。
単行本化にあたり「注」を加筆しました。
とある。

まともに読めるのはその「注」ぐらいであり、「注」といいながら、本文を補筆しているといっていいくらいのボリュームはある。本文となると、部分部分は理解可能なところもあるにはあるが、全体としては支離滅裂。
本文が上段、「注」が下段というデザインになっているので、双方みくらべながら読み進むという妙な読み方になる。そういう読み方がおもしろいと言えなくもない。

円城塔の作品はこれで五冊読んだことになる。
だが、なかなか掴みどころがない作品ばかり。ネット上では熱烈なファンも見受けられるが、これら五冊を読んだかぎりでは、そういう彼らの言い分も理解できない、というのが率直な感想。だが、誰も書けないような、理解できないような、支離滅裂な小説を書けること、それはそれで“すごいこと”なのかもしれない。


投稿者: hangontan 投稿日時: 2013-11-28 17:44:35 (765 ヒット)

円城塔、四冊目。やっぱり物語としては支離滅裂、理解不能。
単行本のカバーには「想像力の文学」とロゴが打ってある。
確かに、円城塔の作品は想像力が並大抵では敵わない、おもしろくない。
だが、本の題名にもなっている「後藤さんのこと」と「考速」には文字遊びの趣向がこらしてあって、読むパズルが組み込まれている。そこらへんが、これまでの作品と違って若干読む気を誘ってくれる。

以下「考速」から引用

いたりしはなをよばぬはな
到りしは名を呼ばぬ花
射たりし花、及ばぬは名

うしおいてつきこえはしりぬく
牛追いて月越え走り抜く
潮凍てつき声は知りぬく

そのここのえのころもつくろう
その子この絵の頃、持つ苦労
その九重の衣繕う

このはてにさいはいきてわかれいけり
この果てに犀は生きて別れ生けり
木の葉手に、幸い来ては枯れいけり


しおもてなおさむからんおうのみぎわ
死をもてなお寒からん王の汀
塩もて直さんか卵黄の右は

いしまいるともうすらひをふみゆきたり
イシマイルと申す雷王見ゆ、来たり
石参る友、薄氷を踏み行きたり


彼の夏の日
彼女の夏の休日
彼女と夏の旅休日は
彼女と別の夏の旅行、休日はずし
彼女と別れの夏の旅行に、休日はずしり

そうさそうそうさそうさされそうされる
そうさ、そう操作、そう刺され、そうされる
そう誘う、そう誘う、刺されそう、される

あくるひすいかわらずにくらし
あくる日西瓜割らずにくらし
飽くる翡翠変わらず憎くらし

それらはにかよいあいしあう
それら鰐通い合い、試合う
それらは似通い愛し合う

みなのためしあわせのみちとほねにあり
御名の為、幸せの道、遠嶺にあり
皆の試し併せ飲み、血と骨に蟻

ひとつかみあみあげんとおきへめぐり
一つ神編みあげん、遠き経巡り
一掴み網あげんと、沖へめぐり

このおとこのことばかりとしていとわぬもちきたりししおもたらさむとておわる
こと男のことばかりと師弟問わぬも稚気たり、獅子尾をも垂らさんととて追わる
この音、この言葉、狩りとして厭わぬ、持ち来たりし死をもたらさんとて終わる


投稿者: hangontan 投稿日時: 2013-11-26 17:52:41 (442 ヒット)

円城塔、三冊目。
先読んだ二作品からくらべると、若干頭の中で物語が再構成できる。だが物語としてはやはり支離滅裂。
この作品も数学理論の文字比喩遊びという感がぬぐえない。
なんでこの作品が、文學界新人賞を受賞し、芥川賞候補作品となったのか?合点がいかない。


投稿者: hangontan 投稿日時: 2013-11-24 16:55:47 (451 ヒット)

円城塔、二冊目。
先に読んだ「Self Reference ENGINE」も皆目理解できなかったが、こちらもさっぱり「読めない」。SFシリーズと銘打ってあるのだから、SFの範ちゅうに入るのだろうが、自分がこれまで親しんできたSFとはかなりかけ離れている。
数学を言葉遊びでなぞらえているような気もするし、何か哲学めいた雰囲気もする。言語明瞭意味不明瞭。一つだけ間違いなく言えるのは、読んでいて映像化できないこと。物語(となっているとすれば)に入っていけない。それはやはり想像力の欠如の所以だろうか。


投稿者: hangontan 投稿日時: 2013-11-20 6:03:41 (485 ヒット)

 はっきり言って難解な作品。
シュールな随筆といえばそうとれなくもないが、小説というには理解不能の作品だ。
ただ単に自分の想像力の至らなさかもしれない。


投稿者: hangontan 投稿日時: 2013-11-12 19:41:48 (409 ヒット)

感想文を書く前に、世の読者はどんな風にみているのかとググってみたら、ビックリした。ドラマにもなっているし、公式サイトまである。やっぱり、世の中は自分の知らないところで動いている、との認識を再確認した。ゆるやかな出だしだが、中盤以降ホラー度が一気に加速する。映画「スクリーム」に似ている雰囲気。だが、そのいきなり急展開する運びには少し違和感を覚えた。強引というかイージーすぎる。しかし、これだけ人気の作品、ドラマではどう描かれているのか、ビデオで見てみたい気もする。


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